織豊政権11 ~清洲会議~

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パーフェクトコレクション イースⅠ・Ⅱ~米光亮全曲集/Copyright© Nihon Falcom Corporation
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68 清洲会議

2008年5月31日
織田信長公本廟
(滋賀県)

(1) 変の影響

信長を討った明智光秀は、勝龍寺城に家老・溝尾庄兵衛を残したうえで、ほぼ全軍を率いて近江・瀬田に向かいます。光秀は変直後に安土城に入ることによって、信長の後継者としての立場を政治的に喧伝するとともに、信長の軍資金をおさえようとしたものと思われます。

しかし、瀬田城の山岡景隆は光秀からの帰順の誘いを断り、安土城への通り道である瀬田橋を落として甲賀へ逃れてしまいました。これにより、瀬田橋の復旧までの3日間、大軍が瀬田に足止めされ、その間、光秀は坂本城に入らざるを得ませんでした。この点については、本能寺からスムーズに安土城に入った場合とは政治的なインパクトが異なってくるという指摘もあります。

2010年1月28日
瀬田城址
(滋賀県)

 

瀬田橋の復旧を待つ間も、光秀は積極的に信長家臣や反信長陣営に対する勧降工作を続けています。同日付の美濃・野口城の西尾光教宛の光秀の書状には、「信長父子の悪虐は天下の妨げ」という記述があり、これが光秀の謀反の理由に関する信長非道阻止説の論拠の1つとされています。この時期の勧降工作に関する光秀の書状が乏しいことについては、秀吉の天下を迎えるにあたり証拠隠滅を図った者が多かった可能性が指摘されています。今日においても、何ら合理的理由が示されないまま重要な公文書がこの世から消え失せる事態がしばしば生じています。

 翌3日も、光秀は勧降工作と近江平定に尽力しています。光秀に与した者としては、若狭武田元明、京極高次、阿閉貞征らがおりました。同日、越中では魚津城が落城し、上杉方の諸将が玉砕しています。

同日、細川幽斎・忠興父子のもとに、愛宕山下坊幸朝僧正からの使者・早田道鬼斎が到着し、本能寺の変を伝えています。

2009年12月6日
舞鶴城址
(京都府舞鶴市)

2009年12月29日
高松城址・ごうやぶ
(岡山県岡山市)

同日夕刻、明智光秀が毛利輝元のもとに派遣した密使が秀吉に捕えられています。本能寺の変を知った秀吉は、使者の首をはねるとともに、信長の死を毛利家に知られないよう、海陸ともに封鎖しています。そして、同日夜、安国寺恵瓊を招いて毛利家との講和を急いでいます。これまで秀吉は、「毛利領10ヶ国のうち7ヶ国を織田家に割譲し、安芸・周防・長門の3ヶ国とする」ことを和睦の条件として主張してきました。しかし、秀吉はここから大幅に譲歩して、「備中・美作・伯耆3ヶ国を織田家に割譲する」という条件を新たに提示しました。

秀吉と毛利家との和睦交渉は、秀吉の陣所で翌4日未明まで続きました。同日正午すぎ、高松城の清水宗治は、湖と化した城中に浮かべた船の上で切腹しています。同日午後3時頃、毛利家も宗治の意をくんで秀吉と和睦の誓紙を交換しました。

2009年12月29日
備中・高松城址
(岡山県岡山市)

 

毛利家が本能寺の変を知ったのはこの日の夕方でした。吉川元春は秀吉を追撃すべきと主張しましたが、小早川隆景は誓紙の血判も乾かぬうちにこれを破るのは武士の道に反する、大友家とも交戦中であるし、ここは秀吉に恩を売っておく方が得策と主張したと伝わります。元春は、父・元就の教訓状を思い出して、渋々ながらも隆景に従ったと伝わります。後に、この時の隆景の判断が秀吉に評価され、隆景は豊臣政権のもとで五大老の1人に列せられることとなります。

 確かに、秀吉は講和を急いでいたとされますが、この講和をいずれが切り出したかは別問題です。この点については、上方情勢に詳しい隆景が、中央勢力との戦いで毛利家が壊滅することを避けるために、安国寺恵瓊を使者として講和を切り出していた可能性が指摘されています。これまでご紹介した経緯が事実であったならば、秀吉は毛利家に対してリスクを秘したうえで高値で売り抜けたということになります。ただ、毛利家においては、この時に秀吉を追撃していれば天下は即座に毛利家のものとなっていたという見方も根強かったようです。なお、黒田孝高は、変を知った秀吉に対して、「これで殿の運も開けた」と述べたという話も伝わります。この年、備前で毛利家を食い止めていた宇喜多直家が死去しています。

同日、変報を受けた北陸方面軍は全軍撤退しています。滅亡の覚悟を吐露するほど追い詰められていた上杉景勝は、本能寺の変によって窮地を脱しています。この時、佐々成政だけは越中に留まって上杉勢との戦闘を続けています。

2009年2月27日
春日山城本丸跡
(新潟県上越市)

2008年6月29日
秀吉の頃の大坂城
(大阪府)

四国方面軍は、四国渡海予定日の前日に信長が討たれたことで混乱状態に陥り、多くの兵が逃亡しています。阿波にいた三好康長も変報を聞いて狼狽し、阿波を出ています。織田信孝に従って大坂城にいた織田信澄は、信孝や丹羽長秀から光秀への加担を疑われ、同城内で殺害されています。なお、長宗我部元親の妻は、明智光秀の重臣・斎藤利三の妹です。

本能寺の変があった日、家康は堺で遊んでいました。家康の堺からの帰路は、斬死を口にするほど危険なものだったようです。家康は光秀を討つ機会を逃しましたが、信長の死によって織田家の領国となったばかりの甲斐・信濃・西上野が混乱状態に陥っていました。それゆえ、家康は織田家の混乱に乗じて甲斐・信濃を支配下に収めようとしていた可能性が指摘されています。

2009年12月25日
妙國寺
(大阪府堺市)

2008年6月7日
日野城址
(滋賀県)

安土城の留守を任されていた蒲生賢秀は、変報を受け、城中の動揺を抑えつつ信長の家族や家臣らを自身の日野城に避難させています。対武田戦から帰陣して日野城に入っていた氏郷も、父・賢秀から連絡を受けて安土城まで迎えに行き、一行を日野城に迎え入れています。

同日、近江では光秀に与した若狭武田元明が、丹羽長秀の佐和山城を攻略しています。光秀は、この日までに近江の大部分を自派に組み入れています。

2012年10月28日
佐和山城・西の丸跡
(滋賀県)

2010年1月28日
瀬田
(滋賀県)

翌5日、瀬田橋が復旧しています。明智光秀は山岡に出鼻をくじかれた格好となりました。留守を任されていた蒲生賢秀は、光秀に安土城を無血開城しましたが、光秀からの「降伏すれば近江半国、(すなわち、かつての主家・六角家の旧領)を与える」との誘いを拒否しています。光秀は同月8日まで安土城に留まっていますが、山崎の戦いで摂津衆の説得に失敗していることから、この頃に朝廷工作に時間を使いすぎたのではないかという指摘もあります。

同じ頃、光秀の命を受けた京極高次は、秀吉の本拠地・長浜城を攻略しています。同城には斎藤利三が入っています。同日、前田利家が小丸山城に戻っています。

2012年10月28日
豊公園
(滋賀県)

 

(2) 中国大返し

 翌6日、秀吉は吉川元春・小早川隆景の軍勢が退いたのを見届けたうえで京方面に撤退しています。秀吉の軍勢は一昼夜で55km走ったこともあったと伝わり、この時の行軍は「中国大返し」と呼ばれています。

翌7日夕刻、明智光秀は勅使・吉田兼見と面会しています。兼見は、京の経営を光秀に任せるという誠仁親王の考えを伝えています。

2008年5月31日
織田信長公本廟
(滋賀県)

2010年1月28日
坂本城址
(滋賀県大津市)

翌8日、明智光秀は安土城から坂本城に移っています。

 翌9日、上洛した明智光秀は、朝廷・京都五山・大徳寺・吉田兼見などに献金をしています。これには、勅使派遣に対する御礼とともに、政治工作の意味合いがあった可能性が指摘されています。

同日付で姻戚関係にある細川幽斎・忠興のもとに明智光秀からの書状が届いています。光秀は細川父子に対して摂津を与える旨を申し出ていますが、細川父子はこれを拒絶したうえで、髪を切って「主を失った遺臣」の立場をとっています。幽斎は宮津城を忠興に譲って田辺に隠居し、忠興は妻・ガラシャと離縁したうえで山奥の丹波・三戸野に幽閉し、丹波の明智方の城の攻撃を開始しています。翌10日、明智光秀は筒井順慶の出馬を促すために洞ヶ峠に赴いています。

2009年12月6日
舞鶴城址
(京都府舞鶴市)

 

同月12日夜、備中から大急ぎで戻ってきた秀吉の軍勢が摂津・富田に到着しています。既に秀吉・光秀両軍の先鋒同士による小競り合いが始まっています。光秀は天王山と淀川に挟まれた山崎の地が迎撃に適していると判断しました。今日においても、「司法試験の天王山は論文式試験」などという表現が用いられています。

(3) 山崎の戦い

翌13日午後4時頃、秀吉勢と光秀勢が山崎で激突しました。秀吉勢の先鋒は池田恒興・高山右近・中川清秀ら摂津衆が担い、光秀勢の先鋒・斎藤利三隊が崩れた時点でほぼ勝敗は決した観がありました。敗れた光秀は本陣を勝龍寺城に移し、日没を待って城を脱出します。この時の光秀の目的地としては、安土城なのか坂本城なのか、いずれにせよ近江方面を目指していた可能性が指摘されています。

2009年6月4日
勝龍寺城址
(京都府長岡京市)

翌14日、明智光秀は下鳥羽・大亀谷を経て小栗栖まで逃れたところで落ち武者狩りに遭って討死しました。秀吉は光秀の首を本能寺の焼け跡に晒しています。同日、丹波では亀山城も落城しています。

2008年3月20日
明智藪
(京都府)

2010年1月28日
坂本城址・明智塚
(滋賀県大津市)

翌15日、坂本城も落城し、明智秀満は自害しました。これにより明智家は滅亡しています。本能寺の変の後、光秀の勧降工作に応じて秀吉方の城を攻めていた面々は苦しい立場に立たされています。秀吉の本拠地・長浜城を攻めてしまった京極高次は、秀吉に追われる身となって越前の柴田勝家を頼っています。また、飛騨の諸勢力においても、秀吉と勝家の間で揺れ動いていた可能性が指摘されています。

ただ、伝承によれば、坂本落城の際、明智秀満の息子・太郎五郎が土佐に逃れ、才谷村に住んで才谷姓を称したということになっています。そして、才谷家から江戸幕府末期に坂本龍馬が輩出されたと伝わります。

2009年2月16日
桂浜・坂本龍馬像
(高知県)

 

同月中旬、北奥では南部家の北信愛が、由緒書と馬3頭・鷹5羽を伴って、使者として糠部を出発して信長のもとに向かっています。しかし、越後まで来たところで変報に触れ、糠部に戻っています。南部家では、この年に信直が当主の座についた可能性が指摘されています。武田家の滅亡の時点で奥州の諸将らは少なからずショックを受けていたようですが、これに信長の死も重なったことで、鳴りを潜めて上方の情勢を窺っているという指摘もあります。

同月18日、関東では北条氏政・氏直父子が、織田家の混乱に乗じて金窪・本庄原の戦いで滝川一益を破っています。一益は伊勢に逃れ、一益を総司令官とする関東方面軍の成立を肯定したとしても、それは3ヶ月足らずで瓦解しています。一益の伊勢帰陣によって上野・信濃が無主の地となり、徳川・北条・上杉による草刈り場となっています。家康は甲斐に侵攻し、北条家は一益を追撃しながら信濃に侵攻し、上杉家は川中島に侵攻しています。一益に属していた真田昌幸も一益の伊勢帰還を支援していますが、旧武田領が混乱状態に陥ったことで昌幸にも領国形成の機会が巡ってきています。

 
 

同月23日、能登では畠山旧臣の温井景隆・三宅長盛・遊佐景光らが織田家の混乱に乗じて旧領回復を目指し、女良浦に上陸して石動山天平寺衆徒に迎えられています。前田利家は柴田勝家と佐久間盛政に援軍を要請し、翌24日夜、小丸山城を出陣しています。翌25日、利家は芝峠に張陣し、翌26日、石動山で戦っています。利家はこの戦いで討取った1,000人あまりの首を山門の左右に晒しています。

(4) 清洲会議

 同月27日、清洲城で織田家の今後に関する会議が開かれました。いわゆる清洲会議です。信忠の嫡男・三法師が織田家を継ぎましたが、信長の次男・信雄と結んだ秀吉と、信長の三男・信孝と結んだ柴田勝家の対立が徐々に顕在化していきます。いずれの側に与するか、織田家家臣のなかで特に悩みが深かったと思われる人物を2人ご紹介しておきます。

2009年10月31日
清洲城址
(愛知県)

 

まずは前田利家です。利家にとって柴田勝家は、信長の同朋衆を殺害した際に助命を嘆願してくれた恩人です。しかも、北陸方面軍総司令官の勝家のもとで、ともに北陸戦線を戦ってきた間柄でもあります。しかし、それらを考慮してもなお秀吉とは勝家以上に個人的に親しい関係を築いていたという指摘もあります。

次に蒲生氏郷です。氏郷の妻・冬姫は信孝の同母妹であり、しかも、信孝が継いだ神戸家は蒲生家と2代にわたり縁戚関係を築いてきました。さらに、氏郷にも柴田勝家の与力だった時期があります。一説によると、氏郷は成願寺陽春の卜占によって秀吉に与することを決めたとも伝わります。

 
 

四国では長宗我部元親も東伊予・西讃岐の諸将らに対して、東讃岐への出陣を命じています。元親は織田家の対立構図のもとで信孝側に誼を通じています。元親に秀吉の背後を衝いてもらいたい信孝と、織田家の分裂に乗じて本州進出を狙う元親の間で利害が一致していました。同月末、長宗我部勢は藤尾城の香西好清を降して十河城に迫っています。同月、九州では大友・島津両家の間に和睦が成立しています。信長は生前に近衛前嗣を通じて島津義弘に対して和睦を促していました。