王朝期3 ~武家政権の萌芽~

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特定商取引法に基づく表記

10 後三条天皇の即位

 

 河内源氏が摂関家のもとで東国の治安維持にあたっていた頃、中央政界にも変化が生じておりました。まずは、藤原道長の息子同士の権力闘争です。藤原頼通も、摂関政治を極めた父・道長の手法を踏襲して、①天皇家との外戚関係の構築と②子息への権力移譲を目指します。しかし、①天皇家に娘を嫁がせても皇子が生まれず、また、②関白の継承も彰子の反対によって頓挫しました。そして、摂関家と外戚関係のない後三条天皇の即位が不可避となったことを受け、1067年、弟・教通に関白を譲りました。

 できれば自分の系統に権力を継承させたかったけれど、それが叶わないのであれば、他家に権力が移ってしまうよりは弟の系統に継承させておこうという判断でしょう。しかし、どういうわけか教通も①皇子を得られず外戚化に失敗するのです。しかも、兄・頼通と弟・教通の権力争いを調整できるかつての安子・詮子・彰子のような国母も残っていなかったため、両系統の争いは後三条天皇の調停に持ち込まれることになりました。

 後三条天皇は、頼通の次男・師実(もろざね)への関白継承の願いを拒絶する一方で、師実の養女となっていた賢子(けんし)と貞仁(まさひと 後の白河天皇)親王の結婚は認めました。もし賢子と貞仁親王の間に皇子が誕生すれば、養父とはいえ師実は天皇の外祖父の地位につくことになるため、将来の権力獲得に期待をもたせる解決でした。

 貞仁親王に嫁いだ賢子は善仁(たるひと)親王を生んだため、親王が即位すれば師実が外祖父の立場から権勢をふるうことが想定されました。しかし、後三条天皇は1072年に突然貞仁親王に譲位してしまいます。しかも、東宮に擁立されたのは賢子が生んだ善仁親王ではなく、摂関家とは外戚関係にない実仁(さねひと)親王でした。

 つまり、見ようによっては、後三条天皇は自ら頼通系に外戚化の期待を抱かせておきながら、皇子誕生を受けて外戚関係の復活を阻止する方向に動いたとも理解できるのです。後三条天皇の母は、かつて皇子誕生を期待していた藤原道長が女子と知ってがっかりした禎子(ていし)内親王です。

 

11 白河天皇の「温情」

 

 1075年9月、藤原教通が死去したことで、関白の地位をめぐり今度は頼通・教通の息子たちが争うことになりましたが、ここでも決め手となったのは天皇周辺の女性の影響力でした。賢子の白河天皇に対する哀願によって、賢子の養父で左大臣の師実が、内大臣の信長を抑えて関白に就任することになったのです。

 しかし、師実も喜んでばかりもいられません。賢子の哀願を受けた白河天皇の温情によって関白の継承が決まったということは、以後、白河天皇には頭が上がらないということになります。藤原道長の頃に全盛期を迎えた藤原摂関政治は、後三条天皇の謀略と白河天皇の「温情」に直面して衰退過程に入っていくのです。

 摂津源氏の多田頼綱(よりつな 頼光の孫)は、この師実に仕えるとともに、多田満仲以来の武家源氏発祥の地・摂津多田荘も寄進して、摂関家の私的武力としての役割を担っています。そして、師実との主従関係は師通の長男である忠実(ただざね)にも引き継がれていくのです。

12 後三年の役

2009年9月19日
金沢柵から(秋田県)

 中央政界で藤原摂関家の勢いが落ちてきた頃、地方では再び紛争が生じておりました。1083年、前九年の役で勝者となっていた奥州の清原家で内紛が生じ、今回も河内源氏の源義家(頼義の子)が陸奥守・鎮守府将軍に任じられたうえで、東国の武士を率いて奥州に赴くことになりました。いわゆる後三年の役です。

 この戦いの前に、漢文学者・大江匡房(おおえのまさふさ)が『孫子の兵法書』の「鳥たつは伏」を義家に教えておいたため、義家は鳥が飛び立つのを見て伏兵の存在に気付くことができたという逸話も残っています。

2009年9月19日 金沢柵(秋田県)

 また、義家の弟の義光にも、左兵衛尉の官位を捨ててまで兄の救援のために奥州に馳せ参じたという美談が残っていますが、これには白河上皇に無断で奥州に向かったため解任されただけなのではないかという指摘もあるところです。

 この義光の末裔の1人が、軍旗に『孫子の兵法書』の『風林火山』を採用した武田信玄です。かなり古い話ですが、NHKの大河ドラマ・『武田信玄』で、重要な戦いの前に「御旗たてなし」に戦勝を祈願するシーンがありましたが、あの鎧は義光の鎧とされています。

 頼義の長男の義家は、京都の石清水八幡宮の社前で元服したことから、「八幡太郎」と呼ばれました。

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 次男の義綱は、賀茂神社で元服したことから、「賀茂次郎」と呼ばれました。

 三男の義光は、近江の新羅明神で元服したことから、「新羅三郎」と呼ばれました。

 清原氏の内紛を勝ち抜いた清衡(きよひら)が、清原氏の地盤を継承して奥州藤原氏初代となるのです。他方、東国の武士を率いて内紛を鎮めた義家は、前九年の役の戦後処理とは異なり、朝廷から今回はあくまでも「義家の私戦」と認定されてしまい、配下への恩賞を自ら捻出する必要に迫られるなど、白河院政のもとで苦しい立場に追い込まれていくのです。

13 白河院政初期

 

 1086年、白河天皇が退位して、堀河天皇が即位しました。後三条天皇は、実仁親王が死去した場合はその弟の輔仁(すけひと)親王を即位させるよう命じていたのですが、白河天皇はこれを無視して実子の善仁親王を即位させたのです。これは、単に我が子可愛さのみからそうしたのではなく、院政とは天皇の直系尊属が行うものであるということを示す意味がありました。

 また、賢子が生んだ善仁親王の即位により、賢子の養父である藤原師実は天皇の外祖父ということになり、藤原道長以来の外祖父摂政となりました。ただし、白河天皇の温情による権力継承という負い目があることから、権力行使には自ずから制約がつきまとうところが道長の時代と違うところです。

 1094年、師実は道長が頼通に譲った先例にならい、長男・師通(もろみち)に関白を譲りました。しかし、翌1095年、延暦寺・日吉神社の源義綱(よしつな)に対する強訴を撃退する際、神輿や神人に弓を射てしまいます。師通は1099年に突然死去してしまうのですが、人々は強訴撃退の祟りと畏れ慄いたといいます。これにより、朝廷は宗教的権威を畏れて弱腰になるとともに、強訴はますます激しくなっていきました。

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 父・師通の突然の死去により、長男の忠実が政治経験に乏しい状態のまま摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)に就任しました。「忠実」は漢文学者・大江匡房による命名です。忠実は祖父・師実の養子に入っており、師実の庇護のもとで官位を得てきました。しかし、この時点では権大納言であった忠実は関白を継承できず内覧にとどまったことから、政務の最終決定権が白河院に留保されるとともに、道長以来続いてきた摂関が一時的であれ途絶えることになりました。

 院近臣(いんのきんしん)と呼ばれる新興勢力が台頭するなかで、1101年2月には後見役であった師実も死去したため、忠実は頼りにできる身内を失った状態から摂関家の衰退の流れに抗わなければなりませんでした。なお、忠実は、師実の死の2ヶ月後、氏寺の法成寺(ほうじょうじ)と宇治の平等院の大改修を命じています。この時の忠実による大改修の結果、平等院が今日の姿になりました。

14 伊勢平氏の台頭

 1096年8月、白河上皇と賢子の間に生まれた媞子(ていし)内親王が21歳で死去してしまいました。1097年10月、媞子の御所を死後に仏堂に改めた六条院の落成供養が執り行われましたが、その約1ヶ月後、伊勢平氏の平正盛(たいらのまさもり)は、所領の伊賀を六条院に寄進します。

 愛娘の死から約1年3ヶ月が経過しています。まだ心の傷が癒えているとは到底言えないけれども、相変わらず嘆き悲しんでいるというわけでもない、落ち着きを取り戻しつつあるこのタイミングで、「心中お察しします。内親王のために、つまらないものですが・・・」という意味合いで寄進したのです。この振舞いによって白河上皇のおぼえめでたくなった伊勢平氏は、白河院政のもとで重用されることになるのです。

 伊勢平氏は、桓武平氏のうち伊勢を本拠地とした勢力で、正盛以降、院に仕えて賊の討伐などの治安維持活動に従事するかたわら、寺院の建築を請負うなどして白河院に奉仕し、その褒美として実入りの良い受領に任じられて財を成していきました。正盛・忠盛が2代にわたり築いてきた地位が、やがて清盛に継承されていくのです。

 他方、白河院の河内源氏に対する姿勢は冷淡なものでした。源義家による後三年の役の鎮定を「私戦」と認定しただけでなく、義家に対する荘園の寄進を禁じたり、義家の荘園を停止したりして、経済的に抑え込んでいきます。1093年、出羽で起きた反乱の追討命令はあえて義家ではなく義綱に発せられ、見方によっては、河内源氏内部の主導権争いを煽って弱体化させようとしているとも理解できます。

 1098年、義家は長らく処遇の決定を放置されたものの、武士としては初めて院への昇殿を許される名誉にあずかります。ただ、白河院政における「平高源低」の流れは、年を経るごとに明白なものとなっていきます。

 1106年7月に義家が死去した後も河内源氏の衰退は続きます。翌1107年、源義親(よしちか)が、対馬守在任中に官吏を殺害した罪で隠岐に配流される途中、目代を殺害して出雲に潜伏するという事件を起こしてしまいました。この時に義親の追討を命じられたのが、当時はまだ無名だった伊勢平氏の平正盛なのです。多くの人々に、「源氏の時代から平氏の時代へ」という印象を抱かせた事件でした。

 さらに、1109年には義親の後継者と目されていた義忠が何者かに夜討ちをかけられて死去してしまうのです。源氏内部の内輪もめと思われますが、犯人とされた源義綱の追討を命じられたのも河内源氏の源為義(みなもとのためよし)でした。追討を受けた義綱系は滅び、以後は為義が嫡流を継ぐことになりましたが、為義はまだ14歳です。

 源義家の台頭を懸念した白河院によって、まずは義家が抑えられ、次いで、義家の後継者であった義親が伊勢平氏の平正盛により討たれ、さらに、義親の後継者と目されていた義忠も殺害され、犯人の追討も源氏同士の潰し合いとなり、最後に残ったのはまだ14歳の為義ということになります。こうして、白河院政のもとで衰退する源氏を尻目に、伊勢平氏が台頭してくることになるのです。

15 白河院政の本格化

 1105年、藤原忠実は関白に就任しますが、これは白河院による補任です。1107年、堀河天皇が崩御して5歳の鳥羽天皇が即位したことで摂政が必要になったため、忠実は鳥羽天皇の摂政に就任しますが、これも白河院による補任です。人事権を握られた摂関家は院への従属の度合を強め、これ以降、白河院政が本格化していくのです。

 再び即位を阻まれた輔仁親王の存在が、白河院と忠実の協調関係に寄与した面もありました。今日においても、国家間の同盟関係の維持に重要な要素として、①共通の価値観と②共通の敵の存在という2要素がしばしば挙げられます。白河院と忠実の間にどこまで①価値観の共有があったかはわかりませんが、2度にわたり輔仁親王の即位を阻んだ事実からすれば、少なくとも客観的には②共通の敵となる可能性は認められましょう。

 摂関家が人事権を喪失したことで貴族や武士らの離反も相次ぎ、経済的に苦しくなった忠実は経済的基盤の確保のために荘園集めに奔走することになります。また、武士の離反は武力においても院への従属度を高めることにつながりました。人事権が誰にあるかは、誰の顔色を見ながら仕事をするかにつながりますので、今日においても権力闘争における重要な要素であり続けています。

 

 実はこの時の忠実の摂政就任は、従来の理論からは疑義があるところでした。藤原公季(きんすえ 師輔の子)に始まる閑院(かんいん)流の藤原公実(ふじわらのきんざね)の主張を法的三段論法に即してご紹介すると次のとおりです。

・大前提
 摂政とは、天皇が幼少の時期に、天皇の外祖父・外伯・叔父が就任するポストであって(大叔父だった実頼を除く)、関白には外戚関係にない者が就任した前例があるが(頼忠)、摂政には前例がない

・小前提
 藤原忠実は外戚関係にない者である

・結論
 藤原忠実は摂政に就任できない

 このような公実の主張に対して、新たな論理を構築することによって反駁を加えたのが源俊明(みなもとのとしあき)でした。彼は、「摂政とは、外戚関係とは関係がなく、代々摂政・関白を継承してきた家の者が就任するポストである」と主張して、「摂政」というポストを再定義します。この主張が採用された結果、忠実が摂政に就任するとともに、以後、原則として忠実の子孫が摂政・関白を継承していくことになりました。

 このように、前例との整合性を意識することは責任ある政治において重要ではありますが、時代の変化に即応する形で各時代の知識人が新たな論理を提供していくこともまた真理といえるでしょう。なお、公実は政治的には敗北しましたが、閑院流からは彼の息子の代で徳大寺家・西園寺家及び三条家が成立しています。

 
 

 人事権を院に握られながらも院と協調してきた忠実でしたが、1120年11月、白河上皇の逆鱗に触れて失脚し、宇治で10年にも及ぶ蟄居生活に入ります。忠実には勲子(くんし 後の高陽院(かやのいん))という娘がいたのですが、鳥羽天皇から勲子の入内の誘いを受けた忠実が、院に無断でこれに応じたことを白河上皇に讒言した者がいたためです。天皇の后の決定権は白河院にあるとされていましたから、たとえ天皇の誘いに応じる形であっても、それは上皇の権限を侵す行為でした。しかし、そのような道理は忠実においても十分理解していたことでしょう。

 忠実が院に無断で入内の誘いに応じた背景には、勲子の入内が極めて困難な状況になっていたという事情があったのです。忠実には忠通という長男がおり、白河院の養女となっていた璋子(しょうし)との縁談が進んでいたのですが、忠実は白河上皇と璋子の密通の噂が流れるなどの不品行を嫌ってその縁談を断っていました。すると、白河上皇は璋子を鳥羽天皇に嫁がせてしまったのです。

 鳥羽天皇からすれば、自身の配偶者を白河上皇から無理矢理押し付けられた形になり、忠実からすれば、勲子を鳥羽天皇に嫁がせて外戚関係を復活させることが極めて困難になったことを意味します。このような両者が、白河上皇の熊野詣の隙に無断で入内の話を進めてみたものの、それが讒言により露見してしまったということです。

 鳥羽天皇と白河上皇の対立は、1123年、天皇が5歳の崇徳天皇に譲位するという形で解決が図られました。これにより、天皇と上皇の対立は幼帝への譲位により解決するという指針が示された格好となりました。また、職を解かれた忠実も、1129年7月に白河上皇が崩御するまで政界復帰することができませんでした。

 白河院政期には、中央政界では伊勢平氏が重用される反面、河内源氏が弱体化させられましたが、地方にも目を向けてみますと、まず、1124年には奥州藤原氏初代・清衡が中尊寺金色堂を建立しています。奥州の豊富な資金力を背景として中央政界と結びつき、京の事情にも通じていたようです。

 次に、1130年には源義清・清光父子が、土地横領の罪で常陸国を追放されて市川大門(現在の山梨県)あたりに配流されました。義清は、武田郷を本拠として武田冠者を称しており、義清の系統から若狭の武田本家、分家の安芸武田家及び甲斐武田家が興るのです。

 武田と同じく新羅三郎義光の流れをくむ佐竹昌義も、この少し後に佐竹郷を本拠として佐竹冠者を称しています。ただ、源氏とはいえ佐竹家は中央政界の平氏の家人であった常陸平氏と関係が深かったため、後年、頼朝の挙兵に冷淡な態度を示したことで頼朝から討伐されかけることになります。

2009年3月12日
金砂城址から(茨城県)

16 藤原忠実の復権

 

 白河上皇の崩御により鳥羽院政が始まりますが、鳥羽上皇としては、自らの誘いに応じた結果として10年もの長きにわたり蟄居を余儀なくされた忠実を、できる限り早期に復権させたいところです。しかし、院には白河派勢力も残っているため、下手に動けば復権への流れを潰されかねません。それゆえ、慎重に時機を待つことになります。

 ただ、上皇も単に待っていただけではありません。かつて白河上皇の命により平正盛によって源義親が追討されましたが、その後も義親を自称する人物がたびたび現れて世間を騒がせていました。鳥羽上皇は、再び現れた自称・義親を忠実の富家殿(ふけどの 宇治の別荘)に匿わせています。白河上皇によって討伐された人物を忠実の別荘に匿わせたことは、上皇の「忠実を復権させる」という意思を行動によって示すものといえましょう。

 1132年正月、院における拝礼で、忠実は正式に国政に復帰します。白河天皇の「温情」によって関白に就任した養父・師実とは異なり、忠実には鳥羽上皇に対する負い目はありません。むしろ、勲子の入内の際、通常であれば女性の側が上皇のもとを訪れるところ、上皇の側が勲子を訪問したという異例の対応からすれば、負い目があったのは上皇の方だともいえます。既に長男・忠通の娘の聖子が崇徳天皇に嫁いでいるため、外戚関係の復活の可能性もありそうです。

 ただ、白河院政期以降、院の政務決済の補佐役の実務官僚(院近臣 いんのきんしん)が台頭してきており、摂政・関白の政治的影響力は相対的に低下しておりました。藤原顕隆・顕頼(あきより)父子が白河院の政務決済を補佐する反面、忠実と政治的な緊張関係を生じ、顕頼の死後は信西・俊憲(としのり)父子が頼長(よりなが 忠実の子)と緊張関係にたちました。

 

 再び地方に目を向けてみますと、1133年には、比叡山で修業した後に浄土宗を開いた法然が生まれています。

 1136年、坂東において土地をめぐる注目すべき紛争が生じます。千葉家が租税の未納を口実として、相馬御厨(そうまみくりや)を藤原親通(ふじわらのちかみち)に譲る書状を強引に作らされたのです。相馬御厨は、現在の千葉県我孫子市付近の土地で、御厨とは伊勢神宮の所領という意味です。確かに、現代の価値観に照らしても租税の未納があった点は千葉家の落ち度ではありますが、だからといって当然に土地まで奪って良いことにはなりません。千葉家としては、未納の解消に努めつつ相馬御厨に対する権利を主張し続けることになります。

 その後、今度は源義朝(みなもとのよしとも)からも相馬御厨の支配権を奪われそうになります。もちろん、千葉家としては親通との関係だけでなく義朝との関係でも権利を主張していくことになりますが、この時の義朝との紛争が、後年、千葉家に思わぬ災難をもたらすことになるのです。

 

17 天皇家・摂関家の分裂

 

 鳥羽上皇は、高陽院の入内の後、新たな寵愛の対象として得子(とくし 美福門院)を迎えます。1141年、得子が生んだ近衛天皇が即位したことで、得子は院近臣出身者としては初の国母となりました。閑院流に代わる新たな外戚の登場により、藤原家成(ふじわらのいえなり)ら新興の院近臣勢力と崇徳上皇に連なる勢力の間で対立が激しくなっていきます。

 また、近衛天皇の即位の際、崇徳上皇の養子に入っているはずなのに、宣命(せんみょう)では「皇太弟」とされていました。院政は天皇の直系尊属が行うわけですから、これでは崇徳上皇には院政をしく余地はないことになります。鳥羽上皇は、一貫して崇徳上皇を皇統から排除する方向に動いていきます。一説によると、崇徳上皇は鳥羽上皇の子ではなく、本当は白河上皇の子だったともいいます(『古事談(こじだん)』)。

 
 

 さらに、忠実とその長男・忠通との間にすら紛争の火種はあります。まず、内覧・忠実と関白・忠通の並立状態が不安定要因となります。忠実が宇治で蟄居している間も忠通は関白として職務を遂行してきたわけですから、今さら内覧として父に戻ってこられても自らの権限が制約されるだけともいえます。忠実と忠通は興福寺の統制方針をめぐって対立し、やがて外戚化競争の末に我が子を義絶するほど対立を激化させていくのです。

18 保元の乱

 

 1155年、近衛天皇が皇子を得られないままわずか17歳で崩御したため、皇位継承者を決定する会議が開かれますが、結果は予想外のものとなりました。最有力候補と見られていた重仁(しげひと)親王(崇徳上皇の皇子)ではなく、守仁(もりひと)親王の即位の前提として雅仁(まさひと)親王(後白河天皇)が即位することとなったのです。

 重仁親王が即位すれば、崇徳上皇が天皇の直系尊属の立場から院政を行えたはずでしたが、近衛天皇の即位の時に続き、またしても崇徳上皇は院政を封じられたのです。天皇家の皇位継承争いに摂関家内部の争いや貴族間の権力闘争、さらには武家同士の抗争も絡み合うなかで不穏な空気が漂っていきます。

 病に伏した鳥羽上皇は、自分の死後に武力衝突が起きることを予見して早くから準備を進めていました。1156年7月2日、鳥羽上皇は崩御しましたが、鳥羽上皇側としては、挑発によって崇徳上皇側に反乱を起こさせることで被害者的な立場を装いつつ、真実はその機会を積極的に利用して返り討ちにすることによって崇徳上皇側を政治的に完全に葬り去るというプランを抱いていたと思われます。

 鳥羽上皇の死後、上皇側の思惑どおり、藤原頼長が崇徳上皇を担いで挙兵しました。両陣営の構図は右のとおりです。後白河天皇側が国家権力による動員をかけたのに対して、崇徳上皇側の武力は摂関家の私的武力が中心だったという分析もあります。

天皇家   後白河     崇徳

外戚   美福門院     閑院流

摂関家  藤原忠通   藤原頼長・忠実

興福寺  反信実派僧    信実派僧

伊勢平氏  平清盛

河内源氏  源義朝     源為義

 

 7月10日の戦闘は、後白河天皇側の勝利に終わりました。11日、頼長は重傷を負い、奈良の忠実のもとに向かうのですが、忠実は我が子との面会を拒絶します。頼長が戦いに敗れた以上、頼長と面会しては自身の「中立性」を認めてもらえなくなります。忠実は私情を捨てて頼長を拒絶するとともに、摂関家の力を温存するという目的のために、これまで激しく対立してきた忠通への財産の移転に努めることになるのです。崇徳上皇は、仁和寺(にんなじ)に逃れたところを捕えられ、讃岐に流されました。

 同月、勝者となった忠通は氏長者への就任を受諾するのですが、これは摂政・関白といった公的なポストだけでなく、摂関家の内部人事までもが朝廷に握られたことを意味します。また、敗戦によってこれまで組織してきた摂関家の私的武力も失いました。人事権を失うとともに武装解除された摂関家の自律性や権威は決定的に損なわれ、ここに政治権力者としての藤原氏は終焉を迎えることとなりました。かろうじて「中立」のポーズが認められた忠実は、知足院(現在の大徳寺付近)に幽閉されることになりました。

 

2009年2月10日 旧日本軍豊砲台跡(長崎県対馬市)

 人事権の喪失と武装解除と聞いたら、日本人のなかには先の大戦を思い出す方もおられることでしょう。太平洋戦争の戦後処理においても、人事権と武装解除が重要な要素となりました。すなわち、戦勝国にとって好ましからざる人物は公職追放となり、また、当時の力関係の下で起草された新憲法は、その第9条において戦争放棄・戦力不保持を謳っています。1952年、サンフランシスコ講和会議において我が国は国際社会への復帰を果たしますが、それは戦力不保持に伴う防衛力の不足を日米安全保障条約によって補う形での独立でした。

19 平治の乱

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 保元の乱の後に権力を握ったのは、乱を勝利に導いた伊勢平氏と結んだ藤原信西(ふじわらのしんぜい)でした。信西の妻・朝子は後白河天皇の乳母です。保元の乱では、平清盛が与した側が勝利するであろうという力関係にあったこともあり、乱後の論功行賞において平氏一門は知行国を増やすとともに官位も昇進しています。他方、河内源氏は義朝が勝者となったものの父・為義の所領を失い、源氏全体としては所領を減らしていました。また、官位の昇進の面でも平氏一門には及びませんでした。

 このような不満分子と結んだのが藤原信頼(ふじわらののぶより)でした。信頼は、希望していた官位への昇進を信西の反対によって阻まれたことを深く恨んでいました。また、1158年に後白河天皇が退位して二条天皇が即位するのですが、信西は二条天皇による親政を望むグループからも疎まれていました。信頼は、源義朝という不満分子を抱き込むとともに、二条親政グループとは反信西の1点で協調することによって、1159年12月、平清盛が熊野詣に赴いた隙に挙兵して信西を討ったのです。

信西         信頼

         二条親政グループ

平清盛

          源義朝

          源頼朝

          源義経

         佐々木秀義

 熊野詣の途中で信頼の挙兵を知った平清盛は京に引き返します。そして、あえて下手にでることによって信頼側を油断させて、二条天皇を奪還することに成功します。また、当初は反信西という1点で協調していた二条親政グループも、信西という共通の敵を討ったことで信頼から離反していきます。状況を整えた清盛は軍事力をもって信頼を破り、捕えられた信頼は六条河原で処刑されました。平治の乱の構図は左のとおりです。

 保元の乱の勝者同士の権力闘争は平清盛の勝利で決着し、これ以降、平氏一門が栄華を極めることになります。

 源義朝は、大原から近江へ落ちのびた後、尾張で長田忠致(おさだただむね)の裏切りによって首をはねられました。

2009年10月18日 関ヶ原の戦い(1600年)の開戦地付近(岐阜県)

 源頼朝は、雪山で父・義朝らとはぐれてしまい、関ヶ原を彷徨っているところを捕えられました。しかし、平清盛が継母である池禅尼(いけのぜんに)の「亡くなった息子に似ているから」という助命嘆願を受け入れたため、伊豆に配流されることになりました。

 まだ幼かった源義経は、洛北の鞍馬寺に預けられることになりました。

 佐々木秀義(ささきひでよし)は近江国の所領を失いましたが、佐々木一族は後年の頼朝の挙兵の際にいち早く馳せ参じて、戦場で手柄をたてることによって失地回復を果たします。やがて愛知川を境に北の京極家と南の六角家に分かれることになるのです。

 源義朝が平治の乱で敗死して「謀反人」とされたため、千葉家の相馬御厨が義朝の財産であると間違われて収公されそうになりました。かつて義朝と紛争になったことが尾を引いていたわけですが、千葉常胤としては、「相馬御厨は義朝の土地ではなく千葉家の土地である」と反論し続けるしかありません。

 そんな折、今度は源義宗(みなもとのよしむね 佐竹昌義の子)までもが相馬御厨に対する権利を主張し始めます。義宗の主張は、千葉常重が藤原親通に譲状を書き、親通が親盛(親通次男)に譲渡し、親盛から義宗が譲受けたというものでした。

 しかし、現代の価値観に照らせば、最初の親通に対する譲渡は強迫取消可能(民法第96条第1項)あるいは意思無能力無効であり、当初の譲渡が無効である以上は親盛以降の買主は原則として権利取得できないということになるはずです。要は、河内源氏の源義朝の敗死と伊勢平氏の平清盛の台頭という流れに乗じて、強引に相馬御厨を奪い取ろうとしたのでしょう。結局、義宗のおかしな主張の方が認められてしまいました。

 

 千葉家に限らず、当時の武士たちは父祖以来の土地をいかに守っていくか、まさに「一所懸命」だったわけですから、その時々の政治的な瞬間風速によって権利があったりなかったりする世の中では安心して生きていくことができません。このような武士たちの願いが、新時代を切り拓く原動力となりました。

 相馬御厨を失った千葉常胤は、石橋山で敗れて海路安房に逃れた源頼朝を迎えるとともに、鎌倉を本拠地とすることを勧めます。そして、富士川の戦いの後には、このまま京に攻めのぼるのではなく、鎌倉に引き返してまずは足場を固めることを進言します。鎌倉に引き返す途中、大磯で頼朝と配下の間に御恩と奉公を通じた封建的主従関係が成立しました。

 法律家としての事実認定の発想からすれば、一般に人間の行動は特定の目的に貫かれていると考えられる反面、時代の変革者が自らの言動の意味合いを常に明確に認識できているとは限らないということができます。

 相馬御厨を理不尽な形で奪われた千葉常胤が、頼朝の挙兵をその最初期から支え続け、さらに大磯において頼朝から父祖以来の土地の保証を得たという一連の経緯を踏まえるならば、たとえ「確実性のある史料」に記載が見られなくとも、現代に生きる我々においては、「頼朝の求心力の源泉は坂東武士らの土地保全欲求にあった」と理解することも1つの立場といえましょう。

2009年元旦
由比ヶ浜(神奈川県鎌倉市)

 父祖以来の土地を守りたい武士たちに担がれる形で、河内源氏の源頼朝が、我が国の政治のあり方を大きく変えることになるのです。

武家政権期も、
どうぞよしなに・・・

参考文献:人物叢書(吉川弘文館)
     エリアスタディーズ(明石書店)ほか

*系図部分は、基本的には歴史研究者の文献に依拠しておりますが、記載を欠く部分については、Wikipediaによって補充しております。大昔の親族関係は、はっきりしない部分も多々ありますので、細部にこだわらずに時代の流れをおさえてください。

王朝期 完