伊達政宗は死に装束で秀吉に謁見したのか(萩原大輔氏の考察)

 毎日新聞(2022年4月4日配信)によると、伊達政宗が秀吉に謁見した際の服装について、富山市郷土博物館の萩原大輔・主査学芸員から、「有名な研究者の論著が、裏付けのないまま通説化してしまったのでは」という指摘がありましたのでご紹介します(以下、同新聞の記事から抜粋)。

 戦国武将、伊達政宗(1567~1636)が小田原征伐中の豊臣秀吉に謁見した際、死に装束だったという有名なエピソードが、実は確固たる裏付け史料がないことが、富山市郷土博物館の萩原大輔・主査学芸員(40)の調査で分かった。3月に出版した著書「異聞 本能寺の変」の中で発表した。

 (中略)

◇富山の学芸員が文献を調査

 このエピソードの根拠とされてきたのは、加賀藩の古文書を多く所蔵する金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵の「乙夜之書物(いつやのかきもの)」だ。同書は、加賀藩の兵学者、関屋政春(1615~85)が、自らの見聞をまとめて1669年に記したもの。その中で、前田七郎兵衛という人物が政宗と加賀藩二代藩主、前田利常との会話を聞いた内容として謁見の場面が紹介されている。当事者による証言に基づいた記述は信ぴょう性が高いという。(下線:蒼天 以下同様)1938年編さんの「伊達政宗卿伝記史料」の中では、「関屋政春覚書」の名で翻刻が掲載されている。

 萩原さんは、本能寺の変について調べるためこの書物を読み解いたところ「秀吉が作りひげをつけて朱色の鞘(さや)の太刀を身につけていた」という記述があるものの、政宗の身なりに関する記述は、懐に小さな脇差しをしのばせていたという記述以外にはなかった。

 ◇研究家の論著、裏付けなく通説化か

 死に装束の出典について疑問に思った萩原さんは、その根拠の調査を開始。その結果、政宗研究の大家の故・小林清治氏が1959年の著書の中で「髪を水引で結び、死に装束をした政宗は秀吉の前に出た(中略)と『関屋政春覚書』は記している」との記述を発見した。その後、この論著に「裏付ける確実な史料はない」との異論も出たというが、その後次々と引用された。萩原さんは「有名な研究者の論著が、裏付けのないまま通説化してしまったのでは」と推測する。

 (以下略)