南北朝期6 ~有力守護潰し~

      ひかりのテーマ

  特定商取引法に基づく表記

40 有力守護潰し

 

(1) 小山討伐

斯波義将への管領交代によっても、将軍権威の向上という政策目標は維持されましたが、京都五山に対する強い統制は緩やかな間接統制に改められ、頼之の宗教政策が次々と覆されていきました。また、政変の影響は頼之だけでなく、頼之派と目されていた人々にも及びました。細川頼有も阿波守護を解任され、かつて頼之が討取った細川清氏の遺児・正氏が後任に任じられています。細川頼基も摂津守護を解任され、渋川家が後任に任じられています。九州で南朝勢力掃討戦を行ってきた今川了俊は、頼之の失脚により中央政界における後ろ盾を失うことになりました。了俊も備後守護を失い、後任には山名時義が就任しています。かつて伊勢守護への復帰を頼之によって阻まれた土岐頼康が伊勢守護に復帰しています。さらに、伊予で頼之と戦ってきた河野通直も、政変を受けて南朝から北朝に転じており、通直は伊予守護に復帰しています。かつて関東管領の交代に伴い関東の守護が旧直義派に塗り替えられたのと同様、中央政界でも細川派がパージされて斯波義将派ないし反頼之派が要職に就任したのです。

将軍・義満は斯波派による頼之追討の希望を抑えようとしていたと思われますが、同年9月5日、ついに伊予の河野通直に対して頼之の追討を命じるに至りました。管領在職中は細川家重視政策が反細川派の反感を買いましたが、追討を受けた場面では一族の結束を高める方向に作用したという指摘があります。また、細川頼有が四国勢力の被官化に努めていたため、四国の勢力の協力を得ることもできました。同年11月6日、頼之は機先を制して河野通直の世田山城を急襲し、河野通直を討取っています。同年12月3日、幕府は反細川派の山名時義・義幸らに対して河野救援を命じますが、義満は頼之の追討に極めて消極的だったようです。

 
 

翌1380年3月17日、建仁寺の住持に就任するために上洛するよう命じられていた義堂周信が京に着きました。これ以降、義堂は建仁寺と南禅寺の住持として将軍・義満の信任を得ることになります。鎌倉府は京の幕府の出先機関として、幕府と一体的に我が国を治めることが予定されていたはずですが、その前提として、幕府と鎌倉府の間に信頼関係が構築されていなければなりません。かつて、鎌倉将軍・実朝の貴族的傾向が京と鎌倉の友好関係維持に寄与し、その実朝の暗殺後に承久の乱が起きました。京の将軍と鎌倉の公方双方から信頼を得ていた義堂の存在が、京と鎌倉の友好関係に寄与していた可能性が指摘されています。

同年5月16日、宇都宮基綱が下野裳原で小山義政の軍勢と戦って討死しています。宇都宮家は嫡男の満綱が家督を継ぎました。かつて守護を解任された後に反乱を起こした宇都宮家は、小山家とともに下野半国守護の地位に甘んじてきましたが、この戦いが生じた原因については争いがあるようです。

 翌6月1日、公方・氏満は、小山義政追討を命じました。同月15日、氏満自ら鎌倉を出陣しています(第1次小山討伐)。同月、小山義政は下野守護も罷免されています。この頃、畿内では北朝に降った後に再び南朝に転じていた橋本正督が山名氏清に討たれています。同年8月29日、小山討伐に赴いた公方・氏満の軍勢が小山城に迫りました。小山義政は氏満の陣に対して降伏の使者を派遣し、氏満は降伏を認めたのですが、これは偽りの降伏だった可能性が指摘されています。

2009年3月13日
小山城址(栃木県小山市)

 

同年10月15日、大内弘世が死去しました。家督は義弘が継ぎましたが、この頃に安芸で家督相続をめぐり義弘・満弘兄弟の抗争が生じています。安芸守護は康暦の政変の後も今川了俊に残されていましたが、同国では守護でもない大内家による守護類似の越権行為が続いています。

 このような状況のもとで、安芸の毛利元春は子息らに対して所領の分割譲渡を行っています。元春は嫡男の広房に惣領の地位と吉田郷を譲るとともに(吉田殿)、弟の直元には惣領の統制に服することを条件として父・親衡から譲られていた麻原郷の既得権を認めています。そのうえで、南北朝期に元春が実力で獲得した吉田荘竹原郷は広房・広内・忠広及び広世で4分し、内部荘は山手村を広内に、中馬村を忠広に、福原村を広世に、川本村を広房に譲渡することとしました。父・親衡が実力で獲得した豊島郷の坂や有富もこの頃に領有を認められた可能性が指摘されています。広内は大内義弘と結び、大内家の後ろ盾のもとで麻原郷に勢力を伸長し、麻原を本拠として麻原氏を称することになります。この時の分割譲渡をきっかけとして、毛利一族のなかから複数の庶家が興りました。元春の頃までは越後の同族との交流もあったようですが、広房の頃になると途絶え、その代わり安芸の勢力としての性格が強まっていきます。なお、元春の次男・元房の系統は当初は大内家の家臣団に加わっていますが、後に毛利元就によって迎えられることになります。

 他方、奥州ではこの頃に伊達宗遠が隣国・出羽長井庄に侵攻して長井広房から同庄を奪っています。長井庄は、宝治合戦後に毛利家を存続させるうえで重要な役割を果たした長井家の本貫地です。長井家の庶流は安芸に根を下ろし、毛利家が越後から安芸に本拠地を移転した際もこれを支援しています。安芸長井家の貞広は、今川了俊の九州掃討戦に従軍して筑後・山崎で討死していますが、九州に赴く際、毛利(福原)広世に対して遺領の相続を約束しています。この福原広世が、この頃の毛利一族において中心的な役割を果たすことになります。

同年12月29日、将軍・義満は、細川頼之の赦免運動を続けていた細川頼元に対して、河野亀王丸の伊予守護の地位を侵害しないよう命じています。頼元はこれを受諾し、ここに頼之・頼元兄弟の追討が解除されることとなりました。頼之は四国の領国経営で力を蓄えながら他日を期することになります。この頃、細川頼益は土佐守護代として田村庄に入り、現地の地頭らを被官化していますが、この時に被官化された地頭の1つに長宗我部家がありました。

 
 

なお、琉球ではこの年に山南王・承察度が明に入貢しています。

翌1381年1月、公方・氏満は、小山義政本人が一向に降伏の申し入れに現れないため、京に使者を派遣して小山討伐を幕府に要請しました。同年6月15日、氏満は小山義政討伐のために再び鎌倉を出陣しました(第2次小山討伐)。

 
 

この頃、京では細川頼元が将軍・義満を自邸に招いて赦免を感謝する宴を催しており、細川派と斯波派の和解が演出されています。しかし、同年9月16日、斯波義将は管領辞任を申し出ています。義満の慰留によって翻意しましたが、細川頼之らの赦免に不満だった可能性が指摘されています。斯波家が細川家から取り戻した越前では、守護代として甲斐家を重用して現地勢力の被官化を推し進める反面、斯波家とは政治的に距離があった朝倉家には十分な活躍の場が与えられていません。

 同年9月、後円融天皇は、三条公忠が四条坊門一町の地を義満に所望した件について、公忠の娘・厳子を叱っています。京の土地を差配してきたのは公家であり、将軍ではないという意味です。この頃になると、京の公家たちも義満の顔色を窺いながら政務を行っていたようです。実質的権限は将軍にあるという認識だったのでしょう。康暦の政変以降も、将軍権威の回復という意味では政策に継続性が認められますが、王朝からの権限の吸い上げという意味では成功していたといえるのかもしれません。

関東では、同年8月12日、氏満が小山鷲城攻めを開始しています。同年12月6日、同城は落城し、小山義政は隠居したうえで家督を息子の若犬丸に譲ることを許されました。それに先立つ同年10月、上杉家の憲方が下野守護に任じられています。同年11月15日、伊予では細川頼之が河野亀王丸の弟の鬼王丸と会見し、伊予東部の新居・宇摩両郡を細川家が領有するという条件で、長年にわたり抗争を続けてきた両家の間に和睦が成立しました。頼之はこの頃に阿波守護にも復帰しています。

 翌1382年閏1月、畿内では北朝に帰参していた楠木正儀が再び南朝に転じました。関東では、同年3月22日、小山義政が再び公方・氏満に背き、居城の小山城に火を放ったうえで粕尾城で挙兵しています。同月29日から上杉朝宗らが粕尾城を攻め、翌4月13日、義政は自害しました。鎌倉以来の北関東の名族・小山家はこうして滅亡し、義政の嫡男の若犬丸は奥州の田村則義のもとに逃れることになります。小山家の遺領の多くは公方や(犬懸)上杉家に属することとなりましたが、結城基光に預け置かれたものもあったようです。

 
 
 
 

なお、この年の1月、将軍・義満は左大臣に任じられています。そして、同年4月11日には幹仁親王(後小松天皇)が践祚しています。形の上では後円融上皇の院政が始まりましたが、かつての院政とは異なり、実権は将軍・義満にあります。とはいえ、既に将軍・義満の専横が目に付くようになっており、義満の意向が公家の叙位任官を左右するほどになっていきます。義満の派手な公卿生活は、細川頼之罷免後の管領・斯波義将による執政の安定があったからこそ可能であったという指摘もあります。義堂周信は義満に対して、東西両府の和睦が大事であって、それを阻害する小人の讒言は聞かなくて良いと助言しています。

翌1383年2月11日、後円融上皇の愛妾・按察局が突然出家してしまいました。将軍・義満との密通の疑いが生じ、上皇の怒りに触れたためです。九州では、翌3月、南朝勢力を率いてきた懐良親王が筑後・矢部で死去しています。吉野では、この年に南朝の長慶天皇が、弟で和平推進派の後亀山天皇に譲位しています。

 
 

将軍・義満が相国寺を創建したのもこの年です。

なお、琉球ではこの年に浦添・大里に続き今帰仁按司の山北王・怕尼芝(はにし)が明へ入貢しています。これ以降の三勢力鼎立期は「三山時代」と呼ばれています。

2009年1月29日
今帰仁城址
( 沖縄県国頭郡今帰仁村)

 

1385年1月、薩摩の島津伊久・氏久が南朝に転じています。同年7月末、安芸では惣領の毛利広房が、将軍・義満の命により分郡守護・武田家に与して何者かと東西条(西条盆地)で戦闘した末に討死しています。この頃、九州の今川了俊は、安芸の勢力に対する統制強化のために、将軍・義満に「了俊に対して忠節を尽くす」旨の起請文の提出命令を出してもらっています。これに従わない者の所領は没収することになっていました。広房の死亡当時、嫡男・光房はいまだ妻の胎内にありました。幕府は、出生した光房に対して、養子・千鶴丸に扶持を与えることを条件に吉田郷と川本村を安堵しています。この時に、千鶴丸が川本村を与えられて川本家を興した可能性が指摘されています。

翌1386年5月27日、田村庄に逃れていた小山若犬丸が、小山城で反乱を起こしました。同年7月2日、公方・氏満は、自ら下総・古河まで出陣して若犬丸勢を破っています。同年10月、関東の騒乱をよそに、将軍・義満は今日において日本三景の1つとされている天橋立に遊びに行っています。

天橋立(京都府 写真AC)

2009年3月13日
小田城址
(茨城県つくば市)

翌1387年5月、小山若犬丸が常陸・小田城に匿われていることが発覚しました。既に常陸においては、鎌倉以来の小田家に代わって佐竹家が勢力を伸長しておりますが、ここにきて小田家が若犬丸を匿った理由としては、小山旧臣らと結ぶことによって、北関東にも及びつつあった公方及び上杉家の圧力に抗しようとした可能性が指摘されています。同年6月13日、公方・氏満は、小田治久の息子・孝朝らを鎌倉で捕えますが、これを知った小田一族は小田城で蜂起しました。小田城は、かつて北畠親房が『神皇正統記』を執筆した常陸南部における南朝の拠点です。そして、小田家はもとより、若犬丸の小山家や同人を匿った田村家も、関東における南朝の中心勢力として戦ってきた経緯があります。関東において新興勢力・上杉家の台頭が目立つ状況下で、これに抗うために旧南朝勢力同士が再び結びつくこととなりました。

 同年7月19日、公方・氏満は、上杉朝宗を大将とする討伐軍を出陣させました。旧南朝勢力が結集したとなれば、源頼朝の討伐を受けて削られた父祖以来の所領を、足利家と結びついて北朝勢力として戦うことを通じて取戻した佐竹家の出番とも思えます。しかし、この時は佐竹義宣は出陣せず、譜代の江戸通高らを出陣させています。その理由としては、佐竹家と小田家の2代にわたる姻戚関係ゆえに出陣を回避した可能性が指摘されています。ただ、代わりに出陣した江戸通高はこの戦いで討死しています。

翌8月5日、小山城の警固を命じられた結城基光が同城に入って小田・旧小山勢力に備えています。これ以降、基光は30年近く小山城を居城とすることになります。同月10日、小田城は落城し、小田孝朝は降伏、若犬丸は難台山城で抵抗を続けるも、落城後は奥州の田村則義・清包父子のもとに逃れました。結城基光は、同月のうちに小山家が平安末期以来家職としてきた下野守護に任じられています。

 ただ、公方・氏満は名族・小山家の滅亡を惜しみ、幕府の承認を得て同族の結城基光に小山家の遺領を預けるとともに、基光の次男・泰朝に小山家を継がせることによって小山家を再興することになります。基光は孫3人を通じて結城・小山及び山川という3つの家を支配することとなり、ここに下総・結城家は全盛期を迎えることになります。

 
 

(2) 土岐討伐

同年12月、尾張・美濃では細川頼之と対立してきた土岐頼康が瑞巌寺で死去しました。瑞巌寺は、頼康が父・頼清のために建立した寺です。康行が家督を継ぎましたが、この土岐康行が将軍・義満による有力守護潰しの最初の標的となるのです。

なお、薩摩ではこの年に島津元久が清水城を築いて居城としています。海の向こうでは、明が満州を制圧しています。

2009年2月4日
島津家菩提寺・福昌寺跡
(鹿児島県鹿児島市)

2011年2月13日
横浜・山手からの富士山
(静岡県・神奈川県)

翌1388年春頃、将軍・義満は土岐康行の尾張守護を剥奪し、弟の島田満貞を後任に据えました。土岐家の惣領の地位を狙う満貞が、尾張守護代・肥田瀬詮直の不義を義満に讒言したためといわれています。同年5月、新たに尾張守護に任じられた満貞が尾張に入りますが、讒言された肥田瀬詮直と土岐康行が満貞を迎撃しました。義満は、自ら定めた人事に「反抗」したことを口実として、土岐康行の追討を命じるのです。

 同年9月、人事権によって土岐家の内紛を煽った将軍・義満は、駿河に赴いて富士山を眺めています。この時に将軍を接待したのはこの地を治める今川泰範です。なお、鎌倉で基氏・氏満という2代の公方を補佐し、京でも将軍・義満の信任を得ていた義堂周信は、この年の4月4日に死去しています。

翌1389年3月4日、義満は厳島参詣のため京を発ちました。参詣の目的としては、中国・四国及び九州地方の反幕府勢力の威圧目的の可能性が指摘されています。この厳島参詣が、前管領・細川頼之の政界復帰のきっかけとなりました。同月6日、義満一行は讃岐・宇多津に着き、ここで頼之は10年ぶりに義満と対面し、歓待しています。政界を追われて以降、四国の領国経営に尽力してきた頼之は、100余艘の船舶を義満に提供しています。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

細川頼之/小川信【1000円以上送料無料】
価格:2420円(税込、送料無料) (2021/4/13時点)

 

 

 

同月8日、義満一行は厳島神社に参詣しました。同月12日、義満は周防・下松で大内義弘の歓待を受けています。同月14日、義満は下松を発ち九州に向かいましたが、暴風により引き返しています。同月22日、再び宇多津に入り、頼之は義満を播磨・室津まで見送った後、讃岐に戻りました。同月26日、義満は京に戻りました。

(3) 明徳の乱

同年5月、山名時義が死去し、時熙が家督を継ぎました。この頃の山名家は、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・和泉・紀伊・但馬・出雲・隠岐・備後の11ヶ国を領有し、「六分一殿」と呼ばれていました。しかし、惣領の地位を望む満幸と叔父・氏清は、氏之と時熙の叛意を義満に讒言しました。義満は尾張の土岐家の場合と同様、讒言した側の言い分どおり時熙・氏之の力を削ぐ方向に動くのです。なお、同年9月16日、義満は高野山にも赴いています。僧徒の懐柔と南朝に対する示威目的の可能性が指摘されています。

 翌1390年3月、将軍・義満は山名家庶流の氏清・満幸に、惣領の時熙・氏之の追討を命じました。鎌倉期には甲斐源氏が頼朝による弾圧の標的となりましたが、義満の時代にも、将軍権力の安定のために有力な臣下を分裂させて、相争わせることによって力を削ごうとしたのです。氏清が但馬を、満幸が伯耆に侵攻し、時熙と氏之は備後に逃れました。この時、義満は細川頼之にも四国の兵で備後を攻めさせています。

 
 

その頃、山名家よりも一足先に義満から狙われた土岐家の尾張・美濃では、同年閏3月25日、美濃小島城が落城しています。土岐康行・康政父子は北へ敗走し、この内訌の結果、土岐一族のなかで唯一幕府に与した土岐頼忠が美濃守護に任じられました。以後、美濃ではこの頼忠の系統、すなわち、西池田氏が守護を継承していくことになります。土岐一族の分裂により、領国経営のために一族以外の勢力を登用する必要が生じ、富島家や斎藤家の存在感が増していくことになります。

この年、安芸で武田信繁が生まれています。信繁の息子の代で若狭武田家が武田本家となり、また、兄弟は京の建仁寺の住職となっています。

 翌1391年2月、義満は、鎌倉府の管轄を陸奥・出羽両国まで認めることとしました。小山若犬丸など鎌倉府から追討を受けた者が、鎌倉府の管轄に属しない奥州に逃れた後、現地勢力の支援を受けて再起を図るという構造が問題視された可能性が指摘されています。

 
 

この年の春頃、山名氏清・満幸が、「時熙の乱」を平定して凱旋しました。義満は上洛して赦免を願い出た時熙と氏之を赦しています。他方、同月3月10日、細川頼有が義満から備後の所領を与えられています。四国の兵を率いて備後を攻めた細川頼之も、この頃に備後守護に任じられています。しかし、同月12日、管領・斯波義将が突然辞任して越前に戻ってしまいました。義満から狙われた土岐家と山名家は、「斯波家VS細川家」という対立軸において政治的に斯波家に近い立場にありました。その両家の力が削がれる反面、対立する細川家には復権の兆しが現れています。これに対する不満が辞任の原因である可能性が指摘されています。斯波義将の辞任を受け、義満は直ちに細川頼之に上洛を命じます。同年4月3日、細川頼之は京に入りました。同月8日、細川頼元が管領に任じられ、頼元を後見するという形で頼之が返り咲きを果たすのです。

同年秋頃には、西の山名時熙・氏之と同様、東の土岐康行も義満から赦されて伊勢守護に復帰しています。讒言をきっかけとして伊勢に移ることとなった土岐家は世保家と呼ばれています。同年9月9日、細川家では和泉半国守護家の基礎を築いた細川頼有が死去しました。頼有は建仁寺塔頭の永源庵に葬られました。

 
 

同年10月11日、山名氏清は、義満を宇治の別業に自ら招いておきながら欠席しています。この頃、満幸は氏清に対して挙兵を勧めており、氏清も兄・義理を説得しています。翌11月、氏清は南朝に帰順し、京を攻める旨を伝えて南朝の後亀山天皇から錦の御旗を賜ったと伝わります。同月8日、義満は、満幸が「仙洞御領の出雲横田荘を押領した」ことを口実として丹後で蟄居するよう命じました。義満は、当初は讒言をした側に与しながらも、勝利後に勢力を伸長させた讒言者にも圧迫を加えて「反乱」を誘発しています。かくして、諸将らに対する恩賞の原資として、山名家旧領というフロンティアが生まれることとなりました。翌12月、氏清らは挙兵しましたが、氏清は京の二条大宮で討死し、満幸も九州まで逃れた末に捕えられ、処刑されています。これが明徳の乱です。

戦後、氏清・満幸の讒言によって追討対象とされた時熙・氏之が但馬・伯耆守護に任じられています。反乱に加わらなかった氏冬も因幡を安堵されています。しかしながら、当初は11ヶ国あった分国が、乱後はわずか3ヶ国となり、山名家の凋落は明らかです。現代人の立場から眺めてみますと、一族間の抗争を煽って守護職を転がしているようにも見えます。他方、管領の頼元は丹波守護を得ています。細川家は従来の阿波・讃岐・土佐・淡路・摂津・備中・備後に丹波も加えたことになります。

 その他の山名家旧領も、軍功ある者に分け与えられました。京極高詮は近江の軍勢を率いて軍功をあげ、出雲・隠岐守護に任じられています。山名討伐戦には、細川派だけでなく、反細川派(≒斯波派)と目されてきた斯波義重や土岐康行らも参戦しています。大内義弘は紀伊・和泉守護に任じられていますが、義弘の補任には、かつて南朝に与していた大内家に南北統一交渉への関与を期待した可能性が指摘されています。従来の周防・長門・石見・豊前、そして、越権行為が常態化している安芸に加え、和泉・紀伊守護も獲得した大内家は、明徳の乱を通じて幕府内の中心勢力に躍り出ることとなりました。なお、会津の蘆名直盛も幕府方として参戦しましたが、内野で討死したため詮盛が蘆名家を継いでいます。

 

2009年9月19日
湊城址
(秋田県秋田市)

山名家の旧領がハゲタカに狙われていた頃、海の向こうでは、この年に明が北元を滅ぼしています。渡島では、安藤家の康季と鹿季が「日の本将軍」を自称して、現地支配体制を固めていたと伝わります。鹿季は秋田湊にも侵攻して湊安藤家祖となったと伝わります。

 翌1392年1月頃、讒言によって尾張守護の地位を得ていた島田満貞が、尾張守護を解任されました。原因としては、「明徳の乱における卑怯な振舞い」ともいわれていますが、結論としては、山名氏清・満幸と同様、讒言によって得た地位は長続きしませんでした。

(4) 南北朝合一

同年3月2日、細川頼之が死去しました。頼之は西山地蔵院に葬られ、甥の義之が阿波守護を継いでいます。なお、管領の地位は、翌年6月に斯波義将に戻っています。

 
 

同年10月28日、南朝の後亀山天皇が、南北朝統一の儀に臨むため、三種の神器を先頭に吉野を出発しました。翌閏10月5日、ついに南北朝合一が実現しています。我が国を二分した南北朝の抗争は、北朝による南朝の吸収合併によって幕を閉じたのです。この年、海の向こうでは高麗王朝が滅びて李氏朝鮮が興っています。京の北山で鹿苑寺金閣の造営が始まったのは、南北朝合一から5年後のことです。

 しかし、本サイトにおいては、もうしばらく「南北朝期」としてご紹介を続けることとします。南北朝の抗争自体は一応終結しましたが、その後も我が国においては南朝の末裔、あるいは、末裔を自称する人物が現れ続けて政治や社会に一定の影響力を及ぼし続けています。たとえば、太平洋戦争が終了した翌年、南朝の末裔を自称する「熊沢天皇」こと熊沢寛道氏が現れました。そこで、本サイトでは南北朝の合一を「後南朝の起点」と捉え直したうえで、ここから応仁の乱までの期間も含めて「南北朝期」としてご紹介することとします。

 この年、北奥では三戸南部守行が、義満の密命を帯びて、八戸南部政光のもとを訪れて北朝への降伏を説いています。政光はこれを断っていますが、守行の口添えによって八戸南部家の所領は維持されています。鎌倉攻めを通じて新田家との結びつきを強めた八戸南部家は、南北朝期を南朝勢力として戦ってきましたが、この頃から南部家の惣領の地位が八戸南部家から三戸南部家に移った可能性が指摘されています。これに対して、討幕後、足利家との結びつきを強めた常陸の佐竹家は勢力の伸長に成功しています。

 1394年春、日向では今川了俊の息子の貞兼が島津元久を攻めています。島津家の強大化を恐れた北原家、伊東家、相良家なども貞兼に与しています。今川了俊・貞兼父子は、水島の陣の頃から久しく島津家と反目し続けています。

 
 

同年10月24日、関東では(山内)上杉憲方が死去し、憲孝が関東管領に就任しましたが、同年12月3日、憲孝は病を理由として辞任し、(犬懸)朝宗が同職を継承しています。犬懸上杉家からは約20年ぶりの関東管領です。この人事に関しては、京の幕府と対立しがちな鎌倉公方・氏満が、山内上杉家と将軍家の密接な結びつきを嫌った可能性が指摘されています。

 同月17日、義満は息子の義持(9歳)に将軍職を譲り、将軍宣下もこの日に行われましたが、義満の愛情は義持ではなく義持の異母弟の義嗣に注がれていきます。

この年から1428年までの年号は「応永」ですが、応永年間に徳翁斎・信武(徳阿弥・親氏)なる人物が三河に赴き、松平太郎左衛門尉信重の家に婿入りしたと伝わります。後にご紹介する戦国時代は、最終的にはこの家による支配に着地することになるのですが、源頼朝や足利尊氏とは異なり、河内源氏の流れというわけではなさそうです。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

徳川家康 (人物叢書) [ 藤井 讓治 ]
価格:2640円(税込、送料無料) (2021/4/13時点)

 

 

 

翌1395年2月16日、義満は石清水八幡宮に参詣します。この頃から既に出家を見据えていたようです。同月25日には伊勢神宮に向かい、同年4月17日には南都に入っています。南都では春日社、興福寺、東大寺などをめぐっています。同年6月3日、出家のために太政大臣を辞し、同月20日、義満は出家しました。義満に倣って斯波義将、大内義弘、細川頼元らも出家しています。なお、斯波義将は出家後も管領にとどまり、幕府初の法体管領となりました。

同年閏7月、九州では、今川了俊が長年務めてきた九州探題を罷免されています。北九州における対外貿易で了俊と競合していた大内義弘が、了俊を追い落とすために策動した結果ともいわれています。翌8月、了俊は召還を命じられ、同年11月、了俊は駿河守護として任地に赴くこととなりました。

 今川了俊が失脚した頃、醍醐寺では満済が三宝院門跡となっています。そして、同年12月29日、三宝院満済は醍醐寺座主に任命されています。この満済がやがて「黒衣の宰相」と呼ばれて政界・宗教界双方に大きな影響力を行使することになります。

2008年3月16日
上醍醐(京都府)

 

 

 

既に南北朝は合一したはずなのですが、翌1396年2月、小山若犬丸を匿っていた奥州の旧南朝勢力・田村則義が鎌倉府に背いて挙兵し、これに新田残党も加わりました。同年6月、公方・氏満は白河に出陣し、ほどなくして反乱は鎮圧されました。なお、同年4月、今川了俊の後任として九州探題に任じられていた渋川満頼が九州に下向しています。満頼は管領・斯波義将に近い立場です。この年、九州では少弐定頼らが挙兵したため、大内義弘も渋川満頼の援軍として九州に赴いています。義弘は九州の戦いで、弟の満弘を討死させるほどの苦戦を強いられています。

 翌1397年1月15日、小山若犬丸が会津の蘆名家によって捕えられ、自害しました。若犬丸の2人の子は鎌倉に送られた後、六浦(横浜市)の海に沈められました。鎌倉府としては、ようやく小山家の乱を鎮圧したことになります。

 同年7月、安芸では武田信在が守護・渋川満頼の介入によって、既に厳島神主家から奪取していた佐西郡を返還させられています。この頃、大内義弘は西では武田家に近い立場にあった吉川家や熊谷家を懐柔するとともに、東では義満から東西条の支配を認められていました。それゆえ、武田家としては東西からの大内家の圧力に危機感を抱いていたと思われます。武田家と厳島神主家の衝突が、後の武田家と大内家の衝突につながっていきます。

(5) 応永の乱

翌1398年閏4月、京では畠山基国が管領に就任しました。他方、鎌倉では同年11月4日に公方・氏満が死去し、満兼が公方に就任しました。関東管領は、引続き上杉朝宗です。満兼の頃から「強い鎌倉府」を目指す方向性が示され、そのために、関東の8家(佐竹・小田・結城・再興小山・長沼・宇都宮・那須・千葉)を鎌倉公方の藩屏としてとり込もうとしました。

 また、既に鎌倉府が奥州も管轄下に組み込む方向性が定まっていたことから、満兼は父・氏満の遺言により、弟の満貞を稲村(須賀川市)に、満直を篠川(郡山市)に送って奥州の抑えとしました。この時、氏満の後室は「伊達を父と頼み、結城を母と頼むように」と述べたという逸話もあります。「強い鎌倉府」を目指すことは、従来から存在していた奥州管領の畠山家や大崎家の権限を抑えることにもつながりました。

 京の幕府の出先機関というポジションに徹するのであれば問題はなかったかもしれませんが、「強い鎌倉府」を目指すことが、京の幕府と張り合う、あるいは、将軍にとって代わるという方向に進んでいき、「南朝VS北朝」・「尊氏派VS直義派」という対立軸が解消した後にも、「幕府VS鎌倉府」という対立軸が残ることとなりました。このような対立軸に対応する形で、鎌倉府の管轄地域の勢力であっても、伊達家のように鎌倉府とは距離をおいて京の幕府と直接に結び付く京都御扶持衆と呼ばれる勢力も生じました。なお、官位を得るには将軍の推挙が必要であるところ、氏満は父・基氏とは異なり、死去するまで公卿に補任されませんでした。尊氏の息子に遡るという意味では共通しますが、代を経るにつれて京と鎌倉の信頼関係が希薄になっていった可能性が指摘されています。

2009年3月9日
稲村御所跡
(福島県須賀川市)

翌1399年2月頃から義満は北山第に住むようになっています。同年9月15日、義満は相国寺七重大塔供養に臨みましたが、この頃から義満の出処進退が法皇の儀に擬せられるようになっています。

 同年10月、大内義弘に警戒心を募らせる義満は、義弘に上洛を求めます。義弘は、末弟の盛見を在国させたうえで、自身は筑紫や中国地方の兵を率いて堺まで来たのですが、そこで滞留したまま城塞を構築するとともに兵も募り始めました。同月27日、義満は最後の和平の使者として絶海中津を堺に派遣しますが、交渉は決裂しました。こうして、大内義弘は幕府に反乱を起こしました。これが応永の乱です。

京の義満も東寺に出陣し、また、四国からは細川家の水軍が大内側の連絡を断っています。大内義弘の領国では盛見が反幕府の気勢をあげており、また、大内家が守護類似の越権行為を行ってきた安芸でも、大内義弘に同調する者も多かったようです。ただ、同月28日付の福原広世宛の義満の書状には、大内義弘に制裁を加えるから早く協力しろと書かれています。毛利広房の不慮の死の後、この福原広世が義満の信頼を得て毛利一族の支柱的立場にたっていたようです。

 
 

関東では、これに先立つ同年7月25日付で、公方・満兼が興福寺に軍勢催促をしています。公方に就任してからまだ1年ですが、何のために軍勢が必要だったのでしょうか。かつて、父・氏満も、康暦の政変に乗じて軍勢を西上させ、関東管領・上杉憲春は氏満が反幕的行動にでたことを自らの死をもって諫めました。公方・満兼も、応永の乱に乗じて大内義弘とともに京を挟撃するつもりだったと思われます。満兼は、高安寺(府中市)まで兵を進めています。

丹波では、同年11月、明徳の乱で討たれた山名氏清の遺子である宮田時清・氏明兄弟らも大内義弘と「反幕府」で一致して挙兵しています。義満の命を受けた山名時熙は、軍勢を率いてこれを討伐した功により、細川家に与えられていた備後守護を取戻すことに成功しました。山名家は明徳の乱で大きく力を削がれましたが、この時熙の幕府への忠節によってある程度まで勢力を回復することになります。同月、駿河では前・九州探題の今川了俊が大内義弘に通じているとして相模藤沢に追放されています。他方、今川泰範は応永の乱においても幕府方として活躍し、乱後、駿河・遠江2ヶ国守護に任じられています。美濃では、土岐康政(世保家)や肥田瀬詮直らも大内義弘に呼応して美濃守護・土岐頼益(西池田家)の留守を衝いて長森城を攻略しています。

 

2010年1月29日
尼子駅
(滋賀県犬上郡甲良町)

同年12月21日、堺城は落城し、大内義弘は討死しました。義満は同月2日付の書状のなかで、上杉憲定に対して公方・満兼の出兵について尋ねています。憲定は「心配ない」旨、返答するとともに、満兼を強く諫めています。山内上杉家は将軍家と結びついて公方の暴挙を抑える役割を担っています。応永の乱で軍功をあげた京極高詮は、新たに石見守護にも任じられ、京極家は近江を含めて6ヶ国を支配することとなりました。幕府は、降伏した義弘の弟・弘茂を赦して周防・長門守護に任じたうえで、義弘から留守を任されていた盛見の追討を命じました。山名家の場合とは異なり、大内家の領地はフロンティアにはなりませんでしたが、ここでも一族同士を争わせることによって大内家の勢力を削いでいます。

大内義弘に呼応して軍勢を高安寺まで進めた公方・満兼は、翌1400年3月5日に鎌倉に戻っています。この頃、奥州では伊達政宗と蘆名満盛が反稲村御所の兵を挙げています。稲村御所・満貞は、白河満朝に対して伊達・蘆名の討伐を命じました。伊達家は満貞にとって「父」ではなくなりましたが、白河家はこの時点ではなお鎌倉府に近い立場であり続けていたため、伊達家と白河家の対立が露となりました。一説によると、奥州管領の権限を抑えたい鎌倉府と、畠山・大崎両家にとって代わりたい伊達家は、反奥州管領という点では一致するも、奥州支配体制を強化したい鎌倉府と、奥州の自治を志向していた伊達家の間には支配のあり方において不一致があり、伊達家が京の幕府と結びついて反乱を起こしたともいわれています。

 同じ頃、京の北山第の持仏堂では、義満が尊道親王から受戒しています。同年3月11日、晩年の尊氏を苦しめた直冬が石見で死去しています。義満は、直冬が石見で余生を送ることを認めていたようです。

 
 

同年6月15日、公方・満兼は、伊豆の三島社に軍勢を動かしたことを詫びる願文を奉納しています。

信濃では、この年に大塔合戦と呼ばれる戦闘が生じています。守護の小笠原家による現地支配権侵害への抵抗運動で、かつて守護代を務めていた村上家らが蜂起しています。この時に蜂起した信濃の滋野一族のなかに「実田」なる人物が見えるという指摘があります。後年、信濃・上野の真田家は、甲斐の武田信玄の北信濃侵攻の際に工作活動をもって武田家に尽くすことになります。

 
 

この頃から越前守護の斯波家が尾張守護も兼任するようになります。そして、織田常松が尾張守護代に抜擢されて越前から尾張に移り、ここから尾張織田家が始まります。

 常松直系の子孫は、上四郡(丹羽・羽栗・中島及び春日井)を治めて岩倉織田家と呼ばれるようになりました。常松の受領名が伊勢守であったことから、伊勢守系織田家と呼ばれることもあります。他方、常松の一族の子孫は下四郡(愛知・海西・海東及び知多)を治めて清洲織田家と呼ばれるようになりました。こちらの系統は、代々受領名として大和守を名乗ったことから、大和守系織田家と呼ばれることもあります。後年、この大和守系織田家の家老の家から、秩序なき戦国時代に「天下布武」を掲げて国家再統一事業に邁進した織田信長が輩出されることになります。

 同年12月、幕府から大内盛見の追討を命じられていた弘茂が、長門・盛山城(下関市)で討死しています。幕府は再び義弘の弟・道通に盛見追討を命じることになりますが、後述のとおり、この道通も盛見によって返り討ちにあうことになります。