王朝期2 ~藤原摂関政治の全盛期~

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7 藤原一族の権力闘争

 藤原摂関政治が道長・頼通父子の時代に全盛期を迎えるまでの流れを、①小野宮家と九条家の対立、②源氏勢力の追い落とし、③兼通・兼家兄弟の争い、④花山天皇の出家、⑤兼家の五男にすぎなかった道長の権力掌握、⑥中関白家と道長の争い、⑦道長の時代という順序でご紹介します。

 

(1) ①小野宮家と九条家の対立

 藤原実頼(小野宮家)は、村上天皇が藤原忠平の死後も親政を続けたため時期が遅くはなりましたが、冷泉天皇の即位により摂政となりました。実頼は、外戚化と息子への権力移譲により小野宮家の永続的繁栄を図ります。すなわち、娘の慶子(けいし)を朱雀天皇に、慶子の妹の述子(じゅつし)を村上天皇に嫁がせて皇子の誕生を待ちます。しかし、2人とも皇子を生むことはありませんでした。また、息子に権力を移譲する前に実頼自身が970年に死去してしまいました。

 他方、実頼の弟の師輔(九条家)は、娘の安子(あんし)を村上天皇に嫁がせ、安子は冷泉天皇、円融天皇及び為平(ためひら)親王を生みました。つまり、九条家は外戚化に成功したのです。これにより、藤原氏内部での権力闘争において九条家が優位に立つこととなりました。

 
 

(2) ②源氏勢力の追い落とし

 九条家の師輔は有職故実に詳しく、村上天皇の弟の源高明(たかあきら 賜姓源氏)とは知識人同士で良好な関係を築いていました。しかし、高明の娘が為平親王に嫁いでいたため、高明は源氏勢力の伸長を危惧した藤原氏勢力の陰謀により左遷されてしまいました(安和の変 969年)。為平親王も事件によって立太子されず、以後、九条家の内部で冷泉系と円融系が交互に天皇に即位するという慣行が続いていくことになります。なお、安和の変の際、高明らによる為平親王擁立計画を讒言したのは多田満仲でした。以後、満仲やその子息たちは「摂関家の爪牙」としての役割を演じることになります。

(3) ③兼通・兼家兄弟の争い

 小野宮家の実頼の死後、円融天皇の摂政の地位は九条家の伊尹(これただ 師輔長男)に移りましたが、972年に伊尹が死去すると、弟同士の権力闘争が激化していきます。伊尹の死後、安子の遺言によって兄の兼通(かねみち)が優位に立って円融天皇の内覧となり、974年には関白に就任しました。さらに、977年、兼通は死去の際に臨時の除目を行い、弟の兼家の官職を剥奪・降格したうえ、関白の地位も小野宮家の頼忠(実頼の息子)に譲ってしまいました。なお、頼忠も娘の遵子(じゅんし)を円融天皇に嫁がせていますが、皇子は生まれていません。

 

(4)  ④花山天皇の出家

 伊尹は娘の懐子(かいし)を冷泉天皇に嫁がせて、花山天皇を生ませていました。花山天皇は984年に即位するのですが、986年、東山の元慶寺で出家してしまいます。師輔には伊尹らの他に為光(ためみつ)という息子がおり、天皇は為光の娘の忯子(ぎし)のもとに通っていたのですが、忯子が亡くなってしまったため悲しみのあまり出家を決意されたのです。

 天皇自身が決めたこととはいえ、小野宮家に関白の地位を奪われていた九条家の兼家は、息子の道綱に命じて天皇に出家を促しています。天皇の出家により7歳の一条天皇が即位し、兼家は遂に小野宮家から摂政の地位を取り戻しました。強引とも言える方法で摂政に就任した兼家は、さらに息子の道隆・道兼・道長らを急速に昇進させることにより兼家流の繁栄を図ります。つまり、①小野宮家の実頼と同様のことをしたのです。

 

 990年に兼家が死去すると、長男の道隆が摂政に就任しました。この頃、多田満仲の息子たちは道兼の家司(けいし)を務めていたのですが、道隆の摂政就任を聞いた頼信(河内源氏)は、「道隆を殺すべし」と口走って2人の兄(頼光(摂津源氏)・頼親(大和源氏))に制止されたという話も残っています。この血気盛んな河内源氏の末裔が、後に鎌倉に武家の都を開くことになります。兄の頼光も、『大江山の鬼退治伝説』が知られています。

 なお、藤原道長は、987年に源雅信(まさのぶ)の娘の倫子(りんし)と結婚し、翌988年には源高明の娘の明子(めいし)とも結婚しており、祖父の師輔と同様、源氏との関係を強めています。ただ、道長の子どもたちの明暗ははっきりと分かれました。倫子腹の男子は昇進が早く、女子は天皇家に嫁ぐことになりますが、安和の変で流罪に処せられた源高明を父とする明子の子どもたちのなかには、失望のあまり勝手に比叡山で出家してしまう者もいました。

(5) ⑤兼家の五男にすぎなかった道長の権力掌握

 摂政に就任した道隆(中関白家(なかのかんぱくけ))も、父・兼家の手法を踏襲して、長女の定子(ていし)を一条天皇に、次女の原子(げんし)を三条天皇(当時は居貞親王)に嫁がせるとともに、息子の伊周(これちか)を急速に昇進させて自家の繁栄を図ります。しかし、皇子は生まれず、また、関白を継がせることもできないまま、995年4月10日、道隆は死去してしまいます。

 これにより、政治の実権がそのまま中関白家の伊周に継承されるのか、それとも、道隆の弟に移るのかが注目されることになりますが、結論としては、同月27日、道隆の弟の道兼に関白宣旨が下ります。しかし、同年5月8日、道兼も流行りの病で死去してしまいました。道兼は「七日関白」と言われることになり、あらためて権力の行方が注目を浴びることになります。

 ここで影響力を発揮したのは、兼家の次女で一条天皇の母の東三条院詮子(せんし)でした。道長の人格を認めていた詮子は、天皇に対して道長への継承を必死に説得します。当初は渋っていた天皇も母親からの説得に折れて、同月11日、道長に内覧宣旨が下りました。かくして、兼家の五男という権力から遠い地位にあった道長が権力の座につくことになりました。ただ、それは権力の継承に失敗した中関白家の伊周との熾烈な権力闘争の始まりでもありました。

 
 

(6)  ⑥中関白家と道長の争い

 同年7月、道長と伊周が激しく口論するとともに、双方の下部が七条大路で闘乱にも及びました。8月に入ると、伊周の弟の隆家の従者が道長の随身を殺害し、中関白家側には呪詛する者まで現れました。今日においては呪詛で相手を呪い殺せるという考え方は科学的ではありませんが、当時はそのような力があると考えられていたのです。

 両者の対立が激化するなかで、伊周は致命的な失敗を犯します。翌996年正月16日、伊周と隆家は、あろうことか、従者に花山上皇を射させてしまうのです。この頃の花山上皇は四の君のもとに通っており、伊周は四の君の姉の三の君のもとに通っていたのですが、上皇が三の君のもとにも通っていると勘違いしてこのような暴挙に及んでしまったのです。この事件を契機として伊周・隆家兄弟は配流に処せられ、中関白家の衰退が決定的となりました(長徳の変)。

 以上が、道長が立場を固めるまでの流れです。つまり、まずは①九条家が小野宮家よりも優位に立ち、次いで、②九条家内部の源氏勢力を除き、その後、③九条家の兼通・兼家兄弟の争いの末にいったんは関白の地位が小野宮家に移ってしまいましたが、④四の君の死で気落ちした花山天皇の退位を兼家・道兼父子が後押しすることによって摂政の地位を再び九条家に戻し、⑤中関白家の不運や道兼の死によって兼家の五男の道長が権力の座にたどり着き、最後は⑥中関白家の自滅によって道長の立場が安定したということになります。

 
 

(7)  ⑦道長の時代

ア 外戚化

 道長の行動も、実頼・道隆らと同様、外戚化と権力移譲の2点を中心として整理できます。一条天皇には既に中関白家から定子が嫁いでおり、まず定子が敦康親王を生みます。道長の娘が皇子を生むまでにはまだ何年かかかるという状況においては、道長は敦康親王の誕生を喜んでいます。血縁的に遠い人物が立太子するよりは、中関白家の皇子の方がましとも考えられます。

 999年、道長の長女の彰子(しょうし)が一条天皇に嫁ぎます。既に敦康親王が誕生しているとはいえ、道長としては、血縁的にみてより自身に近い皇子が誕生して欲しいところです。この時、彰子の立后の日時を安倍晴明に諮問しています。1007年、道長は金峯山詣をして、彰子の皇子出産を願っています。道長は妍子立后の前年の1011年にも金峯山詣をしています。

 なお、この頃に紫式部が『源氏物語』を創作・公表していますが、創作の途中の原稿を道長が勝手に持って行ってしまうので、「完成度の低い段階で人目に触れて、おかしな噂が広まったらどうしよう」と心配していたという話が伝わっています。この発想は、今日における著作者人格権の1つである公表権(著作権法第18条)の議論においてそのまま通用するでしょう。著作物を創作した段階で著作者には著作権と著作者人格権が発生し、後者の一内容として、著作者は著作物を公表するか、公表するとして、いつ、どのような形で公表するかを決定することができます。

 同年、道長は木幡浄妙寺多宝塔供養を執り行います。大江匡衡が著した願文によれば、父祖の菩提を弔うことと現世利益の半々という心境だったようです。なお、この大江家は、鎌倉幕府の開府以降、我が国の歴史において重要な役割を演じ続けることになりますので、覚えておくことをおすすめします。

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本サイトは、大江・毛利家の歴史を重要な軸の1つとしてストーリーを構築しております。私が調査した限りでは、1000年以上にわたり我が国の歴史の表舞台に現れ続ける家は、天皇家を除けばこの家しかありません。

 翌1008年、道長の金峯山詣の効果でしょうか、彰子は後一条天皇を生みました。これによって、道長のなかで敦康親王の優先順位が下がったと思われます。後一条天皇が即位すれば、道長は母方の祖父の立場から強い政治力を発揮できるはずだからです。

 1011年、一条天皇が崩御して、三条天皇が即位しました。この時、定子(中関白家)が生んだ第1皇子・敦康親王と、彰子(道長長女)が生んだ第2皇子・敦成親王のいずれを立太子するかが問題になりましたが、長徳の変により有力な後見を失った敦康親王よりも道長が後見する敦成親王の方がふさわしいとの判断から、第2皇子の敦成親王が立太子されました。この時、道長と一条天皇の間の連絡を担ったのが藤原行成です。なお、彰子は道長の長女であっても、敦康親王を養育してきた経緯から、心情的には敦康親王の立太子を願っていたようです。

 
 

 道長は彰子の後も、次女の妍子(けんし)を三条天皇に、三女の威子(いし)を後一条天皇に、四女の嬉子(きし)を後朱雀天皇に嫁がせて皇子を生ませています。将来にわたり自家が外戚の地位を失わないよう、自分の娘たちを天皇に嫁がせているわけです。道長の倫子腹の娘たちの役割は明確です。天皇に嫁いで皇子を生むことです。それゆえ、1013年に妍子が禎子内親王を生んだ際は、道長は喜ばなかったといいます。後年、この禎子内親王が生んだ後三条天皇が、藤原摂関政治にブレーキをかけて、院政期への橋渡しをすることになるのです。

 1015年、新造わずか2ヶ月の内裏が焼亡してしまいました。この火事は、治世の不徳を天が責めたものとして受け止められ、三条天皇は退位を決断します。翌1016年、後一条天皇が即位した際、一条天皇の崩御の時と同様、娍子(せいし 藤原済時娘)が生んだ敦明親王と、彰子が生んだ敦良親王(後の後朱雀天皇)のいずれを立太子するかが問題となりましたが、この時は三条天皇の意向により第1皇子・敦明親王が立太子されました。しかし、結局は翌1017年、敦明親王は東宮を降りてしまい、道長の意向どおり敦良親王が東宮にたてられることとなりました。敦明親王は、小一条院の称号を受け、引続き道長の庇護を受けています。

 
 

 1018年、道長の三女の威子が後一条天皇に嫁ぎます。有名な、「この世をば・・・」で始まる歌は、威子の立后の際の宴の席で作られました。それを藤原実資が日記に書き留めていたため後世の人々にも知られることとなりました。宴の席において即興で作った歌にすぎず、その場にいた人物は誰も問題視していないにもかかわらず、現代人が「道長の傲慢さのあらわれ」であるかのように受け止める必要はないでしょう。

 このように、権力獲得の手段として娘を天皇に嫁がせることへのインセンティブがあり、二后並立も許容される世の中であれば、天皇家に男系男子が生まれるかを心配する必要はありません。実際、人数が多すぎたため臣籍降下されたほど、天皇家には皇子が誕生していたのです。しかし、昭和天皇以来、天皇は側室をおいておらず、そもそも、側室をおくことは現代の我が国の価値観からは受け入れられないでしょう。また、戦後にGHQの方針で旧宮家の方々が民間人となったため、天皇家の範囲が極めて狭められました。その結果、男系男子で継承してきた「万世一系の天皇」の存続が困難になっているというのが今日の状況です。

イ 権力の移譲

 一条天皇の御代に最高権力者となった道長は、三条天皇が退位するまでは摂政・関白の地位に就いておらず、ずっと内覧にとどまっています。1016年、9歳の後一条天皇の即位のタイミングでようやく摂政に就任するのです。しかし、その摂政の地位も翌1017年に息子の頼通に譲っています。将来にわたり自家が権力を継承していくことを政治的に示す狙いがあったと思われます。

 道長は頼通への権力移譲後も「大殿」と呼ばれて影響力を残しているのですが、頼通による初めての除目の日、自ら宇治へ赴くことによって頼通に対する不干渉の態度を表明しています。後年、頼通は宇治に平等院鳳凰堂を建立することになります。

 権勢を極めた道長も身内の死は辛かったようで、1025年、嬉子が後冷泉天皇を生んだ後に亡くなると、道長は大変ショックを受けて歩くこともままならなかったといいます。さらに、1027年には妍子も死去してしまいます。妍子の死から約2ヶ月後に、道長も死去しました。

8 平忠常の乱

 最高権力者・藤原道長が死去した直後の1028年、桓武平氏の平忠常(たいらのただつね)が安房国府を焼き討ちにするという事件が勃発しました。忠常の認識としては、あくまでも東国における「私戦」だったのですが、これから関白として父の政治的遺産を継承していく頼通としては、自分への代替わりに水をさす格好となった忠常を赦すわけにはいかず、忠常の行いを国家に対する「反乱」と認定して追討使を派遣するのです。

 当初は追討使として桓武平氏ながら忠常と対立していた平直方(たいらのなおかた)が派遣されていました。この段階では、直方は国家の命を受けて討伐に赴いているとはいえ、桓武平氏同士の「私戦」的性格をも併有していたのです。しかし、直方は乱を鎮圧するまでには至らず、やがて平忠常と主従関係を結んでいた河内源氏の源頼信が後任の追討使として派遣されるのです。頼信が派遣されると、平忠常は戦わずして降伏しました。平将門の乱を坂東武士の中央に対する反抗の第1弾と理解する立場にたつのであれば、平忠常の乱はその第2弾と理解することが可能であり、いずれも鎮圧されました。

 平忠常の乱自体は歴史の教科書にも記載がなく、日本人にすらほとんど知られていないと思われます。しかし、乱の鎮圧の前後を通じて河内源氏が坂東武士と多かれ少なかれ関わりをもったことが、後年の源頼朝の挙兵の際に重要な意味をもってくるのです。追討対象となった忠常には常昌(つねまさ)という息子がおり、その末裔である千葉常胤(ちばつねたね)や上総介広常(かずさのすけひろつね)らは、石橋山で敗れて安房に逃れた頼朝が再起を図るうえで重要な役割を担うことになるのです。

 平忠常の乱を鎮圧した頼信は、河内守に任じられて河内を本拠地としたことから、彼の系統は「河内源氏」と呼ばれることになりました。父・頼信に従って鎮圧に赴いた頼義は、小一条院判官代として仕えます。小一条院とは、かつて藤原道長によって東宮退位に追い込まれた敦明親王です。娍子(せいし)は藤原済時(なりとき)の娘で、済時の息子・維叙(これのぶ)は桓武平氏の平貞盛の養子に入っていました。そして、平直方も貞盛流です。

 貞盛流と関係の深い小一条院に対する奉仕が認められた頼義は、直方の娘と結婚することになりました。そして、長男・義家が誕生した際に義父から鎌倉の屋敷を譲られ、ここに源氏と鎌倉の結びつきが生じることになったのです。もっとも、鎌倉が「武家の都」として発展し始めるのはそれから約150年後のことで、河内源氏としては、まだ摂関家の庇護のもとでもっぱら治安維持を担う実力部隊という位置づけにとどまっておりました。

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 ここで、平忠常による焼き討ちが「反乱」と認定されたことについて考察してみます。今日の我が国においては、日本国憲法のもとで学問の自由(憲法第23条)や信教の自由(憲法第20条1項前段)が保障されております。そして、これらの自由を制度的に担保するための大学の自治や政教分離原則(憲法第20条第1項後段・第3項)も定着しております。しかし、それでもなお学者や研究者の研究活動や宗教家の宗教的実践が、国家の政策的立場と緊張関係にたつ場合もあります。

 そのような場合の現実的な考慮要素としては、今日においてもなお「権力者の認識」が重要な要素になると言って差し支えないものと思われます。忠常としては、藤原道長の死去直後の混乱に乗じて「私戦」として処理されることを期待したのかもしれませんが、頼通の意思力がそれを許さなかったともいえましょう。

 後年の織田信長による比叡山焼き討ちも、このような考え方から理解することも可能でしょう。つまり、たとえ信仰の衣を纏っていたとしても、潜在的な敵対勢力と信長に認識された以上は標的にされるということです。そして、手段の選択において、信長の場合は最も苛烈な手段を選択したということです。それを冷酷非道と捉えるか、決断力・実行力があると捉えるかは立場によるでしょう。

9 前九年の役

2009年3月8日 張山古戦場跡

 1053年、安倍頼良(あべのよりよし)が陸奥守・藤原登任(なりとう)を破った鬼切部(おにきりべ)合戦から、いわゆる前九年の役が始まります。かつて父・頼信に従い平忠常の乱を鎮圧した源頼義は、陸奥守に任じられたうえで、今度は息子の義家を従えて奥州に下向することになります。

 頼義には、前九年の役の際、矢祭山に矢を祀ったという伝承があります。近時、住基ネット不接続団体として矢祭町が名を馳せています。

2009年3月8日 安倍舘跡

2009円3月8日 一首坂歌碑

 ここで注意すべきは、頼義は軍勢を率いて奥州に向かったわけではなく、鎮圧のための武力は東国の武士団の協力に依存していたということです。現地の清原氏の協力を得られたことが、乱の鎮圧において極めて重要な意味をもちました。逆に言えば、清原氏の協力を得られるまでは局地的にかなり苦しい戦いもあったのです。

 では、なぜ清原氏は頼義・義家父子に協力する気になったのでしょうか。そもそも、前九年の役はなぜ始まったのでしょうか。軍記物の記述はともかくとして、その背景には奥州の利権をめぐる対立があったともいわれています。

 このような分析に従うのであれば、経済が政治を動かしたと理解することも可能でしょう。他方で、我が国においてはしばしば「政経分離」というアプローチも聞かれます。このようなアプローチは、本来的には政治と経済は相互に関連しているが、問題の解決なり前進のため、ときには人為的に分離することも「大人の知恵」として必要だということと理解することも可能でしょう。

 前九年の役の平定後の1063年、源頼義は鎌倉に鶴岡八幡宮の前身となる若宮を建立します。後年、鎌倉に入った源頼朝が、海側にあった若宮を現在の鶴岡八幡宮の場所に移して源氏の守り神とすることになるのです。