南北朝期5 ~康暦の政変~

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39 康暦の政変

 

(1) 華夷秩序とは

1368年大晦日、義満に征夷大将軍の宣旨が下りました。管領・細川頼之は、幕府・管領の権限強化、将軍権威の回復、南朝弱体化といった課題に取り組むことになります。ただ、義満が将軍に就任したこの年、中国大陸では明が興っています。太祖・洪武帝は、即位後、直ちに華夷秩序の確立を目指し、我が国に使者を派遣して我が国の入貢と倭寇の禁圧を求めてきました。

華夷秩序とは、中国が世界の中心であり(「中華」)、その周辺の夷狄は中国を自らの支配者として敬えば、中国の属国の国王として認めてもらえて、財産もいただけるという支配のあり方です。我が国は7世紀以降、中国大陸から影響を受けつつも、「皇帝」とは異なる「天皇」を戴く独自の国家として存続するための努力を続けてきました。「名を捨て実をとる」という考え方もありますが、結論としては、一時的であれ少なくとも形の上ではこの義満の頃に貿易の利益のために華夷秩序に組み込まれることになります。

 
 

(2) 今川了俊の九州平定戦

翌1369年1月、南朝の楠木正儀が北朝に降伏しました。降伏の原因としては、対北朝強硬派の長慶天皇との対立や、正儀が河内・和泉両国守護に任じられていることから、頼之が守護補任を条件として正儀を北朝に誘った可能性が指摘されています。幕府は南朝から攻撃を受けた正儀からの救援要請に応じて、赤松光範・細川頼基らを援軍として南下させました。同年4月、正儀は上洛して義満・頼之と面会していますが、正儀の降伏は南北朝の抗争の再燃のきっかけとなりました。

同年8月、細川頼之から四国統治を任されていた頼有が伊予に出陣し、再び河野勢と戦っています。伊予制圧の成否は管領・頼之の威信にかかわるものでしたが、11月にかけて連敗しています。河野通直は、この年のうちに伊予の大半を制圧し、このことが九州の南朝勢力を大いに奮い立たせることとなりました。この頃の九州はいまだに南朝の勢力が根強く、幕府の統制が十分に及んでいませんでした。

 翌1370年3月、再び幕府に背いた桃井直常を討伐するために越中に進軍していた斯波義将らの軍勢が、桃井家の本城・松倉城を攻略しました。この時、直常の嫡子の直和も討取られています。同年7月5日、下野では宇都宮氏綱が死去し、嫡男・基綱が家督を継いでいます。この頃の宇都宮家は半国守護として小山家と下野守護を分け合う状態が続いています。

 
 

同年10月、今川了俊が九州探題として遠江から上洛しました。実は、九州探題の人事は山名時氏の息子の師義で内定していたのですが、山名家と緊張関係にある管領・細川頼之の意向で了俊に変更されたものです。幕府としては、いまだ根強い勢力を保持している九州の南朝勢力を抑える必要がありました。これに先立ち、管領・頼之は直冬派掃討戦での失敗を口実として武田氏信の安芸守護を解任しています。この人事は、了俊に安芸・備後守護も兼任させて強い権限をもたせることによって、両国の北朝勢力を九州に動員するためだった可能性も指摘されています。

安芸の毛利元春は、翌年から7年間、この今川了俊に従って常に先頭に立って奮戦を続けて了俊から称賛されています。このような元春の行動に関しては、南朝に与して反幕行動をとった父・親衡の失点を挽回して、幕府から毛利家が南北朝期に拡張した所領の承認を得たかった可能性が指摘されています。

 同年11月13日、義堂周信は、二階堂時元に対して、「およそ人は傍にいる者によって『賢』とも『愚』ともなる・・・近習する者はその影響力を心すべきである」と語っています。現代においても十分に通用する考え方ではないでしょうか。

 
 

同年12月、土岐頼康が、管領・頼之と不和となり、父の仏事を口実にして尾張に帰国してしまいました。この行動については、かつて頼康が補任されていた伊勢守護への復帰を認めてもらえなかったことに対する不満の現れである可能性が指摘されています。このように、この頃の幕臣たちには、己の利益を追求し、要求が容れられないと帰国してしまうという行動が目立ちます。現代の価値観からすれば利己的とも思えますが、当時の人々は戦乱のなかで多大な犠牲を払ってきているわけですから、それだけ恩賞問題も切実なのでしょう。とはいえ、たとえ正当な要求であっても、主張方法を誤ると自らの身を滅ぼしかねないということは、当時だけでなく今日においてもあてはまるでしょう。

翌1371年2月、今川了俊が京を発ち九州に向かっています。同年3月23日、中国地方を切り取り続けて「六分一家衆」の基礎を築いた山名時氏が死去しました。師義が山名家の家督を継ぎましたが、この師義の死後の一族の対立が幕府につけ入る隙を与えて有力守護潰しのターゲットになってしまいます。

 師義の死後、養子に入っていた弟の時義が家督を継いだのですが、満幸のなかに「本来自分が家督を継げるはずだった」という気持ちが生じ、出雲大社に願文を納めて所願成就を祈るようになりました。また、時義の兄・氏清にも、「弟の風下に立たされるのは面白くない」という気持ちがありました。氏清は娘を満幸に嫁がせ、相続に不満のある者同士が結びついて時義打倒の機会を窺うことになります。

 将軍・義満としても、山名家の力があまりにも強大になったため、その力を削ぐ機会を窺っていました。かくして、二虎競食による山名家潰しが始まることになります。家督相続に関するいくつかの例を見てみますと、相続その他において立場の弱い側、あるいは、無理筋な側にあえて幕府が肩入れして一族同士で戦わせたうえで、勝利した者も何らかの理由で罰するという方向性が見てとれます。

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官渡の戦いで勝利した曹操は、袁紹亡き後の後継争いに乗じて華北の統一に成功します。また、劉表亡き後の蔡一族の増長につけ込んで荊州も手中に収めます。

 

同年5月19日、管領・頼之は突然職を辞して西芳寺に入ってしまいます。幕府は南朝から北朝に帰順した楠木正儀のもとへ援軍を派遣したのですが、諸将が正儀の救援に不満を抱き、淀川を渡ることを渋ったためです。しかし、義満になだめられ、頼之は出家を思いとどまっています。この頃、今川了俊は備後国に入っており、毛利元春も本隊に属しています。同年7月、斯波義将は、南朝の飛騨国司・姉小路家綱と結んで再び挙兵した桃井直常を討伐するため出陣しています。

 同年8月、楠木正儀の救援のために派遣された山名・石塔・一色・京極・赤松らが、「南朝を駆逐した」と称して正儀を残して帰京してしまいました。南朝勢力はこれに乗じて正儀を攻めています。同じ頃、桃井直常は斯波義将の討伐を受けて遁走しています。このように、斯波義将の軍事行動が成功した反面、管領・頼之のそれは停滞し続けており、明暗が分かれています。頼之としては威信回復のために何としても河内方面での軍事行動を成功させる必要に迫られました。

同年11月、今川了俊が赤間関に着いています。そして、翌12月19日、豊前門司に渡りました。ここから中国・九州の軍勢で南朝の本拠地・太宰府を攻撃することになります。同年12月29日、赤松則祐が死去し、義則が惣領を継いでいます。翌1372年2月、今川了俊は麻生山高見城を攻めています。

 同年3月、伊勢では北畠勢が伊勢守護の仁木義長を破っています。頼之は伊勢でも戦果をあげられていません。同年8月、頼之は自ら伊勢守護に就任するとともに、弟の満之を守護代として伊勢に派遣しています。この年、細川家は伊予の河野勢にも讃岐に侵攻されています。頼之は河内・伊勢方面の軍事行動に兵を割くだけでなく、今川了俊の九州制圧にも兵をとられているため、四国に兵をまわす余裕がありませんでした。そこを河野家に衝かれた格好となりました。

 
 

畿内や四国では頼之の苦戦が続いていましたが、伊勢に満之を派遣した頃、九州では今川了俊が懐良親王の籠る大宰府を攻略し、ここに数十年来の九州における南朝優位が覆されました。菊池武光ら南朝勢は筑後の高良山(久留米市)に逃れますが、やがて菊池城も陥落します。

(3) 康暦の政変

しかし、これまで南朝の勢力が弱まるたびに北朝内部の権力闘争が激しくなるというパターンが繰り返され、その結果として南朝が延命を果たしてきました。ここでも、九州探題の権勢が増すことを歓迎しない大内弘世が、大宰府陥落の頃に兵を率いて帰国してしまい、石見から安芸にかけての勢力拡大に取り掛かってしまいました。この頃、安芸守護は了俊でしたが、大内家による守護類似の越権行為が事実上黙認される状況が続いていたのです。しかし、毛利元春は了俊のもとに留まって軍忠に励んでいます。

 九州の勢力図が塗り替わった頃、その南の琉球には明からの使者が到着していました。中山王・察度は入貢を受諾し、この年の秋に弟・泰期を明に派遣して「臣」として入貢しています。

 
 

翌1373年3月、管領・頼之は一族の氏春を河内に派遣しました。そして、同年8月、氏春は天野の南朝の行宮を攻略してようやく河内を平定し、長慶天皇は吉野に逃れました。頼之は、南朝の橋本正督の投降工作を継続しています。ただ、この頃には幕将の頼之に対する反感が高まっており、さらに、同月27日には頼之に近い立場の京極道誉も死去しています。同年12月、山名師義が細川頼之と争い、諸国の兵が京に参集しています。この頃、九州では毛利元春が奮戦の末に、半年にわたり包囲され兵糧が尽きかけていた肥前・本折城に兵糧を運び入れることに成功しています。

翌1374年1月29日、北朝の後光厳上皇が崩御しました。上皇は泉湧寺で火葬され、以後、9代の天皇の火葬所となりました。尊氏の妻は北条家、義詮の妻は渋川家の女性でしたが、上皇崩御の際に出家した典侍の日野宣子は、一族の時光の娘の業子を義満に嫁がせました。これが、日野家の勢力伸長のきっかけとなるのです。なお、同年2月、義堂周信が初めて熱海を訪れています。滞在は2ヶ月近くに及びました。

 
 

同年7月、安芸では毛利親衡が今川了俊麾下として九州で転戦している元春の留守に乗じて吉田郷を攻めました。既に大内弘世は了俊に対する援助を打ち切って再び反幕的傾向を強めていましたが、親衡は弘世と結んで息子の留守を襲ったのです。翌8月、了俊は菊池家を肥後・隈部城に追いつめ、九州にも幕府の統制が及びつつありましたが、元春は本拠地を父に脅かされることとなりました。しかし、同年11月の筑後川の戦いでは、元春が大きな軍功をあげています。なお、畿内ではこの年に南朝の橋本正督が北朝に帰順しています。

翌1375年7月、今川了俊は、菊池盆地西端の水島に張陣し、菊池武朝らの隈部城及び菊池十八外城に迫りました。この時、了俊は大友親世、少弐冬資及び島津氏久に参陣を促しており、三者ともこれに応じているのですが、了俊は水島で何かと非協力的な少弐冬資を謀殺してしまいました。これに憤慨した島津氏久ら九州の諸勢力は了俊から離反し、またも北朝の内部対立に乗じて南朝の菊池勢が逆襲に転じています。毛利元春は、了俊が肥前に撤退する際、自ら同道して撤退を成功させています。

2013年3月30日
菊池城址・菊池武時像
(熊本県菊池市)

 

翌8月、安芸では毛利親衡が死去しています。親衡の死後も、次男の匡時と三男の直元は兄・元春に抵抗して吉田城の占領を継続しています。同年11月、管領・頼之は大内義弘に対して今川了俊を支援するよう命じています。また、年末頃には義弘の父・弘世に対しても再度の九州遠征を命じています。しかし、命令に従って九州に渡ったのは息子の義弘だけで、父・弘世は九州ではなく安芸に兵を入れています。

 翌1376年2月、毛利元春の息子の広房・広内兄弟が、毛利直元の釜額城を攻略し、さらに翌3月には吉田城を奪い返しました。翌4月、毛利匡時・直元は大内弘世と結んで広房らの小手崎城を攻め、この時、広房に近い者のなかにも討死する者が相次ぎ、広房自身も切腹寸前まで追い詰められたようです。

 同月、幕府は命令に背いて安芸で軍事行動を展開する大内弘世から石見守護を取りあげたうえで、石見・安芸両国から兵を退くよう命じました。同月28日、大内勢は撤退しています。この幕命は、毛利広房にとっては自らの命を救う意味がありました。帰国後、弘世は釈明に努めましたが、管領・頼之はこれを認めなかったため、憤った弘世は反幕的行動を再開することになります。なお、頼之は了俊の希望どおり、島津氏久・伊久の大隅・薩摩守護も取り上げてたうえで、了俊を後任に任じています。

翌1377年5月、今川了俊が再び肥後に侵攻しています。翌6月、北陸では斯波義将の越中守護代と現地勢力の間で紛争が生じ、現地勢力は細川家領の越中・太田庄に逃れました。それゆえ、斯波の守護代は細川家の太田庄に侵攻して放火・殺害に及んでいます。管領・頼之は、太田庄代官を派遣して斯波の守護代と合戦させました。つまり、越中を舞台として、斯波家と細川家の代理戦争が行われたのです。天龍寺での「対南朝勝利宣言」の後、細川頼春が斯波高経をはじき出す形で越前守護に任じられ、それ以来、細川家と斯波家の間には緊張関係がありましたが、越中の件をきっかけとして、管領・細川頼之と越中守護・斯波義将の対立が激化することになります。

 同年8月7日、京で四条から六条までを焼失する大火がありましたが、この時に細川家と斯波家が戦端を開くという流言が飛び交ったそうです。今日においても、自然災害の直後には被災地などで悪質なデマが流れがちです。人間のそういう性質は700年前から変わっていないという理解も可能でしょうが、ここでは、そういう流言が飛び交ったのは、現に両家が極めて険悪な状況にあったからだと理解しておきます。なお、将軍・義満はこの年に北小路室町の新第造営工事を開始しています。これが「室町幕府」の語源となりました。

 同年9月、管領・頼之は、六角家の希望どおり、京極高詮による六角家への容喙を止めさせました。京極高詮は近江守護を解任され、後任には六角満高が任じられました。京極道誉は頼之に近かったのですが、これがきっかけとなって、京極家も頼之と対立することになりました。年末頃、毛利元春が九州から安芸に帰国しています。元春は今川了俊のもとで奮戦した功により、幕府から南北朝期に拡張した所領の承認を得ることができました。

2009年3月24日
室町第址
(京都府京都市上京区)

 

翌1378年9月、今川了俊が肥後・詫磨原の戦いで大敗を喫しています。この頃の九州情勢は一進一退という状況でした。翌10月、畿内では南朝が大和・紀伊で挙兵し、幕府も討伐軍を派遣しています。翌11月、北朝に降っていた橋本正督が再び南朝に復帰しています。この頃になると、もはや幕府の諸将らには細川家のもとで戦う気持ちが失せており、将兵らは次々と帰京しています。南朝に復した橋本正督は直ちに反撃に転じて細川業秀に大勝し、業秀は淡路に逃れました。戦後、義満は、業秀の紀伊守護と楠木正儀の和泉守護を解任するとともに、後任として紀伊守護には山名義理を、和泉守護には山名氏清を任じました。細川頼之による人事が覆されただけでなく、頼之と反目している山名兄弟が後任とされたことになります。

この年、将軍・義満は室町第に移りました。いわゆる「花の御所」です。ただ、これまでもこれ以降も、室町時代は戦乱に明け暮れていますし、この翌年には早くもクーデターの軍勢によって包囲されていますから、「花の御所」とか「花の室町時代」という呼称は政治的美称と思われます。そのような雰囲気は、京のごく一部にのみ存在していたのでしょう。なお、この頃から、義満の公卿に対する押しの強さが現れ始めているという指摘もあります。

 
 

安芸ではこの年に武田氏信が佐東郡分郡守護職というポストに就いています。安芸守護は今川了俊のままですが、守護より格下の地位であっても安芸における存在感は大きかったようです。この人事には、貿易をめぐり大内家と競争関係にあった細川家が武田家を利用しようとした可能性が指摘されています。

翌1379年1月、義満は、大和で十市・越智・秋山氏らが挙兵したため討伐軍を派遣しますが、細川頼之のもとでは諸将が動かないと悟り、反頼之派の斯波義将や土岐頼康らに軍勢の指揮を任せています。また、紀州北部は反頼之派の山名兄弟が制圧に成功しています。頼之の面目は丸潰れとなりました。

 
 

この頃、斯波義将は鎌倉公方・氏満に使者を送り、天下を狙うよう誘っていました。氏満としても、細川頼之の度重なる関東への介入を快く思っていなかったようです。義満は、関東管領・上杉憲春に対して、氏満の動きを阻止するよう命じています。かつて、将軍・義詮と公方・基氏の兄弟仲が悪化した時期はありましたが、京での細川家と斯波家の対立をきっかけとして、いよいよ室町幕府の出先機関としての鎌倉府が、「京の幕府VS鎌倉府」という対立軸として認識されるようになっていきます。

同年3月7日、関東管領の上杉憲春は、京に呼応して反幕的行動にでた公方・氏満を自らの死をもって諫めました。同月11日、氏満は義満からの土岐頼康・京極高秀討伐命令に応じるという名目で上杉憲方を大将とする関東軍を西上させました。その頃、近江では六角勢が甲良庄に侵攻して京極高秀の軍勢を駆逐しています。細川派と斯波派の争いが、近江では六角家と京極家の抗争という形で現れています。斯波義将は義満に対して土岐頼康を赦免することで動乱の拡大を防ぐよう説き、義満もこれを容れて頼康や高秀を赦免しています。将軍・義満は、もはや反細川派の動きを抑えられなくなっていました。

 
 

翌4月15日、上杉憲春の死により、憲方が関東管領に就任しています。この年、憲方は鎌倉山ノ内に屋敷を構えたため、この系統は山内上杉家と呼ばれるようになりました。

同年閏4月14日、反頼之派(斯波派)の諸将が新造の花の御所を包囲して、将軍・義満に対して管領・細川頼之の追放を求めました。これが康暦の政変です。義満はやむなくこれを受け入れ、頼之を罷免したうえで斯波義将を管領に任じました。義将は因縁の越前守護にも復帰しています。同月16日、頼之は一族らとともに西宮から淡路に向かい、阿波へと落ち延びました。「淡路」は「阿波への道」です。この時、頼之は「人生五十、功無きを恥ず」という言葉を残したと伝わります。

 
 

(4) 明徳の乱

斯波義将への管領交代によっても、将軍権威の向上という政策目標は維持されましたが、京都五山に対する強い統制は緩やかな間接統制に改められ、頼之の宗教政策が次々と覆されていきました。また、政変の影響は頼之だけでなく、頼之派と目されていた人々にも及びました。細川頼有も阿波守護を解任され、かつて頼之が討取った細川清氏の遺児・正氏が後任に任じられています。細川頼基も摂津守護を解任され、渋川家が後任に任じられています。九州で南朝勢力掃討戦を行ってきた今川了俊は、頼之の失脚により中央政界における後ろ盾を失うことになりました。了俊も備後守護を失い、後任には山名時義が就任しています。かつて伊勢守護への復帰を頼之によって阻まれた土岐頼康が伊勢守護に復帰しています。さらに、伊予で頼之と戦ってきた河野通直も、政変を受けて南朝から北朝に転じており、通直は伊予守護に復帰しています。かつて関東管領の交代に伴い関東の守護が旧直義派に塗り替えられたのと同様、中央政界でも細川派がパージされて斯波義将派ないし反頼之派が要職に就任したのです。

将軍・義満は斯波派による頼之追討の希望を抑えようとしていたと思われますが、同年9月5日、ついに伊予の河野通直に対して頼之の追討を命じるに至りました。管領在職中は細川家重視政策が反細川派の反感を買いましたが、追討を受けた場面では一族の結束を高める方向に作用したという指摘があります。また、細川頼有が四国勢力の被官化に努めていたため、四国の勢力の協力を得ることもできました。同年11月6日、頼之は機先を制して河野通直の世田山城を急襲し、河野通直を討取っています。同年12月3日、幕府は反細川派の山名時義・義幸らに対して河野救援を命じますが、義満は頼之の追討に極めて消極的だったようです。

 
 

翌1380年3月17日、建仁寺の住持に就任するために上洛するよう命じられていた義堂周信が京に着きました。これ以降、義堂は建仁寺と南禅寺の住持として将軍・義満の信任を得ることになります。鎌倉府は京の幕府の出先機関として、幕府と一体的に我が国を治めることが予定されていたはずですが、その前提として、幕府と鎌倉府の間に信頼関係が構築されていなければなりません。かつて、鎌倉将軍・実朝の貴族的傾向が京と鎌倉の友好関係維持に寄与し、その実朝の暗殺後に承久の乱が起きました。京の将軍と鎌倉の公方双方から信頼を得ていた義堂の存在が、京と鎌倉の友好関係に寄与していた可能性が指摘されています。

同年5月16日、宇都宮基綱が下野裳原で小山義政の軍勢と戦って討死しています。宇都宮家は嫡男の満綱が家督を継ぎました。かつて守護を解任された後に反乱を起こした宇都宮家は、小山家とともに下野半国守護の地位に甘んじてきましたが、この戦いが生じた原因については争いがあるようです。

 翌6月1日、公方・氏満は、小山義政追討を命じました。同月15日、氏満自ら鎌倉を出陣しています(第1次小山討伐)。同月、小山義政は下野守護も罷免されています。この頃、畿内では北朝に降った後に再び南朝に転じていた橋本正督が山名氏清に討たれています。同年8月29日、小山討伐に赴いた公方・氏満の軍勢が小山城に迫りました。小山義政は氏満の陣に対して降伏の使者を派遣し、氏満は降伏を認めたのですが、これは偽りの降伏だった可能性が指摘されています。

2009年3月13日
小山城址(栃木県小山市)

 

同年10月15日、大内弘世が死去しました。家督は義弘が継ぎましたが、この頃に安芸で家督相続をめぐり義弘・満弘兄弟の抗争が生じています。安芸守護は康暦の政変の後も今川了俊に残されていましたが、同国では守護でもない大内家による守護類似の越権行為が続いています。

 このような状況のもとで、安芸の毛利元春は子息らに対して所領の分割譲渡を行っています。元春は嫡男の広房に惣領の地位と吉田郷を譲るとともに(吉田殿)、弟の直元には惣領の統制に服することを条件として父・親衡から譲られていた麻原郷の既得権を認めています。そのうえで、南北朝期に元春が実力で獲得した吉田荘竹原郷は広房・広内・忠広及び広世で4分し、内部荘は山手村を広内に、中馬村を忠広に、福原村を広世に、川本村を広房に譲渡することとしました。父・親衡が実力で獲得した豊島郷の坂や有富もこの頃に領有を認められた可能性が指摘されています。広内は大内義弘と結び、大内家の後ろ盾のもとで麻原郷に勢力を伸長し、麻原を本拠として麻原氏を称することになります。この時の分割譲渡をきっかけとして、毛利一族のなかから複数の庶家が興りました。元春の頃までは越後の同族との交流もあったようですが、広房の頃になると途絶え、その代わり安芸の勢力としての性格が強まっていきます。なお、元春の次男・元房の系統は当初は大内家の家臣団に加わっていますが、後に毛利元就によって迎えられることになります。

 他方、奥州ではこの頃に伊達宗遠が隣国・出羽長井庄に侵攻して長井広房から同庄を奪っています。長井庄は、宝治合戦後に毛利家を存続させるうえで重要な役割を果たした長井家の本貫地です。長井家の庶流は安芸に根を下ろし、毛利家が越後から安芸に本拠地を移転した際もこれを支援しています。安芸長井家の貞広は、今川了俊の九州掃討戦に従軍して筑後・山崎で討死していますが、九州に赴く際、毛利(福原)広世に対して遺領の相続を約束しています。この福原広世が、この頃の毛利一族において中心的な役割を果たすことになります。

同年12月29日、将軍・義満は、細川頼之の赦免運動を続けていた細川頼元に対して、河野亀王丸の伊予守護の地位を侵害しないよう命じています。頼元はこれを受諾し、ここに頼之・頼元兄弟の追討が解除されることとなりました。頼之は四国の領国経営で力を蓄えながら他日を期することになります。この頃、細川頼益は土佐守護代として田村庄に入り、現地の地頭らを被官化していますが、この時に被官化された地頭の1つに長宗我部家がありました。

 
 

なお、琉球ではこの年に山南王・承察度が明に入貢しています。

翌1381年1月、公方・氏満は、小山義政本人が一向に降伏の申し入れに現れないため、京に使者を派遣して小山討伐を幕府に要請しました。同年6月15日、氏満は小山義政討伐のために再び鎌倉を出陣しました(第2次小山討伐)。