織豊政権16 ~小田原参陣~

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パーフェクトコレクション イースⅠ・Ⅱ~米光亮全曲集/Copyright© Nihon Falcom Corporation
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73 小田原参陣

 

(1) 摺上原の戦い

翌1589年春頃、北奥では南部信直が安東愛季の死後の抗争に乗じて鹿角から比内に侵攻し、安東実季勢と一進一退の攻防が続いています。この時、南部家は豊臣家代官の立場で戦っています。同年2月13日、真田昌幸は嫡男・信幸を家康のもとに出仕させています。同月、湊安東通季が実季方の湊城を奪っています。茂季が愛季によって湊城を追われて以降、通季や湊安東麾下の間に不満が燻り続けていました。

同月末、伊達政宗は落馬して脚を骨折しています。政宗は温泉療養を続けながら大崎・猪苗代らに対する調略に励んでいます。翌3月、政宗のもとに富田知信からの書状が届き、この春か夏までの上洛を促されていますが、政宗は秀吉に鷹を贈るのみで会津侵攻プランの策定に没頭しています。同月、下野の宇都宮国綱のもとにも石田三成から上洛を促す書状が届いており、ほどなくして国綱も上洛して豊臣大名の立場についた可能性が指摘されています。また、三成が書状を書き送ったことについては、北条家に先を越されるなという配慮だった可能性も指摘されています。

 同年4月、伊達政宗は相馬義胤・岩城常隆が田村領に侵攻したことをきっかけとして相馬領に侵攻しています。これを受けて佐竹・蘆名連合軍も須賀川に北上しています。政宗はこの機会に会津・黒川城を攻めることとし、片倉景綱を猪苗代に、原田宗時・新田義綱を檜原に派遣し、猪苗代盛国とは内応の約束をとりつけたうえで、自身も第二陣として檜原に向かっています。

 
 

この頃、比内に侵攻した南部勢が安東家から大館城を奪っています。翌5月23日付の安東実季の何者かに対する書状については、恥も外聞もかなぐり捨てた必死の懇願状という見方が示されており、愛季死後の安東家の苦境が窺えます。実季は本庄繁長・大宝寺義勝父子の支援をとりつけることに成功していますが、他方で、本庄父子と敵対している最上義光にも支援を要請しており、なりふり構わぬ救援要請といえます。なお、同月27日、上方では秀吉の実子・鶴松が生まれています。

翌6月4日、伊達政宗は猪苗代城で猪苗代盛国に迎えられています。佐竹義重・義宣父子も義広勢と合流しています。翌5日、西進する伊達勢と東進する蘆名勢が摺上原で激突し、伊達勢が大勝を収めました。蘆名後継問題において伊達小十郎を推していたグループに属していた富田美作勢があらかじめ日橋川の橋を落としておいたため、退却する蘆名勢の多くが溺死したと伝わります。義広は単騎に近い状態で黒川城に戻りましたが、蘆名老臣らは一致して義広を追放して政宗に城を明渡すことを決めたため、義広はやむなく白河を経て常陸の父と兄のもとに逃れることになりました。宝治合戦で滅ぼされた三浦家の傍流から生じ、長らく会津を支配してきた名門・蘆名家は、こうして伊達家によって滅ぼされました。しかし、秀吉の公認を得ている蘆名家を滅ぼしたことは、惣撫事令違反ということ以上に秀吉の心証を悪化させたとも伝わります。同月11日、伊達政宗は黒川城に入り、直ちに現状の承認を得るため秀吉との折衝を開始しています。また、秀吉も伊達家に対して問責の使者を派遣しています。

 

2009年9月22日
羽茂城址
(新潟県)

同月12日、越後では上杉景勝が佐渡島攻めのため出陣し、河原田城を攻めて本間高統を自害に追い込んでいます。同月16日、景勝はさらに本間高季の羽茂城も1日で攻略し、高季は逃亡するも斬られています。佐渡島を支配下に収めた景勝は佐渡支配を直江兼続に任せ、兼続は同月中に佐渡の検地を命じています。景勝に与した潟上・沢根・雑太の面々は佐渡の所領を没収される代わりに越後に所領を得ています。同月、庄内では本庄繁長・大宝寺義勝父子と最上義光が激戦を展開しています。

翌7月、伊達政宗は白河義親も降しましたが、同月末、政宗のもとに北条氏照からの書状が届き、対蘆名家戦勝祝いと同盟締結の希望が伝えられています。「反秀吉」で結束したい北条家と、南北から佐竹義重を挟撃したい政宗の間には利害の一致がみられました。同月、出羽では安東実季が半年間の籠城戦の末、ようやく湊通季勢を破っています。越後の上杉景勝が実季支持を表明したため、通季に与していた者らの間に撤退や寝返りが生じていました。通季方の事実上の総大将という指摘もある戸沢盛安も角館に引揚げています。通季は糠部の南部信直のもとに逃れ、実季は安東家の宗主権を確保しましたが、実季はこれ以降、政治に翻弄され続けることになります。

 

2009年1月30日
斎場御嶽
(沖縄県南城市)

同月24日、琉球王・尚寧が島津義久に伴われて上洛し、秀吉に謁見しています。

翌8月2日付で、安東実季の「罪」を問う旨の秀吉と前田利家からの書簡が糠部の南部信直のもとに届いています。この時点では、秀吉は実季領を召し上げるつもりだったという指摘があります。同年秋頃、実季は秀吉の「赦し」を得るために大坂城に使者を派遣しています。

大坂城
(大阪府)

翌9月、秀吉は佐竹義宣に対して伊達政宗の討伐を命じています。秀吉は既に北条家に対して宣戦布告状を送りつけており、その北条家と伊達家は遠交近攻を続けています。このような状況のもとで、伊達家と佐竹家の対立が、秀吉と北条家の代理戦争の様相を呈してきています。他方、秀吉はこの年に京・二条柳町の遊郭を公認しています。遊郭とは当時の性風俗産業ですが、今日の我が国の性産業に対するスタンスとは異なるという見方も可能でしょう。すなわち、建設業許可申請などの場合は、国民の側からの許可申請に対して許可あるいは不許可という形で明確に国家意思が示されます。これに対して、性風俗特殊営業は届出制ですから、国民の側からの届出を受理したとしても、それ自体では届出に係る事業について肯否いずれの価値判断も示したことにはなりません。業務の性質上、国家によるお墨付きに馴染まないという説明もなされています。

佐竹義重は翌10月2日付で、義宣に家督を譲ったことを石田三成と増田長盛に伝えるとともに、自分と同様のとりなしを依頼しています。この頃、諸大名らは自分たちのことが三成・長盛から秀吉に対してどのような形で伝わるかを気にかけており、なるべく三成・長盛らの機嫌を損ねないよう注意していたことが窺えます。後に宇都宮家の後継問題の際、国綱に連座する可能性のあった義宣を三成の口添えが救うことになります。また、南部家から分離・独立した津軽為信の本領安堵も三成の口添えによって実現しており、その恩義から、津軽家は関ヶ原の戦いの後、三成の娘・辰姫を保護することになります。他方で、三成が増長する条件が整っていたという指摘もあります。

 なお、この年、浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)らが、春屋宗園を開祖として大徳寺三玄院を創建しています。

 
 

(2) 小次郎謀殺

伊達政宗の戦いは止まりません。同月26日、政宗は須賀川城を攻略し、鎌倉以来の名門・二階堂家を滅ぼしています。二階堂盛義の未亡人(政宗叔母)は、佐竹義重の妻となっていた妹のいる常陸・太田城に逃れています。さらに翌11月には石川昭光も政宗に降り、当時の最大級の版図の1つにまで勢力を伸長しています。政宗は昭光に対して二階堂家から奪ったばかりの須賀川城を与えています。

この年、黒田孝高は病気を理由として長政への家督の譲渡と隠居を秀吉に願い出ています。孝高は入道して如水と名乗っています。

2013年8月16日
別府
(大分県)

小田原城
(神奈川県小田原市)

翌1590年1月10日、佐竹義宣は深雪のなか南郷・赤館に出陣しています。しかし、同月23日付で宇都宮国綱から書状が届き、秀吉が小田原に出陣するから急ぎ帰陣して小田原攻めに参加するよう促しています。同月下旬、伊達政宗のもとには北条氏直から書状とともに冑が届けられ、本当に佐竹討伐のために関東に出陣するのか問うています。北条家及び北条派の関東諸将らは、政宗の佐竹家攻撃に期待して政宗の動向を注視している状況です。

翌2月10日、駿河では家康が小田原攻めの先鋒として駿府を出陣しています。翌11日、家康は後から続く秀吉の軍勢が通りやすくなるよう富士川に舟橋を架けています。同月18日、秀吉は秀次に対して、決して軽率な行動はとらず何事も家康と相談して事にあたるよう訓戒しています。同月20日、秀次も近江・八幡山城を出陣して小田原に向かっています。

2010年3月3日
駿府城址
(静岡県静岡市)

 

同月、津軽では大浦為信が秀吉と面会するために京に向かっていますが、既に秀吉は小田原に出陣していると知り、慌てて近衛家と接触して「近衛家の縁者」と称して沼津で秀吉と面会しています。為信は秀吉から津軽を安堵され、この時から津軽為信と名乗っています。同月22日、一時は秀吉から「罪」に問われかけていた安東実季も秀吉から本領安堵の朱印状を得ています。実季が危機を乗り切った点については、上杉景勝・石田三成ラインの政治力で乗り切った可能性が指摘されていますが、仮にそうであれば、三成との政治的な結びつきがかえって実季の将来を暗転させたという見方も示されています。

同月28日、加賀では前田利家が、北陸勢の総大将として軍勢を率いて金沢城を出陣して小田原に向かっています。北陸勢は信濃で上杉景勝・真田昌幸らの軍勢と合流したうえで、碓氷峠を越えて関東に入り、北関東から武蔵にかけて北条方の諸城を攻略しながら南下し、最後に残った武蔵・忍城を包囲しています。

2009年2月21日
金沢
(石川県金沢市)

 

翌3月、北奥では南部信直も秀吉から小田原参陣を命じられています。信直は八戸政栄に津軽の奪還を命じていましたが、秀吉からの命を受け、やむなく津軽から撤退しています。これで南部家の津軽喪失が確定したことになり、南部人の間には穀倉地帯の津軽を奪った津軽人を仇敵扱いする人もでてきたと伝わります。

同月1日、秀吉は北条氏直征伐のため京を出陣し、小田原に向かいます。千利休も従軍して秀吉の右筆を務めています。秀吉は自身の小田原攻めに対して関東・奥州の諸将らがどう反応するかを観察しています。この点については、現代の研究者から、葛西家・大崎家など名門意識の強い者ほど情勢判断が鈍いという指摘もなされています。秀吉の九州征伐の際に九州に赴いて紀行文を著していた細川幽斎は、小田原攻めの際も関東に赴いて『東国陣道記』を著しています。

 

2010年3月15日
小田原城から石橋山方面を望む
(神奈川県小田原市)

同月19日、秀吉は駿府城に入り、翌20日、秀吉は家康と小田原攻めの手筈を相談しています。同月29日、羽柴秀次勢が山中城攻撃を開始しています。秀次の後見役に任じられていた近江の諸将のうち、山内一豊・中村一氏・一柳直末が先鋒を務めましたが、一柳はこの戦いで討死しています。北条家としては、足柄城・山中城及び韮山城の線で秀吉勢を食い止めるつもりだったようですが、秀吉は足柄城を無視したうえで、秀次に山中城を、織田信雄に韮山城を攻めさせています。秀吉勢は箱根峠を越えて小田原城に迫ります。

翌4月1日、長宗我部元親が清水正令の守る下田城を攻めています。元親は正令を降伏させた後、小田原攻めに加わっています。翌2日、小田原城包囲戦が始まりました。この頃、秀吉の意を受けた黒羽城の大関晴増は、佐竹義宣に対して至急小田原に参陣するよう促しており、義宣も小田原に向かっています。

2010年8月1日
下田城址
(静岡県下田市)

同月5日、奥州では伊達政宗が母・義姫にトリカブトを盛られています。政宗は黒川城で弟・小次郎を殺害し、義姫は兄・最上義光の山形城に戻っています。

同月10日、南部信直は既に叛意が明らかとなっていた九戸政実に対する備えを八戸政栄に任せたうえで、小田原参陣のために三戸を出陣しています。信直は武蔵で前田利家の北陸勢と合流しています。同月中旬になると、小田原城を秀吉の大軍が包囲するに至っており、参考までに軍勢の規模をご紹介しますと、「20万」という数字が挙がっております。

2009年9月15日
三戸城址
(青森県三戸郡)

2009年3月16日
館山城
(千葉県)

同月、房総でも里見義康が軍勢を率いて三浦に渡り、北条勢を攻めています。ただ、里見義康は小田原で秀吉から遅参を咎められ、面会も許しませんでした。義康は家康を通じて謝罪しましたが、小田原の陣の後に上総を没収されることになります。なお、里見家はこの頃に居城を館山城に移しています。

(3) 小田原落城

同月20日、上野では大道寺政繁の松井田城が落城しています。同日付で浅野弾正は伊達政宗に対して、小田原包囲戦の模様及び既に会津没収が決まっていることを伊達政宗に書き送っています。これ以上抵抗すれば北条家と同じことになると理解したのでしょうか、ようやく政宗は小田原参陣を決断します。

 翌5月9日、伊達政宗は小田原参陣のため出発します。この頃、下野では佐竹義重・宇都宮国綱ら反北条勢が、壬生義雄が小田原城に入っている隙に鹿沼城を攻略しています。同月下旬、佐竹義宣・宇都宮国綱らも小田原に参陣し、秀吉に謁見しています。他方、同月、江戸城を無血開城させたことに対する恩賞への不満から、真田昌幸の弟・信尹が家康のもとを出奔しています。翌6月5日、伊達政宗が小田原に参陣しています。ただ、参陣したとはいえ小田原攻めとの関係では何ら役割を果たしておらず、単に名前を連ねただけです。政宗は底倉(足柄下郡)に留め置かれ、前田利家・浅野長政らから詰問を受けることになります。同月9日、政宗は秀吉に謁見しています。

 
 

同じ頃、武蔵では石田三成のもとで、宇都宮国綱・結城晴朝らが成田氏長の忍城を攻めています。秀吉は兵站・調略担当だけでなく武将としても三成に手柄をたてさせようとしていたという見方もありますが、三成は秀吉の期待に応えることはできませんでした。同月14日、北条氏邦の武蔵・鉢形城が落城し、同日、伊達政宗が黒川城帰国を許されています。同月24日には北条氏照の八王子城も落城し、この頃までに北条家の城は本城・小田原城と武蔵・忍城以外はほとんど落城している状況です。この頃、蒲生氏郷・細川忠興・高山右近らが小田原の陣中で旧交を温めています。

翌7月5日、北条氏直の小田原城が落城しました。この時、黒田如水が自ら小田原城に乗り込んで、北条氏政に直談判して開城を決意させたとも伝わります。氏政・氏照は自害し、宿老・松田憲秀も自害に追い込まれましたが、当主・氏直は家康の娘婿ゆえに高野山追放処分にとどまっています。なお、氏規は後に家康から赦免され、河内・狭山藩1万石を与えられて家名の存続を許されています。

 

東京駅(イラストAC)

秀吉は、小田原攻めの軍功第一を家康とし、同人に北条家の旧領を与えています。この頃の家康は、かつて自身を人質にとっていた今川義元の領国に武田家旧領の一部を加えていましたが、小田原攻めの論功行賞によって領国全体が東に移動することになりました。これまで関東で覇権を握ってきた北条家の旧領をポンと家康に与えてしまった秀吉は気前が良いとも思えますが、この人事異動には秀吉が警戒する家康を中央から遠ざけて関東に追いやる狙いがあり、あわよくば佐々成政のように統治に失敗して問責の口実にできないかと期待していた可能性も指摘されています。なお、家康は本当は伊豆を欲していた可能性も指摘されています。

関東に移された家康は、扇谷上杉家家宰・太田道灌が築城した江戸城を居城として領国経営を開始しました。これが今日の1,000万人都市・東京につながりました。一般には、江戸城を居城とした家康に先見の明があったと理解されていますが、これに対しては、江戸城を居城として選定したのは秀吉であり、家康の先見の明を言うのであれば、むしろ秀吉による実質的な追放処分を断らなかった点に求めるべきという指摘もあります。

2017年12月29日
渋谷センター街
(東京都渋谷区)

 

秀吉は家康の異動によって空いた東海道及び武田旧領に織田信雄を置こうとしましたが、尾張・伊勢5郡の信雄はこれを辞退したため改易処分を受け、尾張・清洲城には秀次が入れられています。これに伴い、秀次の後見人に指名されていた近江の諸将らが東海道沿いに配置されることになります。秀吉としては家康を遠くに追いやるとともに、関東と上方の間の東海道にいわゆる豊臣恩顧の諸将らを配置したことで万全を期したつもりだったかもしれません。しかし、掛川に配置された山内一豊は、後の関ヶ原の戦いを家康の勝利に導くうえで重要な要素の1つとなったとも伝わります。なお、石田三成が佐和山城に入った時期については争いがあるようですが、一説によると、同年7月に東海道に移された堀尾吉晴に代わって三成が入ったと考えられています。

真田信幸は上野の吾妻・沼田領の大部分を安堵されていますが、この時から信幸は正式に家康配下となり、上田から独立した信幸による沼田支配が始まることになりました。他方で、昌幸には真田家譜代の家臣や一部の吾妻衆が従っており、この頃から次男・信繁が上田城で兄・信幸に代わって昌幸の後継者としての立場を固め始めています。このような経緯が、後の関ヶ原の戦いの際、真田家が東西両陣営に分かれて戦うことにつながっていきます。

2011年4月16日
上田城址
(長野県上田市)

 

小田原落城により、秀吉の天下統一事業はほぼ完成しています。ただ、鎌倉幕府もそうでしたが、統治を安定させるためには軍事力だけでなく官僚機構も必要です。それゆえ、京で朝廷に学問をもって奉仕してきた大江家の広元が、坂東武士の武家社会に招かれて官僚機構を率いることになりました。そして、戦闘が減少した頃には広元が御家人序列第1位になるほど重用されています。

 小田原落城により戦闘が減少したことは、領国経営に通じた文治派の立場が相対的に高まることを意味し、合戦の場を失った武断派との対立が生じることになります。また、配下に対する新恩給付を十分行うためには、その前提として与えることのできる土地が必要ですが、これを後三年の役の後の八幡太郎義家のように自らの財産をもって恩賞に充てることのみで賄うには限界があります。役員報酬を削減して雇用を維持することにも限界があることと同様です。また、室町将軍が有力守護家の内紛を煽って粗相のあった者から所領を没収して恩賞に充てたように、ことさら部下同士を争わせるのも国の乱れにつながるでしょう。豊臣政権が朝鮮出兵を決断した理由としては、文治派と武断派に共通の敵を国外に作ることによって結束を保とうとしたことや、十分な恩賞の給付のために国外にパイを拡大しようとしたことなどが挙げられています。

2009年2月8日
名護屋城・二の丸跡
(佐賀県唐津市)

 

同月11日、武蔵・忍城も落城しています。同月13日、秀吉は小田原城に入り、同日、惣撫事令を無視し続けてきた伊達政宗は、秀吉から会津・仙道を没収されて米沢に戻されています。蘆名義広を摺上原で破った時点での戦国最大級の版図は、1年ほどで失われています。ただ、本来であれば島津家や北条家と同様に討伐を受けても仕方ないところを、一兵も失うことなく外交によって新領没収に踏みとどまっていることは、もっと積極的に評価されてしかるべきという指摘もあります。なお、政宗が没収された会津には当初は細川忠興が入れられる予定でしたが、忠興がうまく辞退したために蒲生氏郷が入っています。氏郷は本当は畿内に留まっていたかったのではないかという推測もなされています。

かくして、秀吉による家康封じ込め策が完成しました。すなわち、会津には蒲生氏郷を入れて伊達政宗への備えも兼ねさせ、甲斐には北条遠江を入れ、北条の死後は浅野長吉を入れ、東海道には山内一豊ら秀次後見人を入れて家康を関東に封じ込めて政権の安定を図ったわけです。

 
 

同月17日、秀吉は小田原を発ち、同月26日、宇都宮城に入っています。秀吉はこの地で関東仕置きを定めています。奥州における豊臣代官的立場の南部信直は南部7郡を安堵されましたが、九戸政実が九戸城を破却して妻子を人質として差し出すことを受け入れるかを懸念しています。長らく関東で反北条勢力として戦ってきた佐竹義宣・宇都宮国綱も常陸・下野を安堵され、また、義宣の弟で摺上原で伊達政宗に敗れた後は兄・義宣の常陸に逃れていた蘆名義広も常陸国内の所領を安堵されています。結城晴朝はこの時に秀吉のために宿を準備したうえで、秀吉に養子を願い出ています。これを承諾した秀吉は、家康の次男で自身の養子となっていた羽柴秀康を結城家に入れています。

他方、南部家と北奥で敵対してきた安東家の実季も宇都宮城で秀吉に謁見を許され、南部家に奪われていた比内の返還を認められています。ただ、内紛を起こした末に南部家のもとに逃れた湊通季は、南部信直とともに小田原に参陣していましたが、秀吉との謁見は許されず、湊家の回復も認められませんでした。皆川広照は一旦は北条方として小田原城に入りましたが、同年4月上旬に城を脱出して秀吉に降伏し、やがて江戸幕府の旗本として存続しています。那須資晴は北条方として一旦は滅亡しましたが、後に息子・資景が那須領を与えられて再興を認められ、やはり江戸幕府の旗本として存続しています。壬生家は義雄が同年7月に討死したことにより滅亡しています。

 

翌8月1日(八朔)、家康が正式に江戸城に入っています。江戸幕府は「八朔之御祝儀」を最重要行事と位置づけています。同月6日、家康の次男・結城秀康も結城城に入っています。晴朝は下野・栃井城に隠居し、鎌倉以来の名族・結城家には秀吉の影響力とともに家康のそれも及ぶに至っています。後述の小早川隆景の対応との対比の視点が有益と思われます。

同月9日、秀吉は会津・黒川城に入り、厳しい奥州仕置きを定めています。葛西晴信・大崎義隆・稗貫輝家・和賀信親・石川昭光・白河義親らが所領を没収されています。白河義親は伊達政宗の家臣となり、南北朝以来の独立勢力としての白河家は終焉を迎えています。大崎家は奥州探題を世襲してきた名門ですが、その所領は明智光秀の旧臣で伊達政宗との連絡の功績を認められた木村吉清・清久父子に与えられてしまいました。秀吉の奥州仕置きに不満の葛西・大崎・稗貫・和賀らが「反秀吉」で結束して葛西・大崎一揆を起こすことになります。

2009年3月10日
黒川城址
(福島県)

2008年6月7日
伝若松の森跡
(滋賀県)

同日、蒲生氏郷も黒川城に入っています。氏郷は会津在任中に「黒川」を「若松」に改め、城下町を発展させて今日の会津若松の基礎を築いています。この頃、最上義光も会津・興福寺で秀吉に謁見し、正室・大崎殿を人質として差し出して所領の安堵を受けています。また、義光は会津からの帰路、信夫で家康を訪問し、その席で次男・家親を人質として差し出す旨申し出て家康の了承を得ています。

(4) 撫切り令

秀吉の同月12日付の浅野長政に対する書状は、いわゆる「撫切り令」として有名です。この頃、長宗我部元親は秀吉の命により、蜂須賀家政・生駒近規らとともに小田原から富士山麓に赴き、大仏殿に用いるために本当に樹木を撫切っています。翌13日、秀吉は黒川城を出て京に戻っています。

2009年3月16日
館山城
(千葉県)

同月15日、家康は家臣らを関東各地に配置していますが、秀吉から小田原遅参を咎められて上総を失った里見家は、安房一国に押し込められて家臣の知行高が大幅に減じられています。上総は、佐貫城は内藤家長に、久留里城は大須賀康高に、大多喜城は本多忠勝に、勝浦城は植村泰忠に与えられています。この年、里見義康は本城を館山城に移しています。

(5) 太閤検地

同じ頃、浅野長政は稗貫に入り、太閤検地を実施しています。長政は2ヶ月ほどこの地に滞在していますが、不満分子らが北では九戸政実、南では伊達政宗を軸に結集していきます。なお、長政はこの頃に平泉の中尊寺から藤原秀衡以来の寺宝を持ち出して豊臣秀次に献上してしまいました。同年秋頃には渡島の蠣崎慶広が津軽・鰺ヶ沢に上陸し、同地で前田利家・大谷吉継らと面会して上洛の許可を得ています。

 
 

翌9月1日、秀吉は京に凱旋しています。同月、秀吉は有馬温泉に湯治に赴いていますが、有馬滞在中も北奥の九戸政実の動向を気にしています。

(6) 葛西・大崎一揆

翌10月16日、葛西家旧臣・柏山明宗勢が旧領の前沢城を攻撃したことが発端となり、葛西・大崎一揆が勃発しています。浅野長政が奥州を去った直後に蜂起した一揆は、やがて磐井・玉造・稗貫・和賀・胆沢にも波及していきます。同月、越後では上杉景勝が検地に反対する一揆を鎮圧して酒田城に入り、出羽庄内でも前田利家が由利一揆を鎮圧しています。同月23日、浅野長政は白河で葛西・大崎一揆の報を受け、直ちに蒲生氏郷と伊達政宗に出陣を命じています。この間の同月21日、出羽では上洛の許可を得た安東実季・蠣崎慶広が海路、京に向かっています。

 翌11月5日、蒲生氏郷が葛西・大崎一揆の鎮圧のため黒川城を出陣しています。討伐軍の先陣は伊達政宗が務めていますが、政宗はこの一揆との関連を疑われて後に京に呼び出されています。他方、上杉景勝は、同月20日、春日山城に戻っています。また、同月、前田利家も加賀に戻っています。

2009年3月10日
黒川城址
(福島県)

2009年1月31日
首里金城町石畳道
(沖縄県)

同月、朝鮮通信使が秀吉に謁見し、秀吉から国書を渡されています。この国書には、「大明国を日本の風俗に変えてしまうつもりであるから、朝鮮はその先駆けの役割を果たせ」と書かれています。また、秀吉はこの年に琉球王・尚寧にも征明計画を明かしていますが、日明両属の琉球側は大いに驚き、直ちに使者を明に派遣して秀吉の計画を通報しています。

この年にローマから帰国した少年使節とともにイエズス会巡察師・ヴァリニャーノが長崎に到着し、秀吉はこれを聚楽第で盛大に迎えています。ただ、自身が発した伴天連追放令との関係が問題になるでしょう。我が国におけるキリシタン弾圧の本格化は、江戸幕府、特に第3代将軍・家光以降と理解されています。

2012年11月2日
釧路湿原
(北海道)

翌12月、秀吉は浪人停止令を発し、「浪人」、すなわち、主をもたず田畑も作らない侍を追放しています。同月16日、安東実季・蠣崎慶広が京に入り、同月18日、慶広は前田利家・大谷吉継・木村常陸介と面会し、翌19日、3人の口添えによって聚楽第で秀吉に謁見を許されています。この時、秀吉はしきりに「狄ヶ島」事情を尋ねています。この時、慶広は従五位下・民部大輔に叙任され、安東家を介さない秀吉との直接的結びつきを得ています。なお、観光地の紹介として便宜上ここで釧路湿原の画像を使用しましたが、当時において釧路湿原も「狄ヶ島」と認識されていたかは未確認です。

 同月19日、常陸では佐竹義重が江戸家の水戸城を攻略し、南北朝以来の同家を滅ぼしています。江戸重通は妹婿・結城晴朝のもとに逃れています。同月22日、義重はさらに府中城も攻略して大掾家も滅ぼしています。大掾清幹ら一族は自害しています。