織豊政権17 ~朝鮮出兵~

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パーフェクトコレクション イースⅠ・Ⅱ~米光亮全曲集/Copyright© Nihon Falcom Corporation
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74 朝鮮出兵

2009年9月15日
三戸城址
(青森県三戸郡)

(1) 利休処刑

翌1591年1月、北奥では九戸政実が、既に秀吉の北奥における出先機関と化していた三戸城での正月の宴に欠席し、秀吉への叛意を行動によって表明しています。同月17日、隣国の安東実季は秀吉から本領安堵の朱印状を与えられていますが、湊領の豊かな秋田平野が太閤蔵人地に編入されてしまいました。実季との関係で檜山・湊合戦を不問に付しつつ、湊通季には謁見も許さなかったことは、秋田平野を得るためだったという見方もあります。また、安東家は蝦夷支配権も認められませんでした。ほどなくして、実季は安東から秋田に姓を改めていますが、これについては、蝦夷を失った以上は、残された地名を名乗るしかなかったという推測もなされています。

同月22日、豊臣秀長が大和郡山城で死去しています。同月29日付で千利休は細川忠興に対して、何らかの件について身に覚えがない心情を吐露しています。利休の庇護者であった秀長が死去したタイミングで、堺の茶湯者の住吉屋宗無・万代屋宗安らが利休に関する讒言をしていた可能性が指摘されています。

2009年2月27日
大和郡山城址
(奈良県)

2008年11月6日
御土居
(京都府京都市)

翌閏1月、秀吉は京の御土居の造営工事を開始しています。

翌2月13日、千利休は堺の屋敷で蟄居するよう命じられています。信長から出仕停止処分を受けた後に赦免された経験のある前田利家は、大政所と北政所を通じて秀吉に謝罪すれば赦されるとの見通しを利休に伝えましたが、利休はこれを拒絶しています。同月25日、利休の木像が一条戻橋で磔にされています。翌26日、利休は増田長盛に伴われて上洛し、同月28日、大雨のもと、上杉景勝の軍勢に包囲されたなか、茶室・不審庵で切腹しました。介錯は利休の弟子・蒔田淡路守が務めています。秀吉は首実検もせずに利休の首を一条戻橋に晒し、さらに利休の木像の足に利休の首を踏ませています。

2009年3月10日
黒川城・麟閣
(福島県)

千利休の死後、蒲生氏郷は利休の次男・少庵を匿い、会津城内に茶室・麟閣を設けて千家茶道の継承に努めています。また、氏郷は家康とともに秀吉を説得して少庵の赦免をとりつけています。その後、少庵は京に戻って息子・宗旦とともに千家茶道の再興に努めますが、氏郷に対して敬意を払い続けています。

(2) 九戸政実の乱

同月中旬、北奥では九戸政実に与する櫛引清長勢が法師岡城外で南部方の南長義勢に大勝しています。九戸勢はさらに南部信直の三戸城に迫り、信直は月館城に逃れています。月館城も攻められた信直はさらに四戸方面に逃れ、上方に援軍を要請するとともに周辺の諸勢力らにも上方からの援軍の到着が近いと説いて支援を要請しています。政実は既に一揆を起こしていた葛西・大崎に加え上杉景勝の庄内でも一揆を扇動しています。

2009年9月15日
三戸城址周辺
(青森県)

 

同月、伊達政宗は秀吉に出羽・南奥5郡を没収され、代わりに一揆が起きた葛西・大崎12郡を与えられています。これについては、自ら蒔いた種は自ら刈り取れということという見方があります。政宗は蒲生氏郷とともに九戸討伐軍の先鋒を担うことになります。この九戸政実の乱が、秀吉の国内平定戦の最後の戦いと理解されています。

 同月、常陸では佐竹義宣が京から帰国していますが、大掾家の配下だった鹿島・行方の諸将らを知行割と偽って太田城で誘殺しています。翌3月、義宣は水戸城に入城し、これ以降、水戸が常陸の中心として発展していくことになります。同年6月14日、伊達政宗が一揆勢討伐のため長井城を出陣しています。政宗の協力に期待していた政実にとっては誤算でしたが、南部信直は安堵しています。

同年8月5日、秀吉の実子・鶴松が死去しています。秀吉はもう実子は得られないと思い、秀次を養子とすることを決めています。同月、秀吉は身分統制令を発しています。

 

2009年9月15日
九戸城址
(岩手県)

同月23日、九戸政実の討伐に向かった蒲生氏郷の軍勢が和賀に着陣しています。この頃、秀次及び家康の軍勢は南奥に留まり、蒲生・浅野勢が九戸城に迫っています。翌9月1日、氏郷勢は一戸の穴田井城を攻略し、翌2日、さらに九戸城を攻めています。南部信直も北東の金録山で包囲戦に参加しています。また、名を松前と改めた蠣崎慶広も毒矢を携えたアイヌを率いて参陣し、異彩を放っていたと伝わります。同月4日、政実は頭を剃って降伏しましたが、秀次の本陣に送られて斬首されています。ここに、秀吉の天下統一事業が完遂をみたことになります。信直は、戦後、居城を三戸から九戸城に移すとともに、同地を福岡城と改めています。

 秀次と家康は高館・平泉・衣川の旧跡を見物しながら帰路につき、秀次は山形城で最上義光の饗応も受けています。家運は豊臣家との政治的距離によると理解した義光は、近く関白職を譲られるという噂のあった秀次を丁重にもてなしています。この時、秀次は義光の娘・駒姫を見初め、義光も時期を待って聚楽第に送る旨述べています。

翌9月16日、秀吉は朝鮮出兵の準備を命じています。この年から肥前・名護屋の築城が始まり、設計は黒田如水、工事総奉行は黒田長政が担当しています。

2009年2月8日
名護屋城址
(佐賀県唐津市)

2008年4月19日
京都御苑・西園寺邸跡
(京都府京都市)

この頃、秀吉は京で「京都やしきかへ」を実施しています。これは、上京を中心とした屋敷の強制移転で、皇居周辺に公家町が形成されることとなります。また、西本願寺が現在地・七条堀川に移転したのもこの年です。なお、公家町は明治初年にすべて撤去され、跡地は京都御苑になっています。

この頃、蒲生氏郷は上洛の際に播磨・室津でヴァリニャーノを訪問し、自らの信仰を告白するとともに、将来自らの領国内でキリスト教伝道のため全力を尽くすことを誓っています。

2009年11月7日
室津港周辺
(兵庫県)

2009年9月14日
盛岡城址
(岩手県盛岡市)

同月23日、伊達政宗は「岩手沢」を「岩出山」に改めたうえで居城を岩出山城に移しています。翌10月、稗貫・和賀が南部信直領に確定し、これにより伊達家領の胆沢と接することとなった信直は、福岡城よりも南方の居城を望むようになります。そして、後のいわゆる「醍醐の花見」の席で、秀吉から築城の許可を得て盛岡城の築城を開始することになります。

同年12月28日、豊臣秀次は関白に任じられ、秀吉は太閤を称しています。太閤は、本来であれば政治の表舞台には現れない立場ですが、秀吉は関白・秀次の上位から実権を掌握し続けることになります。同じ頃、土佐では長宗我部元親が居城を大高坂から浦戸に移しています。

 
 

(3) 小早川隆景の機転

 この年、小早川隆景は黒田如水から、毛利輝元に実子がないことから秀吉の甥・金吾秀秋を養子にすることを打診されています。既に鎌倉以来の結城家には、家康の次男で秀吉の養子に入っていた結城秀康が入っています。しかし、秀秋が輝元の養子に入れば、大江広元以来の毛利家の血筋が途絶え、「毛利」の名は残っても事実上秀吉に乗っ取られることになります。隆景は、まずはこの提案が秀吉自身の発案かどうかを確認し、そうでないと知るや、直ちに秀秋を自身の小早川家の養子に迎えることを秀吉に願い出て許されています。隆景は秀秋に小早川家の家督を譲るとともに三原城に隠居し、秀包には分家させています。

 さらに、父・元就の庶子・穂田元清の息子・秀元を輝元の跡継ぎと決めて、素早く秀吉の許可をとりつけています。後に秀秋の死によって小早川家は断絶しましたが、隆景は自家を犠牲にして毛利家の血筋を守ることに成功しており、父・元就の教訓状に沿った対応ともいえましょう。このあたりの感覚は、人権思想・男女平等思想が浸透している現代の日本人よりも、この頃の人々の方が鋭かったといえるかもしれません。家制度自体が否定的に評価されているのであれば、当然のことでしょう。

(4) 文禄の役

翌1592年1月5日、秀吉はあらためて朝鮮出兵を命じ、ここにいわゆる文禄の役が始まりました。秀吉は東国の大名に対しては、1万石につき200人の軍役を課しています。また、秀吉は島津家を通じて琉球にも軍役を課しています。西国に所領を有していた毛利家は、朝鮮出兵の際にその主力とされています。石田三成はこの時も兵站奉行に任じられています。なお、秀吉の朝鮮出兵については、戦前・戦中は「国威高揚」するものと積極的に評価されていましたが、戦後は長らく不毛な侵略行為と評価されてきました。

2008年3月22日
耳塚
(京都府京都市)

2009年2月8日
名護屋城址
(佐賀県唐津市)

翌2月2日、家康が東国勢の総大将として江戸城を出陣し、肥前・名護屋に向かっています。安房の里見義康も家康の軍勢に加わっています。同月24日、家康は京に到着しており、同月、加賀でも前田利家が金沢城を出陣しています。翌3月1日、朝鮮出兵の軍編成が発表され、同日、越後では上杉景勝が春日山城を出陣し、同日、人吉でも相良長毎が出陣しています。同月8日、土佐では長宗我部元親が浦戸を出陣しています。

同月17日、家康・前田利家・上杉景勝・伊達政宗・最上義光・南部信直・佐竹義宣らが京を出発して名護屋に向かっています。前田利家の妻・まつは、利家の出陣に先立ち、吉田神社で利家の武運を祈っています。同月22日、上杉景勝が博多で豪商・神谷宗湛から茶の湯の招待を受けています。

 

2009年2月8日
名護屋城址
(佐賀県唐津市)

翌4月13日、日本軍の先遣隊が京城に達しています。同月21日、家康らも名護屋城に到着しています。蒲生氏郷はこの頃に長崎に赴いてヴァリニャーノやフロイスらと会っていますが、その後、健康を害したため遠征を免除されています。かつて、神か秀吉かの二択を迫られて神を選んだ高山右近は名護屋で秀吉から茶の湯に招かれており、この時までに和解していたと思われます。

家康は、名護屋在陣中に藤原惺窩を招いて『貞観政要』を講じさせています。この頃、家康が自身を秀吉の後継者と認識し始めた可能性が指摘されています。

2009年2月8日
名護屋城址
(佐賀県唐津市)

2009年2月8日
名護屋城・旗竿石
(佐賀県唐津市)

翌5月2日、日本軍が京城を攻略しています。翌3日、島津義弘隊が釜山に到着しています。同月16日、秀吉のもとにも京城攻略の報が届いています。秀吉は自ら渡海すると言い始めましたが、家康や前田利家らに止められたため、石田三成・大谷吉継・増田長盛・前野長康・加藤光泰の5人を朝鮮在陣奉行に任じて渡海させることにしました。しかし、武断派は戦争を知らない人間が自分たちを監督しに来たと受け止めて不快に思っています。自分たちの言動を文治派の三成らが秀吉に讒言しているのではないかという疑念も生じ、朝鮮及び明との戦いと並行して日本人同士の溝も深まっていきます。

翌6月14日、梅北国兼が朝鮮出兵に反対して佐敷城に立て籠もっています。しかし、同人の予想に反してこの反乱に与する者は増えませんでした。同月17日、国兼は殺害されています。同日、上杉景勝が釜山に上陸しています。同年秋頃、香宗我部親氏が朝鮮で陣没したため、長宗我部元親は親氏の父・親泰に出陣を命じています。この年、琉球では謝名親方らが朝鮮遠征を拒否しつつも、今後の日琉関係を考慮して、兵糧米を供出することを決定しています。

 2022年5月28日の南日本新聞社の記事によると、黎明館(鹿児島県鹿児島市)は、1592年6月3日付(推定)北政所宛秀吉書状が発見されたと発表しました(画像は2009年2月4日訪問)。

2009年2月8日
名護屋城址
(佐賀県唐津市)

翌1593年1月3日、前田利家の朝鮮渡海が決定しています。同月7日、平壌に駐屯していた小西行長勢らが、李如松らの率いる明軍の猛攻を受けて敗走しています。行長勢は大友義統を頼ろうとしましたが、既に義統は撤退していたため、これに激怒した秀吉は義統を改易しています。これにより、源頼朝の九州支配以来の大友家は断絶しています。

同月26日、小早川隆景が率いる毛利一族を中心とする軍勢が、碧蹄館の戦いで明軍を破っています。隆景は碧蹄館で武名をあげましたが、帰国後ほどなくして病に伏しています。

2009年2月11日
吉田郡山城・洞春寺跡
(広島県安芸高田市)

2009年9月17日
南部坂・南部藩陣屋跡
(北海道函館市)

同月、蠣崎慶広は秀吉から蝦夷交易を認める朱印状を与えられています。これにより、安東実季の蝦夷支配権の喪失が確定しています。

 同年6月21日、晋州城の合戦で、戦闘員に限らず、非戦闘員をも巻き込んで膨大な死者が生じています。同月7月7日、日本軍は晋州城を攻略しています。長宗我部元親は、晋州城の戦いを最後に帰国しています。

翌8月3日、秀吉と側室・淀殿の間に秀頼が生まれています。同月14日、秀吉は名護屋を発って京に戻り、諸将らも国元に戻り始めています。秀吉は秀次を養子にしたうえで関白職を譲ったことを後悔するようになり、また、秀次においても将来に対する不安から鬱の症状がでて、これを秀吉に近い人間が拾い上げて讒言したという指摘があります。家康・真田昌幸は結局渡海命令を受けないまま名護屋から帰国しています。

2009年2月10日
和多都美神社
(長崎県対馬市)

2010年1月28日
大津城址
(滋賀県大津市)

京極高次は朝鮮出兵の軍功により大津城を与えられましたが、松の丸の尻の光で出世したと揶揄され、世人から「ホタル大名」と評されています。

翌9月、秀吉は有馬温泉に湯治に赴いています。他方、秀次は熱海に湯治に赴いています。同月8日、島津義弘の息子・久保が唐島在陣中に病没しています。同年12月21日、死去した親氏に代わり派遣されていた香宗我部親泰も長門で死去しています。

 

2009年6月4日
伏見城
(京都府京都市伏見区)

翌1594年1月、秀吉は「大坂惣構え掘り」を開始しています。これは、伏見城の新築工事に諸大名らが駆り出されたという意味です。翌2月15日、人夫を率いて上洛した上杉景勝は、聚楽第で秀吉の饗応を受けています。同月17日、原因は不明ながら山内一豊が秀吉の勘気を蒙り、直ちに朝鮮に出兵するよう命じられましたが、ほどなくして思い直した秀吉から赦免されています。

同年3月29日、病気によって朝鮮遠征を免除されていた蒲生氏郷が会津から京に到着しています。氏郷は伏見に新たに屋敷を構え、ここで静養することになります。同月、痘瘡から持ち直した島津家久は、石田三成を通じて秀吉に謁見し、朝鮮遠征を強く希望して認められています。同年6月2日、秀吉も氏郷を見舞い、曲直瀬道三を呼ぶよう命じています。

2009年6月4日
伏見城
(京都府京都市伏見区)

 

同年9月、豊臣秀次が殺生禁断・女人結界の比叡山で遊興に及んだと伝わります。

 同年11月2日、秀吉の推挙により、真田信幸は従五位下・伊豆守に、信繁は従五位下・左衛門佐に叙任され、両人とも豊臣姓を与えられています。また、この頃に信繁は大谷吉継の娘を妻に迎えています。

翌1595年2月7日、蒲生氏郷が死去しています。同月9日、秀吉は氏郷の嫡男・鶴千代に氏郷の遺領を継がせる旨を公表し、上杉景勝・佐竹義宣・最上義光・伊達政宗らに鶴千代の後援を命じています。

 
 

同年春頃、北奥では南部信直の娘(檜山御前)と安東実季の弟・忠季の結婚が決まっています。同年3月頃、同地では伏見城築城のために多くの秋田杉が切り出されています。

同年5月10日、島津義弘が唐島を出発して帰国の途についています。島津創業記念資料館の説明によると、この年、黒田如水の家臣・井上惣兵衛尉茂一が秀吉から明石を与えられて同地に下向する途中、島津義弘のお世話をしたことで島津姓と家紋を与えられ、茂一の子孫が島津製作所を創業したそうです。同月、安東実季は青蓮院尊朝法親王から直々に羽賀寺再興を依頼されています。

 
 

同年7月、山内一豊・中村一氏・堀尾吉晴ら秀次後見人が、秀吉の命により、秀次に対して弁明のために伏見城に赴くよう説得しています。秀次は伏見に向かいますが、秀吉は秀次と会うこともなく高野山へ追放しています。同月15日、秀次は高野山で切腹させられました。秀次の死に関しては、「殺生関白」や「千人斬り」といったエピソードは秀次殺害を正当化したい秀吉側による創り話という指摘もあります。

木村重茲や前野長康らが秀次に連座して自害している反面、山内一豊は秀次の後見人の立場にありながらも秀次と一定の距離を保ってきたため連座を免れています。しかし、この時から一豊の秀吉に対する見方が変わった可能性も指摘されています。すなわち、手段を選ばず実子・秀頼に跡を継がせようとする秀吉を見限ったことが、掛川で関東の家康に備えるという立場に影響を及ぼした可能性が指摘されています。なお、伊達政宗も秀次に連座しかけますが、家康の口添えにより事なきを得ています。

掛川城
(静岡県掛川市)

2008年6月6日
瑞泉寺
(京都府京都市)

翌8月2日、秀次の愛妾らも京で処刑されています。秀次の死後、聚楽第は取り壊されています。

 同月24日、北奥では安東実季勢と浅利頼平勢が、米代川畔で戦っています。この戦いは直接的には朝鮮出兵をめぐる費用分担に関する争いが原因でしたが、その背景には浅利頼平を支持する武断派の前田利家・浅野長政ラインと、実季を支持する文治派の石田三成・長束正家ラインの対立があったという指摘もあります。

(5) 慶長の役

翌1596年7月、「慶長」に改元されています。翌閏7月12日、京・伏見で大地震が発生し、普請中の伏見城が大きく破損しています。また大阪城本丸の千畳敷御殿も崩壊しています。東寺では講堂などが大破しています。

2008年6月4日
長府乃木旧邸
(京都府京都市)

2009年2月10日
対馬
(長崎県対馬市)

 同年9月、明からの使者が秀吉のもとに国書を持参しています。秀吉はこの時、明の皇帝から属国・日本の国王に任じていただきました。しかし、秀吉は喜ぶどころか激怒して朝鮮再征を決めています。こうして慶長の役が始まることになりました。

この年、家康は山科言経から『吾妻鏡』の講義を受けており、先の『貞観政要』とあわせて政権獲得意欲の現れという指摘もあります。この年、家康は権大納言から内大臣に昇進したため、「徳川内府」と呼ばれることになります。

 翌1597年4月、山内一豊は家康から上洛の途中で鷹狩りをしたいとの連絡を受け、急いで領内に家康のための仮御殿を設けています。同年6月12日、小早川隆景が三原城で死去しています。同年7月15日、巨済島周辺で、朝鮮再征後初の大規模な戦闘が繰り広げられています。しかし、これ以降、戦況は膠着しています。

 
 

 同年秋頃、秀吉は自身の義弟・浅野長政の末子・長重を宇都宮家に入れようとしたところ、反対されたために国綱の所領を没収し、国綱は宇喜多秀家のもとに預けられました。これにより、鎌倉以来の名族・宇都宮家が滅亡しています。佐竹義宣もこれに関連して秀吉の怒りにふれましたが、石田三成のとりなしによって赦されています。この問題を上手く乗り切った小早川隆景はこの年に死去していますが、毛利家の血筋は守られています。

 宇都宮家の旧領には会津の蒲生秀行が移されるとともに、秀行の会津には越後の上杉景勝が移されることになりました。参考までに石高もご紹介しておきますが、景勝は会津92万石、佐渡14万石、出羽庄内14万石、計120万石です。これに対して、蒲生秀行は会津92万石を失い、宇都宮18万石となっています。

 この秀行の極端な降格人事の原因としては、「家中の不和・騒動」が挙げられています。すなわち、蒲生家重臣・蒲生郷安が秀行の寵臣・亘利八右衛門を無礼討ちにしたため、秀行が郷安を処分しようとしたところ、郷安は石田三成に泣きつきました。しかし、かえって左遷の口実を与えてしまったという説明です。他方で、秀吉が氏郷の死後に美人と評判の氏郷未亡人・冬姫を召し出すために使者を派遣したところ、冬姫は髪を切って出家するなど強い拒絶の意思を示し、これが秀吉の怒りを買ったとも伝わります。

 同年10月22日、秀吉は秀頼とともに、秀頼の傅役・前田利家の屋敷に挨拶に出向いています。しかし、利家はこの頃から体調不安を抱えています。

この年、長崎ではルイス・フロイスが死去しています。

2009年2月6日
長崎市街
(長崎県)

 

(6) 醍醐の花見

翌1598年3月15日、秀吉は醍醐で盛大に花見を催していますが、この醍醐の花見が秀吉にとって最後の大舞台となりました。この時、南部信直は機嫌の良い秀吉から盛岡築城の許可を得ています。

 この年、秀吉は醍醐寺三宝院を再建しています。

同月24日、上杉景勝が若松城に入っています。

2009年3月10日
若松城・上杉謙信公仮廟所跡
(福島県)

2009年3月10日
米沢城址
(山形県米沢市)

同じ頃、直江兼続も米沢城に入っています。秀吉は蠣崎慶広らの扱いと同様、兼続に対しても密かに直臣に誘っていますが、兼続はこれを断っています。

 翌4月、小早川秀秋が筑前・筑後を没収され、越前・北庄に減封されています。小早川家が減封されても、毛利家本体には累は及びません。

(7) 秀吉の死

翌5月5日、秀吉は病に倒れています。同月、前田利家は上野・草津温泉に湯治に赴いています。

 同年7月13日、秀吉は五奉行の制を定めています。同月15日、秀吉は遺言11ヶ条を示しています。同月25日には、遺品などの分配を行っています。しかし、黒田如水には何も残しませんでした。如水が石田三成による讒言を疑い、三成との関係がますます冷え切っていった可能性も指摘されています。

 翌8月5日、秀吉は五大老に秀頼を託しています。

2009年2月28日
草津温泉
(群馬県)

2010年1月27日
豊国廟
(京都府京都市)

 同月18日、秀吉が死去しました。

「つゆとをち つゆときへにし わがみかな

      なにわの事も ゆめの又ゆめ   松」