南北朝期8 ~京都御扶持衆~

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42 京と鎌倉の対立

 

(1) 伊達持宗の乱

翌1409年7月22日、公方・満兼が死去しました。満兼の死により、持氏が第4代公方に就任しました。関東管領は上杉憲定です。その頃、京では三宝院満済が東寺長者として宗教界のトップに就任するとともに、後小松天皇から公家護持僧にも任じられています。宗教界のトップであるとともに、公家と武家の双方から護持僧に任じられた満済は、義満亡き後に大きな影響力を行使することになります。

駿河では、同年9月26日、今川泰範が死去しました。範政が今川家の家督を継いでいます。京と鎌倉の対立が顕在化するにつれて、その中間に位置する駿河守護の任務の重要性が認識されてきました。

 
 

翌1410年8月、公方・持氏の叔父・満隆が陰謀を企てているとの風聞が鎌倉に広まりました。満隆が持氏の幼少に乗じて上杉氏憲(禅秀)と結んで鎌倉府の実権を握ろうとしているという話です。関東管領・上杉憲定の説得により満隆が謝罪し、持氏の弟・持仲を自身の養子とすることで解決が図られました。三戸南部守行が八戸南部家に代わって惣領の座につけた原因は、この騒動の際にいち早く鎌倉に出仕して持氏支持の立場から事態の収拾に努めたためである可能性も指摘されています。かつて南朝勢力として戦った奥州の南部家は、持氏の頃に鎌倉府を後ろ盾として北奥で頭1つ抜きん出た勢力に成長することになります。

同年12月23日、持氏は元服し、将軍・義持から一字賜って「持」氏と名乗ることになりました。2年後に伊達家を継ぐことになる伊達持宗も、将軍・義持から「持」の字を賜っており、京との結びつきが窺えます。伊達家の当主は、持宗から輝宗まで足利将軍から偏諱を受けることになります。このように、名前から当時の支配関係ないし力関係を推測するという手法も、歴史研究者の著書を読んでいると頻繁にでてきます。なお、山内上杉家では、この年に足利学校の再興に尽力することになる上杉憲実が生まれています。

 
 

この頃、畿内では後亀山上皇が嵯峨を出奔して吉野に移ってしまいました。南北朝合一の際、義満は「北朝と南朝から交互に天皇が即位する」という条件を呑んでいたのですが、北朝は後小松天皇の後に南朝の天皇を即位させることを渋っていました。皇位継承に関する交渉が決裂した末の出奔です。結局、北朝の躬仁親王(称光天皇)が立太子され、南北朝合一の際の条件は反故にされました。

翌1411年2月9日、(犬懸)上杉禅秀が(山内)上杉憲定の後任として関東管領に就任しました。ただ、前年の秋頃から既に事実上管領として振舞っていた可能性も指摘されています。

 同年7月、飛騨では飛騨国司・姉小路尹綱らが向・小島両城に立て籠っています(応永飛騨の乱)。幕府は飛騨守護・京極家らに追討を命じ、主将として乱を鎮圧した京極高数は幕府から竹原郷(下呂町)を与えられ、京極家は代官として三木家を飛騨に派遣したと伝わります。三木家は、宇田源氏佐々木家の支流である多賀家の流れをくむという話もありますが、三木家の良頼は自家を藤原家の末裔と認識していた可能性も指摘されています。また、この乱の鎮圧をきっかけとして、京極家が高山盆地を中心として飛騨支配を強めた可能性も指摘されています。

 

2009年3月9日
大仏城址
(福島県福島市 福島県庁)

1413年4月、伊達政宗に続き、持宗も鎌倉府に対して反旗を翻しました。鎌倉府においては、持宗の挙兵は政宗の意を受け継いだものと理解されていますが、「後南朝の乱」という受け止め方をする人もいたようです。伊達家の旧臣に加えて、反体制的な武士らも大仏城に結集しました。公方・持氏は、二本松城の畠山国詮に討伐を命じた後、白河家にも軍勢催促を命じています。

 同年12月21日、兵糧が尽きた伊達勢が大仏城から撤退したため、軍事的に見れば一応は鎌倉府の勝利となりました。しかし、奥州支配という鎌倉府の政治目的を阻んだことが伊達家の名声を一層高めたという指摘もあります。伊達家が執拗に蜂起し続けられたのは、「京VS鎌倉」という対立軸のもとで、水面下で京の幕府が伊達家を支援していたからです。この乱において、稲村満貞と篠川満直はともに持氏に非協力的でした。鎌倉府の持氏が自分たちの頭越しに奥州に対して直接に指示を送ったことに不満だった可能性も指摘されています。

翌1414年6月、加賀では、斯波満種に代わり、富樫家が守護を回復しています。斯波義将は既に4年前に死去しています。強すぎる臣下の力を削ぎたい将軍・義持と、守護復帰を望む富樫満成の思惑が一致した結果としての人事という指摘もあります。この年、かつて斯波家とともに細川頼之に対抗した土岐家では、頼益が死去して持益が家督を継いでいますが、持益の頃から斎藤家が台頭してくることになります。同じく反頼之派だった山名家では、明徳の乱での凋落から立ち直り、時熙が侍所所司に就任しています。この頃から侍所所司が山名・一色・京極及び赤松の4家に固定され、細川・斯波及び畠山の三管領に加えて四職の家柄と呼ばれるようになっています。

 
 

翌1415年4月25日、鎌倉府の政所評定所が、(犬懸)上杉禅秀の家人・越幡六郎の所領を病気欠勤を理由として没収しました。禅秀はこれに抗議しましたが、主張が容れられなかったため、翌5月2日、関東管領を辞任しました。同月18日、公方・持氏は、犬懸上杉家に代わり山内上杉家の憲基を後任の関東管領に任じました。禅秀の関東管領辞任については、禅秀を疎んじた持氏が禅秀を挑発して辞任に追い込んだ可能性も指摘されています。

畿内では、鎌倉府の関東管領交代に将軍・義持の異母弟である足利義嗣が反応し、禅秀と結んだうえで反乱を起こすことを計画しました。義嗣は父・義満の寵愛を受けながらも将軍には就任できておりません。また、禅秀も家人に対する処分をきっかけとして公方・持氏と対立しています。ここに、山内・犬懸両上杉家の対立に、京と鎌倉府の不満分子同士の結託という要素も加わることとなりました。なお、この年の春頃に伊勢国司・北畠満雅を中心とする旧南朝勢力が伊勢で蜂起したため、幕府は追討軍を派遣しています。

 同年秋頃、禅秀の家臣らが武具を密かに禅秀邸に運び込んでいます。禅秀は、「不義の御政道を正す」として、先に持氏に背いていた満隆を擁立したうえで、公方・持氏と関東管領・上杉憲基の討伐の檄を関東の諸将に発しています。禅秀側には、本来であれば鎌倉府を支えるべき篠川満直も与しています。なお、この年の10月に幕府と北畠勢の間に和睦が成立しています。

 
 

越前では、この年に本願寺蓮如が生まれています。蓮如は後に吉崎を拠点として勢力を伸長させ、蓮如が育てた一向宗は、後に織田信長と熾烈な抗争を繰り広げるとともに、西から越後の上杉謙信を窺うことになります。

なお、ヨーロッパではポルトガル王・ジョアン1世が北アフリカのセウタを征服したことをもって、いわゆる大航海時代が幕を開けています。

 

 

 

(2) 上杉禅秀の乱

翌1416年10月2日、上杉禅秀が公方・持氏の御所と関東管領・上杉憲基の屋敷を襲撃しました。持氏は伊豆を経由して駿河に逃れ、今川範政に保護されています。範政においても、京と鎌倉の間に位置する駿河守護の特殊な役割を既に自覚していたという指摘もあります。京では満済が範政からの情報を将軍・義持に取次いでいます。禅秀の乱をきっかけとして、満済はそれまでの祈祷中心の職務から幕政への関与を強める方向にシフトしていきます。他方、上杉憲基は越後に逃れました。禅秀によって擁立された満隆の猶子・持仲が鎌倉に入って公方を自称したことで、鎌倉で一時的に新政権が成立しています。持氏は京と緊張関係にありながらも、幕府に援軍を求めました。

同年10月29日、幕府は持氏「救援」のため、駿河の今川範政・越後の上杉房方・信濃の小笠原政康らに対して禅秀討伐を命じました。幕府による持氏「救援」の初動が遅い感がある点については、これまで反幕的行動をとってきた鎌倉府の弱体化のために、しばらく静観していた可能性も指摘されています。ただ、最終的に持氏「救援」を決定した背景には、京の将軍・義持にとっては、まず排除すべきは鎌倉府と結託して将軍の地位への野心を露にした義嗣であり、義嗣を除くという政治目的の限りにおいて、持氏を「救援」する意味があるという情勢判断があったようです。つまり、「現時点では、義嗣よりは持氏の方がまだまし」という相対評価です。それゆえ、「上杉禅秀の乱」というよりも「足利義嗣の乱」というネーミングの方が実態に合致しているという指摘もあります。

 
 

同年12月25日、今川範政は出陣に先立ち、関東の諸将に対して持氏に与するよう書状を書き送りました。これにより、当初は禅秀に与していた関東の諸将の大半が幕府方に鞍替えすることになりました。翌1417年1月9日、禅秀は佐竹義人・上杉房方らの軍勢に敗れて鎌倉に逃れます。そして、翌10日、鎌倉雪ノ下で満隆らとともに自害しました。ここに、犬懸上杉家は滅亡しました。同月17日、持氏は鎌倉に戻り、浄妙寺に入って鎌倉府の再建に努めることになります。しかし、既述のとおり幕府による持氏「救援」は義嗣排除のための一時的連携にすぎず、「京VS鎌倉」という対立軸はなお残っています。

禅秀の乱の際、甲斐守護・武田信満も息子・信長とともに姻戚関係にある禅秀に与しています。しかし、このことが後に鎌倉府の討伐を受ける原因となりました。信満は2年間に及ぶ戦闘の末に木賊山で自害し、三郎信重は出家して高野山に入りました。鎌倉府は逸見有直を甲斐守護に任じようとしましたが、幕府の承認を得られなかったため、しばらく甲斐は守護不在となり、守護代の跡部家が伊豆千代丸を補佐する状態が続きました。なお、甲斐源氏・武田家は、信満が自害した木賊山(天目山)で勝頼も自害して滅亡することになります。

 
 

北奥の三戸南部守行も当初は禅秀に与して出陣していましたが、途中で将軍・義持からの御教書に触れ、直ちに幕府側に寝返っています。「京VS鎌倉」という対立軸のもとで、幕府は鎌倉府との一体的関係を装いつつも、鎌倉府の力を削ぐために陰に陽に伊達「持」宗などの反鎌倉府勢力を支援する状態が続いてきました。それゆえ、東国の諸将らの間に、京の意向に関する誤解があったかもしれません。南部家も禅秀の乱をきっかけとして、京の幕府と直接結びつく方向にシフトしていくのです。

 南部守行は、禅秀の乱の後、嫡子・義政を上洛させて馬や金など莫大な貢物を幕府に献上しています。義政は将軍・義持から「義」の一字を賜って「義」政と名乗るとともに、京都御扶持衆に任じられています。幕府は鎌倉府牽制策として、南部家や伊達家以外にも関東・奥羽において多くの京都御扶持衆を起用していきます。宇都宮「持」綱も、この頃、何度か幕府と直接に連絡をとりあっています。京都御扶持衆の多くは、禅秀の乱において禅秀に与した勢力です。

 なお、伝承によれば、禅秀の乱の頃に八戸南部光経らが出羽の湊安藤家を攻めていましたが、この戦闘の際、九曜星がお膳の上に落ちる夢を光経がみた翌日に合戦に勝利したと伝わります。それ以来、双鶴に九曜星が南部家の家紋となったと伝わります。京の将軍に直結する道を選択した南部家は、やがて津軽の安藤家との戦いを本格化させることになります。

翌1418年1月4日、関東管領に復帰していた上杉憲基が死去しました。これに伴い、養子の憲実(9歳)が関東管領職を継いで鎌倉に入っています。同月、京では将軍・義持の命により、禅秀と結託した足利義嗣が殺害されています。義嗣と持氏の相対評価の末に持氏を「救援」した幕府でしたが、義嗣の死によって「京VS鎌倉」という対立軸が顕在化してきます。同年春頃、常陸の佐竹家では、関東管領・上杉家の義憲による佐竹家継承に反発する山入与義らによって反義憲戦線が形成されていますが、これを京の幕府が支持することになるのです。

 
 

同じ頃、安芸では福原家を除く毛利一族が毛利惣領家の意向に反発しています。安芸国人一揆解体後、中央政界との結びつきを強めていた毛利光房は、将軍・義持に働きかけて一族を処罰してもらうとともに、毛利一族は惣領・光房の指示に従うようにとの御教書を出してもらっています。独立性を強めている庶家を惣領がいかに抑えるかが当時の社会的な課題になっていました。

同年11月22日、富樫満成が将軍・義持の勘気を蒙りました。満成は将軍・義持の近習として、禅秀の乱で禅秀に与した者の処罰に携わってきましたが、義嗣の元愛妾の林歌局が将軍・義持に対して重要な証言をしたのです。禅秀と結んだ義嗣は既に殺害されていますが、林歌局によると、「富樫満成は幽閉されていた義嗣に謀反を唆したが、それが発覚しそうになったため、義嗣を殺害するよう義持に進言した」とのことでした。満成は密通していた林歌局に対して真相を打ち明けてしまっていたのでしょうか。満成は、翌年2月、河内で義持の命を受けた畠山満家によって殺害されています。

 
 

翌1419年6月、安芸では再び毛利一族の内紛が生じ、一族が吉田郡山城を包囲攻撃しています。福原広世らの尽力により落城は免れ、その後、将軍・義持の意向を受けた近隣領主の仲介によって再び和睦が成立しました。毛利家でも惣領と庶家の対立が繰り返されています。毛利光房は福原広世・朝広父子に対して籠城戦の勝利を感謝するとともに、今後も子息たちをとりたてることを約束しています。

同年8月6日、南部政光が兄・信光の息子の政経に対して所領の譲状を書き、その後、七戸に隠遁しています。信光の死後40年間で、その経緯は不明ではありますが、政光の所領が北奥羽一帯に拡大していたようです。京の公卿の日記をもとに、津軽で安藤家と死闘を続けながら安藤家を渡島に追い落としていったという推測もなされています。この頃、南部家は安藤教季が籠る藤崎城を包囲するも、藤崎以南を南部家領とするという条件で和睦が成立しています。この時に和睦の仲介の労をとったのは、旧南朝の浪岡御所の北畠顕邦でした。

2009年9月15日
七戸城址
(青森県上北郡七戸町)

2009年10月31日
岐阜城から
(岐阜県岐阜市)

この頃、美濃では斎藤家が守護代に就任しています。これ以降、美濃では富島家と斎藤家の並立状態が続くことになります。

翌1420年6月、南部家は川の流れを切り替えることによって、藤崎城の外堀の水量を激減させるとともに、安藤家領の水田も乾田にすることによって安藤家を挑発しました。安藤家領の農民はこれに憤慨し、南部家領に勝手に踏み込んで水流を元に戻しましたが、南部義政は領地侵犯を口実として安藤攻めを再開することになります。同年8月16日、安藤教季は藤崎城を脱出して北畠家の浪岡城に逃れています。

 

2009年3月10日
新宮城址
(福島県)

同じ頃、会津では蘆名盛政が新宮城を攻めて新宮時康らを討取っています。これ以降、会津四郡は蘆名家の支配に属することになったと伝わります。

この年、越後では上杉憲実が雲洞庵(南魚沼市雲洞)を再興して上杉家の菩提所としています。後年、この雲洞庵で上杉景勝と直江兼続が幼少期を過ごすことになります。

 
 

(3) 佐竹家の抗争

翌1421年2月、幕府は公方・持氏に対して、京都御扶持衆の山入与義を常陸守護に任じるよう命じましたが、これでは現職・佐竹義憲の存在が幕府から無視されているに等しく、佐竹家の抗争を通じて京と鎌倉の対立も激しくなっていきます。同年5月、与義は義憲に接近し始めた弟の小田野自義を自害させました。そして同年8月、与義は一族の額田義亮・小栗満重らに反義憲の兵を挙げさせるのです。

 公方・持氏は、(扇谷)上杉定頼を大将とする小栗討伐軍を編成します。そして、翌1422年6月13日付で、下野の小山満泰に定頼のもとへ参陣するよう命じています。他方、同じ下野の宇都宮持綱は小栗陣営に与しており、関東の諸将もまた幕府派と鎌倉府派に分裂していきます。かつて鎌倉幕府の将軍・宗尊の頃に東国に移り、その後は扇谷上杉家に仕えていた太田家も、上杉定頼に従って小栗攻めに参加しています。同年閏10月、公方・持氏が鎌倉で山入与義を襲撃し、与義を法華堂で自害に追い込んでいます。佐竹家の内紛が公方・持氏の明白な反幕行動を誘発し、ここに京と鎌倉の対立が決定的となりました。

この年の3月、琉球では尚巴志が三山統一を完了し、首里を王都として琉球を統治しています。この尚巴志の王朝は「第1尚氏時代」と呼ばれています。

2009年1月29日
首里城址
(沖縄県那覇市)

 

翌1423年3月18日、将軍・義持が将軍職を辞し、息子の義量が第5代将軍に就任しました。しかし、既に京と鎌倉の関係が険悪化しており、さらに、この頃から越後では上杉頼方と守護代の長尾邦景・実景父子の対立も激化しています。

上杉禅秀の乱の後、北奥の南部家は莫大な貢物を献上して幕府に接近していましたが、同年4月、津軽の安藤康季も南部家に匹敵する貢物を幕府に献上しています。北奥で対立する両家が、互いに中央政界を後ろ盾として有利な地位を得ようとして貢物合戦にでていたものと思われます。しかし、この頃の幕府は鎌倉府への対応に追われており、北奥の覇権争いに介入する余裕はありませんでした。南部家は、このような情勢を見極めたうえで、安藤家を積極的に攻撃することになります。

 
 

同年5月、京都御扶持衆の小栗満重が再び常陸で挙兵しました。今回は公方・持氏自ら討伐のため出陣しています。幕府は山入与義の息子・祐義を常陸守護に任じて防戦に努めるよう命じるとともに、京都御扶持衆の宇都宮持綱にも持氏に与しないよう命じています。祐義が幕府から守護に任じられたことにより、常陸には現職の佐竹義憲と幕府から新たに任命された山入祐義という2人の守護が並立することとなりました。

 同年7月5日、管領・畠山満家の屋敷で、公方・持氏による京都御扶持衆討伐への対応が協議され、京都御扶持衆の救援で一致しました。この時の出席者は、管領・畠山満家、前管領・細川満元、斯波義淳、山名時熙、赤松義則、一色義範、今川範政の7人で、いずれもこの頃に幕政において強い発言権を有していた人物です。なお、大内盛見は病欠です。三宝院満済には発言権はありませんでしたが、この時に義持と出席者の意思疎通を図ったことが満済の重臣会議への関わりの端緒となり、やがて将軍と諸将の意見調整も担っていくことになります。

同年8月8日、小栗城は落城し、小栗満重は自害しました。また、小栗家に与していた京都御扶持衆の宇都宮持綱も討たれています。幕府と鎌倉府の対決ムードが高まるなか、同月に幕府は関東・信濃・奥州の諸将に鎌倉出兵の準備を命じました。その頃、伊勢では伊勢国司・北畠満雅ら旧南朝勢力が京と鎌倉の対立に乗じて「南方宮」を擁立して再び挙兵しています。南北朝合一の後もなお南朝の正統性を信じる勢力が根強く残っていたのです。同年11月、持氏は幕府に対して謝罪の使者を派遣し、翌1424年2月に京と鎌倉の間に停戦が成立しました。常陸の2人の守護は、それぞれ半国守護として鎌倉に出仕することとなりました。同年11月、稲村御所の満貞が鎌倉を訪れ、持氏は満貞の来訪を喜んで迎えていますが、その背景には篠川御所・満直が幕府方に転じていたことがありました。

 同年4月12日、旧南朝の後亀山天皇が崩御しています。翌1425年2月27日、将軍・義量も19歳の若さで死去しました。しばらくの間、将軍職は空席のまま義持が政務を執っています。

 
 

同年7月13日、応永の乱の後に追討の対象となりながらも、幕府から北九州鎮定のための尖兵と位置づけ直されていた大内盛見が、少弐・菊池家追討のため九州に下向しています。九州では九州探題の渋川義俊と少弐満貞・菊池兼朝らの抗争が激しくなっていたのです。

同年11月30日、公方・持氏は義持の猶子となって京で奉公したいと願い出ましたが、義持は使者と会うこともなく拒絶しています。既に将軍・義量は死去しています。持氏としては、義持の猶子となることによって鎌倉公方から将軍の地位に就こうと考えたのかもしれません。このやりとりは、持氏の将軍職に対する野心が最初に現れた出来事でした。翌1426年1月までには、持氏は花押も将軍家のそれと似たものに変更しています。

 
 

翌1427年9月21日、赤松義則が死去しました。この時、再び有力守護弱体化政策が発動されました。義持は義則の死去に乗じて赤松満祐から播磨守護を剥奪し、近習で赤松庶流の春日部持貞に与えてしまいました。満祐は当然激怒し、同年10月26日、播磨に帰国しています。義持は直ちに赤松家討伐を命じますが、諸将は赤松擁護にまわったため果たせませんでした。義持のこのような処置が常態化すれば、赤松以外の諸将にとっても「明日は我が身」ということでしょう。翌11月13日、義持は諸将らとの関係改善のため、赤松持貞に責任転嫁して切腹させました。この頃、武家護持僧として義持を補佐してきた三宝院満済が義持を見限った可能性が指摘されています。翌12月、満祐は赦免されています。このような経緯が、後のこれ以上ない下克上につながっていくのです。

(4) くじ引き将軍

翌1428年1月18日、何やらタイミングが良すぎる気もしますが、義持が死去しています。義量は既に亡く、また、持氏からの猶子の申し出も使者に会うこともなく拒絶したわけですから、誰を次の将軍に据えるかが問題になりました。三宝院満済も瀕死の義持に後継指名を仰いでいましたが、義持は指名しないまま死去しています。この時、満済がくじ引きで決めることを提案すると、義持はあっさり同意したと伝わります。当時は神前でのくじ引きは神の意思を聞く行為と理解されていましたが、それを考慮しても異例の事態といえます。

 第6代将軍の候補者となったのは以下の4名です。

 梶井僧正義承
 大覚寺義昭
 相国寺隆蔵王
 青蓮院義円

 石清水八幡宮の神前で行われたくじ引きは、3回引いて3回とも青蓮院義円が引き当てられ、これにより義円が還俗して将軍に就任しました。6代将軍・義教、いわゆる「くじ引き将軍」です。ただ、既に将軍職への野心を露にしていた鎌倉公方・持氏は、この時に候補者から外されたことに強い不満を抱きました。このことが、後の永享の乱につながることになります。

 
 

満済は病床の義持と直接に会話することを許され、諸将らは満済を通じて義持の様子を把握しています。そして、くじ引きによる将軍決定のレールを敷いたのも満済です。同年4月17日、満済に准后の宣下が下りました。三宝院門跡としては初例であり、満済はこの宣下に狂喜したと伝わります。将軍による官位の推挙を朝廷は拒否しない運用が南北朝末期から定着していたことから、義教を将軍就任に導いた功績に対する恩賞の意味合いが強かったという見方もあります。同月27日、義持の死去に伴い、「応永」から「正長」に改元されました。本来、代始改元とは「昭和」から「平成」への改元のような天皇の崩御に伴う改元のことですが、この時の改元は義量の死後の事実上の将軍・義持の死去に伴う武家代始改元です。義持の死去が天皇の崩御並の扱いを受けています。

同年5月頃、くじ引きの候補者から排除された公方・持氏は、軍勢を率いて上洛しようとしました。この時に持氏を諫めたのも関東管領・上杉憲実でした。単なる制止だけでは効果がないと考えた憲実は、「新田が鎌倉に攻めのぼろうとしている」という偽情報を持氏に伝えています。『三国志演義』においても、周瑜の美人計によって呉に留め置かれた劉備が荊州に帰ろうとする際、政略結婚した孫尚香に対して「曹操が荊州に攻めてきたから戻らなければならない」という嘘をついています。孫尚香は嘘をすぐに見破ったうえで夫とともに荊州について行ったということになっていますが、我が国の持氏と上杉憲実の関係はこの頃から悪化していきます。

 
 

同年7月6日、小倉宮聖承が皇位継承問題に対する不満を理由として嵯峨を出奔し、これまで旧南朝勢力として蜂起を繰り返してきた伊勢国司・北畠満雅を頼って伊勢に赴きました。満雅は聖承を擁立して挙兵するも、ついに敗死することになります。この時、土岐持頼が満雅の乱の鎮圧を任務として伊勢守護に返り咲いています。これまで鎌倉府が幕府に背いた際には、畿内にもこれに呼応する者がいたことから、この満雅の挙兵についても持氏との提携の可能性が指摘されています。

 同月20日、称光天皇が崩御しました。満済は将軍・義教と連携して新帝擁立のため尽力し、同月28日、彦仁(後花園天皇)が践祚しました。なお、彦仁は立親王・立太子の儀を経ていません。

この頃、奥州では白河氏朝と相馬家や石川家の間で所領争いに端を発する軍事衝突が生じています。石川庄に侵攻して石川義光を殺害した白河氏朝は、篠川御所・満直から石川義光の旧領を与えられています。他方、公方・持氏と稲村御所・満貞は石川義光の息子・持光に対する支持を表明し、白河氏朝と戦うよう命じています。奥州では幕府と鎌倉府の対立が、白河家と石川家の代理戦争となって現れました。篠川御所・満直が幕府側に与した動機としては、持氏に代わって自ら公方になろうとしていた可能性が指摘されています。かつて稲村・篠川両御所は、「伊達を父、白河を母」とするよう申し付けられたと伝わりますが、伊達家に続いて白河家もこの頃までに幕府側に転じていたということになります。

 この年の4月19日、越前では朝倉孝景が生まれています。この頃の越前では守護・斯波家当主の若死が相次いでおり、支配の実権は甲斐・織田及び朝倉の3家に移っていました。

 
 

翌1429年3月15日、足利義教が征夷大将軍に任じられています。「義教」と名乗ったのはこの時からで、それ以前は義宣でした。義教も祖父・義満と同様、有力守護家の後継問題において、あえて立場の弱い者に肩入れして恩を売るとともに、一族間の内紛を煽って守護家の力を削ぐことにより将軍権威の確立を目指すことになります。しかし、この政策が原因で義教は命を落とすことになります。

同年5月、下野の那須家で内紛が生じました。惣領の那須太郎と庶流の那須五郎が惣領の地位をめぐって争ったのです。白河家と石川家の対立と同様、ここでも幕府側の白河氏朝は京都御扶持衆の太郎を支援し、公方・持氏は五郎を支援するという形で幕府と鎌倉府の代理戦争となりました。同年6月3日、幕府は篠川御所・満直や伊達家・蘆名家らに対して、白河氏朝を支援するよう命じており、他方、公方・持氏も同月11日付で石川持光に対して那須問題への対応を命じています。この頃、京では持氏の謀反の噂も流れ始めています。

 
 

同年7月、大和では10年にわたる大和永享の乱が始まりかけています。筒井順永はこの年に筒井城を築城しています。

同年9月、鎌倉府からの初めての賀使が今頃になって京に派遣されましたが、将軍・義教には会わせてもらえず、やむなくそのまま鎌倉に戻っています。この賀使については、京との不和を憂慮する関東管領・上杉憲実が派遣したものである可能性が指摘されています。京と鎌倉の関係が険悪化する状況下で、この頃に篠川御所・満直は幕府に対して鎌倉府を討って関東の政権を握りたいという希望を申し出ています。同月5日、前年の後花園天皇の即位に伴い「正長」から「永享」に改元されましたが、鎌倉府の持氏は改元を無視して「正長」を使用し続けています。なお、同年12月、公方・持氏は鎌倉で京都御扶持衆の大掾満幹を殺害しています。これにより大掾家は滅亡しましたが、佐竹義憲の息子・義倭が大掾家に入れられています。

 

2009年3月13日
結城城址・玉日姫の墓
(茨城県結城市)

翌1430年5月11日、下総結城家の基光が死去しました。氏朝が結城家を継いだため、同時期に白河と下総に2人の「結城氏朝」が存在することとなりました。

同年10月、三宝院満済は小倉宮聖承の息子・教尊を勧修寺門跡に入室させるべく奔走しています。聖承が伊勢の北畠家によって擁立されたことを踏まえ、南朝の皇胤を幕府の支配体制にとり込もうとした可能性が指摘されています。

 
 

翌1431年3月14日、関東管領・上杉憲実は幕府に謝罪するために二階堂盛秀を派遣して将軍への対面を願い出ましたが、やはり認められませんでした。この時、管領・細川持之をはじめとする諸将は面会を主張しましたが、篠川御所・満直がこれに反対していました。翌4月15日、上杉憲実は細川持之に書状を書き送るとともに、贈物も献上して関係改善への努力を続けていますが、公方・持氏はこの頃になっても相変わらず「正長」年号を使用し続けています。翌閏4月11日、幕府は二階堂盛秀に対して、篠川満直の提案による面会条件3ヶ条を示しています。なお、山名家ではこの頃に持熙の廃嫡に伴い弟の持豊が嫡子となっています。この持豊が、後に応仁の乱で西軍を率いることになるのです。

同年6月28日、北九州鎮定の尖兵として少弐満貞や大友持直らと戦っていた大内盛見が筑前深江で討死しています。萩原で猿楽見物中に菊池勢500の奇襲を受け、戦わずに自害したそうです。盛見の死によって大内家の軍勢が九州から駆逐され、九州の秩序が再び大きく乱れることになります。父・盛見の討死の後、周防・長門の留守を任されていた持世が、弟・持盛が豊前に在陣していたことを奇貨として家督を奪いました。幕府は持世の家督を承認するとともに、持世を周防守護、持盛を長門守護に任じましたが、実際には長門も持世によって掌握されていました。このような経緯から、大内家でも兄弟による家督争いが生じることになります。

 同年7月19日、将軍・義教は、斯波らの懸命の説得により、ようやく鎌倉府の使者と面会しました。これに先立ち、関東管領・上杉憲実は斯波に対して使者との面会依頼を書き送っています。幕府と鎌倉府の間に一応の和睦が成立し、翌8月からは鎌倉府も「永享」年号を使用し始めています。

 
 

翌1432年2月10日、大内家の家督を奪われた持盛が、兄・持世討伐のため挙兵しました。持盛は持世を石見に敗走させて長門を抑えましたが、幕府が持世を支持したことに伴い諸勢力も持世側に与することとなり、持盛は家督を奪われた末に豊前で討死してしまいました。ここでも幕府は家督争いにおいてあえて無理筋な側に肩入れして一族の内紛を煽っています。家督争いに勝利した持世は、父・盛見の北九州鎮定の任務を継承し、やがて周防・長門に加えて豊前・筑前守護にも任じられることになります。

2009年9月18日
尻八城址
(青森県)

北奥では南部家が京と鎌倉の対立の間隙を衝いて安藤家を攻め続け、この年の夏頃には青山城を攻略して安藤勢を福島城に追っています。さらに、福島城に火を放って安藤勢が消火に努めているのに乗じて同城も攻略しました。安藤家はもはや柴崎・唐川両城しかないというところまで追い詰められました。

2009年9月18日
尻八城址
(青森県)

鎌倉府への対応に追われていた幕府も、さすがにこれ以上は捨て置けなかったのか、管領・畠山満家らによる協議の末に、南部家に対して安藤家との和睦を命じることになりました。また、将軍・義教の斡旋によって、安藤康季の妹と南部義政の結婚も決まっています。安藤家は福島城に復帰し、津軽につかの間の平和が訪れることとなりましたが、この平和は京と鎌倉府の戦いが本格化することによって破られることになります。

同年8月、関東管領・上杉憲実は、既にこの年の1月に決定していた将軍・義教の富士下向を翌年に延期して欲しいと幕府に願い出ています。この頃、関東では「雑説」が広まっていて、公方・持氏も畏怖しており、近隣の勢力の出方如何によっては取り返しのつかないことになると懸念しています。「雑説」の内容としては、富士下向の際に幕府の軍勢が関東に攻めてくるという風説が広まっていた可能性が指摘されています。しかし、富士下向は予定どおり行われ、翌9月10日、将軍・義教は富士遊覧に出立しました。もちろん、「富士遊覧」を名目とした持氏に対する威圧目的も兼ねています。この時、駿河の今川範政は義教のために駿河今川館に望嶽亭を新築して接待しています。同月28日、義教は帰京しています。

 この頃、大和では興福寺に対して年貢の免除を求める土一揆が発生しています。興福寺は、筒井順永に一揆の鎮圧を命じています。

 

2010年4月3日
太田道灌邸跡
(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)

この年、江戸城の築城者として知られる太田道灌が鎌倉の扇谷の館で生まれています。幼少期は鎌倉五山で勉学に励んでいたようです。

翌1433年3月、甲斐守護の武田信長が鎌倉を脱出しました。関東の守護は原則として鎌倉在住を義務づけられていましたから、信長の脱出は在住義務違反にあたるとして、公方・持氏は追手を差し向けました。同年4月、信長は跡部家と戦闘するも大敗して駿河に逃れています。持氏は信長の殺害を幕府に求めましたが、幕府は持氏の要求を認めませんでした。ただ、信長が駿河に留まれないようにすると回答しています。その後、信長は上総に入り、上総武田家祖となりました。

2009年12月5日
賀名生皇居跡
(奈良県五條市)

同年5月27日、駿河守護の今川範政が死去しました。前年の富士遊覧の際、範政は末子・千代秋丸に相続させたいと義教に願い出ていましたが、義教はこれを許しませんでした。今川家の家督は義教の命により範忠が継ぎ、千代秋丸を支援していた公方・持氏はここでも義教に敗れたことになります。

 同年8月、山名時熙が家督を持豊に譲っています。持豊は同年11月、比叡山と園城寺の抗争において、幕命により園城寺を援けて比叡山を屈服させ、将軍・義教から勇敢さを認められています。同じ頃、筑前では秋月城が落城し、幕府に対する抵抗を続けていた少弐満貞父子が討死しています。大内家に従って体調不良をおして少弐満貞攻撃に参加していた毛利光房は、九州で陣没しました。

 将軍・義教は、この頃から急速に後南朝政策を硬化させています。翌年、義教は南朝皇胤の断絶方針を打ち出すことになります。