南北朝期4 ~尊氏の死及び上杉家の台頭~

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37 尊氏の死

2010年1月28日
瀬田の唐橋
(滋賀県大津市)

(1) 直冬の挙兵

同年5月21日、山名時氏らと連携した直冬が尊氏討伐のため石見で挙兵しました。しかし、北朝勢力に阻まれて4ヶ月ほど石見に留め置かれています。尊氏も同年7月、義詮を大将として直冬討伐を命じています。同月末、義詮は一色範氏に対して、九州から直冬討伐に呼応するよう命じています。同年8月25日には、四国の細川頼有・頼之も直冬討伐軍への参陣を命じられています。九州では、懐良親王も博多まで進出しています。他方、同年12月、北陸では直冬派の桃井直常・斯波高経勢が京に迫っています。同月24日、尊氏は後光厳を奉じて一旦近江の武佐寺に逃れます。

 翌1355年1月16日、桃井直常・斯波高経ら北陸の軍勢が京に入りましたが、直常は自分たちだけでは京を維持できないとして、丹波まで進んでいた直冬に早期の入京を要請しています。同月20日、軍勢の集結をみた尊氏は武佐寺を出陣し、勢多橋から京に向かいます。

同月22日、直冬は山名・石塔ら中国勢を率いて京に入り、大極殿跡付近に張陣しました。同月24日、直冬討伐に向かっていた義詮は、直冬入京の報を受け、播磨国弘山から京に引き返します。細川頼之も伊予方面での戦闘を中止して京に向かい、義詮の軍勢と合流することになります。

2008年3月16日
小安殿跡
(京都府京都市中京区)

同月25日、直冬は東寺実相院に入り、この地を宿所と定めました。

同月29日、尊氏が比叡山に張陣しています。直冬は真言宗、尊氏は天台宗の寺院を軍事利用したことになります。翌2月6日、尊氏は六条・七条河原に進みます。嵐山には仁木頼章も張陣しています。他方、南朝の楠木正儀も男山まで進出しています。

 

2008年3月22日
五條坂
(京都府京都市)

同月8日、尊氏派と直冬派が初めて激突しました。翌9日、尊氏は清水坂に移り、以後、直冬が京から撤退するまで十住心院を本拠としました。同月28日、義詮も西山法華山寺に入り、清水坂の尊氏勢とともに直冬挟撃態勢を整えています。その頃、越後では上杉憲顕の息子・憲将らも尊氏派討伐のため挙兵しています。

翌3月12日、尊氏派が東寺の直冬本陣を攻めます。この時、細川清氏が真先に東寺に攻め寄せて、自身も負傷しながらも東寺を占領する大功をあげたと伝わります。直冬は男山に逃れ、住吉・天王寺へと落ち延びた末に安芸に逃れることになります。かくして、直冬による組織的抵抗は潰え、尊氏・義詮が京を回復しました。戦後、尊氏は「たとえ直義(直冬)派や南朝であったとしても、尊氏派に転じて軍功をあげれば本領を安堵する」と宣言しています。

 
 

(2) 尊氏の死

翌1356年1月、尊氏の融和策を受け入れた斯波高経が尊氏に降伏しています。しかし、同年6月、若狭守護の細川清氏が隣国の越前守護を得られなかったため、阿波に帰国してしまいました。越前は尊氏に降伏した斯波家に与えられていたのです。なお、この年、奥州の斯波兼頼が出羽按察使として山形に入り、この系統が最上氏を称することになります。翌2月、尊氏は細川頼之を大将として直冬討伐軍を起こします。また、安芸の小早川貞平らにも直冬討伐を命じています。

翌1357年閏7月16日、武家護持僧と公家護持僧を兼ねて大きな影響力を行使してきた三宝院賢俊が死去しました。この年は尊氏の厄年にあたり、賢俊は石清水八幡宮に自らの身をもって尊氏の災厄に代わらんと祈願したと伝わります。

 同年12月、人吉の相良定頼が希望どおり遠江守に任じられています。相良家の本貫地は遠江・相良庄であり、定頼は鎌倉時代に一族が九州に移っても本貫地の官職を欲していたようです。なお、中国地方ではこの年に南朝の大内弘世が周防に続き長門も統一しています。

 

2008年7月10日
足利家墓碑
(京都府京都市北区)

翌1358年2月12日、故・足利直義に従二位が贈られました。そして、同年4月30日、尊氏は二条万里小路第で死去しました。旧直義派の上杉憲顕は、尊氏の死によって北朝に復帰しています。九州では、尊氏の死に乗じて肥後・菊池家が大友・少弐らを攻めています。

38 新興・上杉家の台頭

(1) 両執事の討伐

越前の斯波高経や山陰の山名時氏など、尊氏の存命中から既に恩賞などへの不満を理由として敵方に鞍替えする動きが生じていました。尊氏の死後の同年12月、義詮が征夷大将軍の宣旨を受けますが、義詮の代では配下の自己主張がさらに目立つようになり、将軍の権威が低下することになります。ただ、自らの政治目的の達成のために敵方に「降伏」するという手法は、彼らの上司であった尊氏・直義兄弟が行ってきたものでもあります。この時代から、部下は上司の背中を見て育つということでしょうか。同年8月、北畠顕信父子が大物忌神社に天下の回復と陸奥・出羽の静謐を祈願しています。北畠顕信父子の生存情報という意味で、この頃まで出羽に潜伏していたと思われます。

 
 

同年10月、幕府執事の仁木頼章が京で死去し、後任に細川清氏が就任しました。同じ頃、関東では清氏と親交のある畠山国清が新田義興を矢口の渡しで殺害しています。この頃から「管領」という言葉が史料に現れ始めるのですが、幕府の管領の清氏、鎌倉府の関東管領の国清、いずれも後に討伐されることになります。

翌1359年11月、将軍・義詮は鎌倉公方・基氏に対して、南朝攻撃を命じます。基氏は執事・畠山国清に大軍を与えて上洛させました。南朝の後村上天皇は吉野から河内の観心寺(河内長野市)に逃れています。義詮自身も管領・細川清氏らを率いて出陣し、大軍で金剛山を包囲しています。義詮としては、南朝に軍事的な打撃を与えたうえで有利な和睦に持ち込もうとしたと思われますが、和睦交渉は決裂しました。この頃、九州では少弐頼尚が菊池武光と筑後川で死闘を繰り広げています。

 
 

この年、武田信武は甲斐守護を信成に継がせています。武田家は信武の代で安芸と甲斐の守護を本家・安芸武田家に統合したうえで、あらためて分家として甲斐武田家を興したという指摘があります。信武は息子の大井信明・穴山義武らを甲斐に住まわせて信成を補佐させています。なお、安芸に逃れていた直冬は、この年に活動拠点を石見に移しています。また、飛騨ではこの年に京極家が守護に任じられています。やがて、飛騨は高山盆地の京極家と吉川盆地の姉小路家という棲み分けが進んでいくことになります。

翌1360年4月、金剛山で南北の戦闘が始まりました。この時、関東軍の紀清両党と呼ばれる芳賀禅可の軍勢が武名を高めたと伝わります。しかし、北朝の陣営ではまたも結束を阻む動きが生じていました。陣中で、細川清氏・畠山国清・土岐頼康らが同じ北朝の仁木義長の謀殺を計画していたのです。これにより、内輪もめに嫌気がさした関東勢の多くが勝手に関東に帰ってしまいました。関東武士の千余人が一致して畠山国清の執事罷免を基氏に求めています。翌5月、成果をあげられないまま義詮も京に戻っています。同じ頃、旧直義派の上杉憲顕は南朝の新田義宗らの拠点である上田城を攻めて、北朝の立場を鮮明にしています。

 同年7月、細川清氏が軍勢を率いて京に迫りました。仁木義長は防戦しようとしましたが、義詮が幕府を脱出してしまったため、一族を率いて伊勢に逃れた後、南朝に鞍替えしてしまいました。仁木義長の後任として、土岐頼康が伊勢守護を兼任することになりました。

 
 

 この年、北畠顕信父子は、一族とともに交通の要地である津軽の浪岡に移住しています。

翌1361年7月、既に山陰をほぼ制圧していた南朝の山名時氏が播磨侵攻を目指しましたが、美作で多くの兵を失ったため断念しています。赤松則祐は、山名の侵攻に備えるため、城山城の築城を急がせています。

 同年9月、義詮は新熊野社に移って細川清氏討伐の軍勢を招集しました。清氏は若狭に逃れますが、越前の斯波高経に追われた後、南朝に帰順しました。同年11月、関東でも基氏が畠山国清を罷免して鎌倉から追放しています。基氏は伊豆の修善寺に立て籠った国清の討伐を命じました。

 
 

同年12月3日、南朝の楠木正儀や南朝に降った細川清氏らの軍勢が、北朝の分裂に乗じて一斉に京に侵攻しました。義詮は後光厳を奉じて近江の武佐寺に逃れています。南朝は1月ほど京を占拠した後、北朝の軍勢の来襲によって京を放棄しています。義詮は戦闘をすることなく京に戻りました。

翌1362年1月、北畠顕信が京情勢を南部信光に伝えています。これが顕信の最後の生存情報です。同年春頃、幕府を追われた細川清氏は本領の阿波に戻っています。伊予の河野家は細川家との抗争の過去がありますが、この時点では義詮から讃岐で領国経営に尽力していた細川頼之と相談のうえで清氏討伐にあたるよう命じられています。しかし、河野通盛は清氏討伐への協力要請を拒否したため、頼之は独力で清氏討伐にあたることになりました。同じ頃、畠山国清を追放した公方・基氏は入間川から鎌倉に赴き、義堂周信とともに瑞泉寺一覧亭でお花見をしています。

 同年6月、上杉憲顕は越後の所領を天龍寺に寄進しています。旧直義派から北朝に復した憲顕としては、寄進によって京との関係改善に努めていたものと思われます。同じ頃、山名師義は、細川頼之が清氏と戦っている間隙を衝いて備前・備中・美作に侵攻しています。これを防いだのは播磨の赤松則祐・貞範です。

 
 

同年7月23日、斯波義将が13歳で執事に就任しました。これは、父・高経が幕政の実権を握ったことを意味します。高経が執事を「管領」に改めたことに伴い、関東についても「公方」・「関東管領」という呼称が定着することになります。

翌24日、細川頼之は清氏と讃岐白峰で戦いました。この戦いで清氏は討死しています。同年9月、清氏の盟友・畠山国清も降伏しました。この頃、足利氏満が父・基氏に代わり入間川に入っています。

2009年2月15日
史蹟三十六
(香川県坂出市)

 

同年11月、細川頼之に追われて石見に潜伏していた直冬は、備後府中で山名時氏と合流します。同月、義詮は時氏追討を命じました。この後、中国地方の南朝勢力の北朝への帰順が相次ぎ、直冬は孤立していくことになります。翌1363年春、大内弘世は、自ら切り取った周防・長門両国の守護を条件に北朝に帰順しました。白河親朝と同様、既得権の保持が帰順の決め手になったようです。北朝に鞍替えした大内弘世は、南朝勢力が根強い石見に兵を進めています。

(2) 旧直義派の復権

同年3月24日、上杉憲顕が公方・基氏の推挙により関東管領に就任しました。また、この頃に越後守護にも復帰しています。憲顕は尊氏派と直義派の対立構造のもとで直義派に与して失脚していた時期もありましたが、足利家の開府を支え続けた上杉一族であることに加え、将軍の義詮と公方の基氏を幼少期から支えてきた経緯もあります。将軍・公方双方との信頼関係や人格が窺えます。

 
 

ただ、この人事が原因で新たな紛争が生じることとなりました。薩埵峠の戦いの後、関東の守護が旧尊氏派に一斉に塗り替えられましたが、基氏の補佐役が旧尊氏派の畠山国清から旧直義派の上杉憲顕に交代したことで、関東各地で旧直義派が復権していくのです。薩埵峠の軍功で越後守護に任じられていた宇都宮氏綱の守護代・芳賀禅可は、氏綱の守護解任に激怒して越後で反上杉の戦いを始めることになります。また、旧尊氏派の河越直重も相模守護を解任され、後任には旧直義派の三浦高通が就任しています。

同年7月、大内弘世に続き、山名時氏も南朝から北朝に帰順しました。山名家は、かつては北朝の1人として要職を務めながら、その後に南朝に転じたうえで、山陰から山陽にかけて実力で散々に領土を切り取ってきました。山名家も大内家と同様、既得権の保持を認められたことが北朝への帰順の決め手となったようです。南朝方として自家の勢力を大いに高めたうえで自らを幕府に高く売りつけた山名家は、後に天下の6分の1を治めるという意味で「六分一家衆」と呼ばれることになりますが、その基礎は時氏の軍事行動にありました。山名の帰順によって、直冬はさらに孤立を深めていきます。

 
 

同年8月、関東管領に就任した上杉憲顕が越後を発って鎌倉に向かいますが、芳賀禅可は兵を率いて上野板鼻(安中市)に張陣します。これを聞いた基氏は激怒し、自ら大軍を率いて宇都宮攻めのため出陣しました。「所存あらば訴訟を致すべきところ、合戦とは奇怪の至りなり」、つまり、不満があるのであれば、まずはお互いに主張をぶつけあうべきところ、いきなり暴力に及ぶとは理解しかねるということで、これは現代の日本社会においても通用する価値観でしょう。現代的変容が必要な部分があるとすれば、「所存あらば、まずはADR、次いで訴訟提起を検討すべきところ」ということでしょうか。同月26日、基氏勢と芳賀勢は武蔵国苦林野で衝突し、これに勝利した基氏はさらに宇都宮を目指します。同じ頃、備後では直冬が北朝に攻められて遁走し、これで中国地方の直冬派は鎮圧されました。

同年9月5日、基氏は下野・足利に着きました。翌6日、基氏は長沼庄の長沼秀直に宇都宮城の包囲を命じています。その後、基氏は小山義政の小山城に入り、越後から赴いた上杉憲顕もここで合流しています。宇都宮氏綱は小山城に駆けつけて詫びをいれますが、薩埵峠の恩賞として得た所領はすべて没収され、さらに上野守護も解任され、後任には上杉憲顕が復帰しました。つまり、関東管領の交代に伴う政変によって、鎌倉幕府以来の北関東の名族である宇都宮家が没落し、代わって新興の上杉家が台頭することになったのです。

2009年3月13日
小山城址
(栃木県小山市)

2009年2月17日
高縄山から
(愛媛県松山市)

(3) 細川頼之の管領就任

翌1364年1月、伊予では河野通堯が道後湯築城を攻めています。同年4月、細川頼之は自ら道後に攻め入り、河野通堯を本城・高縄山城に包囲しました。通堯は南朝に帰順して伊予奪還の機会を窺うことになります。

同年7月28日、基氏は3ヶ月ほど前に上総守護に任じられていた旧直義派の世良田義政を自害に追い込みました。「勘気を蒙る」とあり、具体的な理由はわかりませんが、この新田一族の世良田家は約200年後にもう1度でてきます。同年8月、京では義詮が直義第跡で幕府新第の造営を始めています。

2018年9月23日
徳川氏発祥の地
(群馬県太田市)

2009年2月17日
世田山から
(愛媛県今治市・西条市)

 同年9月、細川頼之は再び大軍を率いて讃岐から伊予に侵攻し、河野通盛の嫡子・通朝が籠る世田山城を包囲しています。同年11月6日、世田山城は落城し、通朝は自害しました。同月26日には父・通盛も死去しています。これで、四国のほぼ全域が細川頼之の支配に属することとなりました。

翌1365年5月4日、尊氏の妻・登子が死去し、等持院に葬られました。この年、義詮の愛妾・北向殿が日足らずで産気づいたのですが、すかさず六角氏頼が六角東洞院の屋敷を産所として提供して男児を生ませています。これによって氏頼の立場が高まったという指摘もあります。媞子内親王の死後に所領を六条院に寄進して白河院政期に立場を高めた伊勢平氏の例もあるところです。

 
 

翌1366年8月8日、義詮は斯波高経の討伐を命じます。既に将軍・義詮と公方・基氏の関係は悪化していたようですが、義詮は斯波討伐にあたり基氏と和解するとともに、南朝に対しても和議を提案しています。これまで北朝の内部が荒れるたびに南朝が軍事行動を活発化させてきた経緯がありますから、斯波討伐に伴う混乱をできる限り抑えようとしたものと思われます。翌9日、斯波高経・義将父子らは自邸を焼き払ったうえ、京から越前・杣山城に逃れて抵抗の姿勢を見せます。幕府は斯波家の越前守護を剥奪し、後任として畠山義深を守護に任じました。そして、細川頼之が管領にあった時期に越前守護がそのまま斯波家に返還されなかったことが、斯波義将が反頼之の立場を固める原因となったという指摘があります。なお、桃井直常は、この政変の際に幕府に帰順しています。

同年11月、後村上天皇の御代では最後となった南北和睦交渉が始まりました。北朝の京極道誉と南朝の楠木正儀が交渉にあたり、これまでの交渉よりもはるかに和睦の可能性が高まっているとみられていましたが、やはり決裂しています。この時、義詮は南朝から提示された和睦条件の「義詮の降伏」という文言に激怒して道誉を譴責したといいます。

2009年12月5日
南朝賀名生皇居跡
(奈良県五條市)

 

この年、既に北朝に転じていた大内弘世は、周防・長門に続き石見守護にも任じられています。そして、弘世は石見から安芸にも進出し、この時に南朝の毛利親衡が降伏しました。他方、息子の元春は同年9月に義詮から味方するよう誘われています。この頃から、再び元春が毛利家を率いることになったのです。

翌1367年1月、阿波でも南朝の小笠原家が北朝に帰順しました。同年4月26日、公方・基氏が死去しました。基氏は遺命により瑞泉寺に葬られ、基氏が所有していた銅雀研も納められました。銅雀研とは、中国の三国時代の曹操が建てた銅雀台の遺跡から出土した瓦で作った硯です。この頃までには、中国では『三国志演義』の大枠が出来あがっていたはずです。基氏の死去により息子の氏満が公方に就任しましたが、これを支える関東管領は引続き上杉憲顕です。

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同年7月13日、斯波高経が杣山城で死去しました。同年9月、義将は赦免されて幕政に復帰しています。同年9月7日、細川頼之が義詮の招きで軍勢を率いて上洛しています。同年10月頃から体調を崩していた義詮は、同年11月25日、政務を息子の義満に譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託しました。頼之の管領就任は、反斯波派の京極道誉らの画策によるものとの指摘もあります。越前をめぐり斯波家と細川家は対立してきましたが、これ以降、斯波義将は管領復帰の機会を窺い続けることになります。同年12月7日、義詮は死去しました。葬儀は等持院で行われ、義満が3代将軍に就任しました。

翌1368年1月、上杉憲顕が義満の将軍就任のお祝いのために上洛し、翌2月8日、義満に面会して「東国静謐」を報告しました。しかしその直後に、相模守護を解任された旧尊氏派の河越直重が憲顕の留守を衝いて、同じく守護を解任された宇都宮氏綱らと結んで河越城で挙兵したとの報告が届きました。旧直義派の上杉家の勢力伸長に対する旧尊氏派の不満が噴出した動きで、憲顕は面目を潰された格好となりました。直ちに上杉家の憲英が武蔵に出陣しています。同じ頃、斯波義将の赦免に不満の桃井直常が越中に下り、再び幕府に背いています。

 
 

同年3月11日、南朝では後村上天皇が摂津国住吉の行宮で崩御しました。後村上天皇の後には対北朝強硬派の長慶天皇が即位したため、講和派の楠木正儀にとっては苦しい時期が続きます。

 同年4月15日、将軍・義満が11歳で元服しました。加冠は細川頼之、理髪は細川業氏が担当しています。儀式が盛大に行われた理由としては、義詮の代で失墜した将軍権威の回復を意図していた可能性が指摘されています。同じ頃、上杉憲顕は上野に帰国しています。同年6月11日、上杉憲顕は武蔵で旧尊氏派の軍勢を破り、同月17日、河越城を攻略しました。反乱軍を破った憲顕は、この月のうちに鎌倉に入っています。

同じ頃、豊前では河野通直が細川頼之の上洛に乗じて伊予に渡り、伊予奪還のため軍勢を動かし始めています。そして、伊予の反細川勢力が通直のもとに結集していきました。越後では、同年7月、南朝の新田義宗・脇屋義治らも将軍と公方の代替わりに乗じて挙兵しています。しかし、義宗は越後で討死し、越後における南北朝の抗争も北朝の勝利に終わりました。

 
 

同年7月末、旧尊氏派の宇都宮氏綱が足利を出陣しました。翌8月19日、氏綱は横田城を攻略しましたが、翌9月6日、上杉憲顕の軍勢に宇都宮本城と石井城を攻められ、氏綱は降伏しました。この反乱により宇都宮家の力はさらに削がれることとなりました。薩埵峠で敗れて信濃に落ち延びた旧直義派の上杉憲顕にとっては、「薩埵峠の復讐の完了」という見方もあります。

 旧尊氏派の反乱が鎮圧された結果、関東の大部分が上杉家及び同家の息のかかった者の支配に属することとなりましたが、同月19日、憲顕は死去しました。越後守護は義満の命により既に出家していた憲顕の末子・憲栄が還俗して相続しました。そして、関東管領には上杉能憲と上杉朝房の2人が任じられました。