南北朝期3 ~観応の擾乱~

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36 観応の擾乱

 

(1) 直義の失脚

 北朝の「勝利宣言」にもかかわらず、吉野の北畠親房の戦意はなお盛んです。親房は、楠木正行らに積極的に北朝を攻撃するよう命じています。1347年春、北畠顕信は、葉室光世らとともに出羽の立谷沢城に籠ります。これに対して、北朝の奥州管領も霊山・宇津峯両城を猛攻撃しました。

 同年8月、紀州では楠木正行が隅田党を攻めた後、兵を河内に向けて、翌9月、北朝の細川顕氏らを藤井寺で破っています。尊氏は、高師直・師泰兄弟に大軍を与えて救援に向かわせました。また、この頃、南朝の霊山・宇津峯だけでなく、北畠顕信の立谷沢城も落城し、顕信は滴石城に逃れています。同年11月、楠木正行は、細川顕氏の援軍として駆けつけた山名時氏の軍勢も住吉・天王寺で破りました。

 北朝は奥州管領が南朝勢力を駆逐した反面、河内・摂津方面では楠木正行に連敗を喫したのです。同月、京に逃れてきた細川顕氏は、直ちに河内・和泉両国を召し上げられ、高師泰が後任に任じられることとなりました。また、土佐も高一族の分国とされてしまいました。確かに、細川顕氏は楠木正行に敗れはしましたが、長年にわたり足利一族の1人として尊氏らを支えてきた人物です。にもかかわらず、たった1回の軍事的失敗によってこれまで築いてきた基盤を失い讃岐1国守護とされたことに対する不満が、後に直義派に転じる重要な要因となるのです。

翌1348年1月5日、楠木正行は、四条畷で高師直・師泰の軍勢と戦い討死しました。北朝は吉野の朝廷を焼き払い、南朝の後村上天皇はさらに奥地の賀名生に逃れ、これ以降、急速に南朝勢力が衰退していきます。それは同時に、北朝内部の権力闘争の激化につながっていくのです。なお、南朝の南部政長の嫡男・信政は、この年の高師直の吉野攻めの際に討死しています。

2009年12月5日
賀名生皇居周辺
(奈良県五條市)

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同年4月、足利直冬は、直義の進言により、紀伊で蜂起した南朝勢力の討伐戦において、大将として初陣を飾ることになりました。直冬は祇園社などで戦勝祈願をした後に出陣しています。同年8月8日、直冬は初めて南朝勢力と戦闘し、翌9月に任務を終えて引揚げています。しかし、尊氏や正室の登子だけでなく、義詮や高師直らも直冬の成功には冷淡でした。直冬にとって、頼れるのは直義及び直義に連なる人物だけだったでしょうか。なお、奥州では北朝の内部対立に乗じて、北畠顕信が滴石城で南朝勢力の結集を図っています。

翌1349年春、播磨では赤松貞範が姫路城(今日のものとは異なります)の築城を開始していますが、その頃、京では高師直と直義の対立が激しくなっています。同年4月、尊氏は直冬を常設ではない長門探題というポストに特に任じて長門に派遣することを決めました。直義が直冬に対する周囲の目を考慮して、直冬を京から離れさせたと思われます。

 同年閏6月、いよいよ高師直と直義の対立が抜き差しならぬところまで高まります。直義は上杉重能や畠山直宗と共謀のうえ、高師直を自邸に招いて暗殺しようとしましたが、これは失敗しました。直義は尊氏に迫り、高師直の執事職を解任させますが、尊氏は後任として師直の甥の師世を任命したため、高一族の政治的立場は揺るぎません。

 その後、高師直も直義を襲い、直義は尊氏邸に逃れました。高師直は尊氏邸を包囲したうえで、上杉重能、畠山直宗、禅僧・妙吉の引渡を求めました。尊氏の調停により、重能・直宗は流罪、直義は政務を義詮に譲り、高師直が尊氏の執事に復帰するという条件で妥協が成立しましたが、上杉重能は配流中に高師直に殺害されています。

2009年11月7日
姫路城から
(兵庫県姫路市)

2009年12月28日
鞆の浦・医王寺付近から
(広島県福山市)

直義の失脚を知った直冬は、激怒して備後から軍勢催促状を発して挙兵しようとしたため、尊氏は直冬の討伐を決意しました。直冬は高師直勢に宿所を急襲され、一旦九州に逃れることになりましたが、船の上で尊氏の九州落ちの話をひきながら佳例であると慰められたといいます。尊氏から追討対象とされたため北朝は頼れず、また、紀州南朝勢の掃討戦で初陣を飾ったばかりであるため肥後の菊池家を頼ることも難しいという状況から勢力挽回に努めることになります。その後、直冬は博多において、かつて尊氏の反転攻勢を支えた少弐頼尚に婿として迎えられています。

他方、かつて新田義貞を播磨に釘付けにした赤松円心は、尊氏・高師直派に与しています。円心は直冬の東上に備えて船坂峠に兵を配置して国境を固めています。新田は東から攻めてきましたが、今度は西からの直冬を食い止める役割が赤松家に与えられたのです。しかし、円心自身はほどなくして京で急逝しています。

2009年11月7日
船坂山
(兵庫県赤穂郡)

 

(2) 鎌倉府の発足及び直冬の勢力伸長

 同年10月3日、事実上の鎌倉公方という状態であった鎌倉の義詮が上洛しました。これに伴い、足利基氏が「関東公方」として鎌倉に下向しました。ここに、上杉憲顕と高師冬の2人が「関東執事」として基氏を支える鎌倉府が正式に発足しました。義詮・基氏兄弟は、いずれも幼い頃から直義と上杉憲顕に支えられて成長しています。しかし、京の幕府と鎌倉の鎌倉府は、一致協力するどころか新たな対立軸となってしまうのです。なお、同年12月、失脚した直義が出家しています。

 翌1350年2月、九州南朝勢と協調し、さらに支持者を増やした直冬は、大宰府の一色範氏の攻撃の準備を進めます。同月27日、北朝は「観応」に改元しますが、直冬はこれを無視して「貞和」年号を使用し続けました。「天に二日なし」とは言いますが、この結果、九州には北朝の「観応」と「貞和」に加え、九州南朝の「正平」という3つの年号が併存する異常事態となりました。

 同年5月、奥州管領の吉良貞家が、糠部の南部家と雫石の北畠顕信を攻めるため軍勢を北上させています。

直冬の勢力挽回が安芸にも波及しました。直冬と結んだ石見の三隅兼連らが芸備地方に南下してきたのです。かねてより、吉田荘の相続をめぐって親衡と元春の間に紛争の火種が残っておりましたが、親衡は兼連に呼応して吉田荘で挙兵したのです。他方、息子で高師泰麾下の元春は尊氏派に留まっております。天皇派と尊氏派の対立に対応して分裂した毛利家は、尊氏派と直義派の対立に対応して再び分裂することになったのです。同年6月2日、尊氏派の安芸守護・武田氏信が吉田荘の毛利親衡を攻め、親衡が支配していた吉田荘麻原郷を謀反人の所領として没収し、代官を派遣しました。これにより、毛利家は所領の半分を失うことになったのです。

 同月21日、尊氏派の高師泰が直冬討伐軍の先鋒として京を出陣しました。師泰麾下の毛利元春も芸備方面に進出しています。師泰は、直冬の支援により石見を支配していた三隅兼連や佐波顕連らを討つため石見に入っています。翌7月、高師泰は武田氏信に対して、元春に吉田荘を返還するよう強引に要求しました。かつて、源義宗は中央の平氏を後ろ盾として千葉常胤から相馬御厨を強引に奪いました。毛利元春も、師泰に対して自分に不利な重要な事実を伏せつつ吉田荘の返還を依頼したようです。同月27日、高師泰勢は、江ノ川で佐波顕連の軍勢と対峙しました。この時、毛利元春は先陣を駆けて渡河する功をあげて師泰の恩に報いています。同年秋頃、北朝からの降伏勧告をはねつけ続けた糠部の南部政長が死去しました。信政は既に討死しているため、所領は孫の信光に譲っています。

 
 

この頃、九州では尊氏派の一色範氏に従っていたはずの少弐頼尚が、直冬派に転じていることが確認されています。少弐家の鞍替えにより九州の浮動層が次々と直冬派に与していき、従来の一色(尊氏派)・直冬派(直義派)及び懐良親王(南朝)の勢力図が大きく塗り替えられることとなりました。九州勢の離反に直面した一色範氏は、尊氏自身の早急な九州下向を要請しています。

(3) 観応の擾乱

同年10月28日、尊氏は京を義詮に任せたうえで、高師直らとともに九州の直冬討伐のために出陣しますが、この隙に監禁されていた直義が京を逃れて、翌11月21日、自派の畠山国清の河内・石川城に入っています。その頃、関東執事の1人である上杉憲顕も息子の能憲とともに直義派として上野で挙兵しています。そして、同月23日、直義は吉野の南朝に「降伏」するとともに、「君側の奸・高師直・師泰討伐」を大義名分として挙兵するのです。これが観応の擾乱です。これまでは「高師直VS直義」、あるいは、「尊氏VS直冬」という理解も可能ですが、事ここに至っては、もはや事実上「尊氏派VS直義派」という兄弟争いと理解する方が実態に合致しているでしょう。

2009年12月5日
南朝三帝賀名生皇居之跡
(奈良県五條市)

同月29日、直義は尊氏に使者を送り、高師直・師泰兄弟の引渡しを要求しました。直義の挙兵を知った尊氏は、直冬討伐を中止して備前福岡から京に引き返します。しかし、高兄弟の日頃の横暴に対する反感から、急速に直義派が膨張していきます。たった1回の軍事的失敗によりこれまで築いてきた所領を高一族に奪われた細川顕氏も、播磨で尊氏の軍勢から離脱して讃岐に帰ってしまいました。尊氏は、一族の細川頼春・清氏に顕氏追撃を命じますが、両名とも深入りすることなく引き返しています。新田義貞を討った越前守護の斯波高経も、越前平定の恩賞への不満からか、直義派に与しています。奥州で南朝掃討戦にでていた奥州管領・吉良貞家も、直義派の挙兵を知って多賀国府に引き返しています。

観応の擾乱を受けて、細川頼春が守護を務める阿波国では、小笠原頼清を中心とする南朝勢力が一斉に蜂起しました。そこで、父・頼春に代わり頼之が阿波に派遣されて南朝勢力の鎮圧にあたることになります。後日、この時の軍功によって頼之は父の後任として阿波守護に任じられ、やがて足利義満の頃に管領に就任することになるのです。

 

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翌1351年1月、直義派の近江の六角氏頼がいち早く南朝に帰順します。既に申し上げたとおり、本ページでは近江は政界の風向きに敏感な土地柄ということになっております。それゆえ、ここでも直義派優勢と判断した氏頼が自家の存続のために身を処したという紹介の仕方になります。そして、尊氏派と直義派の対立は、近江においては愛知川を挟んで六角と京極という佐々木一族同士の抗争として現れます。

 この六角氏頼の頃に、いわゆる甲賀武士が台頭してきます。源頼朝と同時代の佐々木定綱の頃には7~8家だった甲賀武士が、氏頼の頃には20家ほどにまで増え、やがて「53家」と呼ばれるまでになるのです。なお、『忍者ハットリくん』にでてくる「けむまきくん」というキャラクターは、甲賀忍者という設定です。

その頃、尊氏は京で直義勢と戦っていますが、敗れた後に丹波から播磨へと逃れます。同年1月15日、義詮は直義勢の入京を受けて京を脱出します。山名時氏は、当初は尊氏派として戦っていましたが、六角氏頼と相前後して直義派に鞍替えして高師直を攻めています。京での尊氏の敗戦を受け、石見にあった高師泰も呼び出されて播磨で尊氏・師直と合流しています。その後、尊氏勢は播磨・光明寺城を包囲しますが、細川顕氏勢が書写坂本城を攻め、また、直冬と結んだ勢力が播磨・佐用庄まで進軍したため、これらにあたることになります。そして、湊川城の赤松範資から直義勢が摂津に向かっているとの知らせを受けて打出浜に向かいます。

 
 

同じ頃、奥州では奥州管領同士の衝突が始まっていました。同月19日、尊氏派の畠山国氏らが岩切・新田両城に立て籠り、これと直義派の吉良貞家らとの間で戦闘が始まりました。この時、白河顕朝が両城の連絡を断っています。そして、北朝の内部分裂に乗じて、南朝の北畠顕信も滴石城から南下して多賀国府奪還を目指します。翌2月12日、吉良貞家が岩切城に攻め入り、畠山高国・国氏父子を自害に追い込みました。甲州では直義派の上杉憲顕が高師冬を自害させています。上杉能憲も軍勢を率いて上洛しています。四国では、細川顕氏が四国の軍勢を率いて直義派の主力に合流しています。このように、全国各地で直義派が優位にたっていました。

同年2月17日、尊氏は摂津・打出浜で直義に大敗を喫します。しかし、直義は敗れた尊氏を手厚く迎えたとされ、両者の間に講和が成立しました。軍事的勝利の後の政治的優位のもとで、しばらくの間、幕政は直義派主導で運営されていきます。

 たった1回の軍事的敗北で基盤を高一族に奪われていた細川顕氏は、和泉・土佐守護に復しています。新田義貞を討つという大功をあげながらも恩賞に不満だった斯波高経も越前守護に任じられていますが、これは前任者の細川頼春を追い出す形での補任ですから、斯波家と細川家の関係は微妙なところです。六角氏頼の南朝帰順は、北朝内で和睦が成立したため立ち消えとなりました。

 直義は尊氏に対して直冬の鎮西探題補任を要求し、尊氏も渋々ながらこれを認めました。軍事力だけでなく、体制内に立場を認められた直冬のもとに、九州の武士たちが結集していくことになります。また、直冬は将来に備えて、以前にも増して河野通盛ら中国・四国地方の勢力に対する工作活動を活発化させていきます。石見・安芸方面は直冬派の勢いが特に強かったようです。

2008年12月7日
芦屋(兵庫県芦屋市)

 

 

九州南朝勢は直冬と協調しておりましたが、南朝としては直冬がこのまま北朝・直義派として勢力を伸長することは容認できません。そこで、今度は一色範氏と結んで直冬に対抗することになります。ただ、『三国志演義』を基調とした『Three Kingdoms』においても、呉の魯粛は死去の直前に、「呉下の阿蒙」こと呂蒙に対して、「曹操が強い時期は劉備と結んで曹操に対抗し、劉備が強い時期は曹操と結んで劉備に対抗せよ」と言い遺しています。劉備が曹操から漢中を奪った後、呉は魯粛の遺言どおりに曹操と結んで荊州に関羽を討ったのです。九州南朝勢が一色範氏と結んだことも、直冬の強大化を抑えるための一時的連携にすぎません。

同月26日、高師直・師泰兄弟は、かつて高師直によって殺害された上杉重能の遺子・能憲によって武庫川で殺害されました。師直の後任執事には仁木頼章が就任しています。また、高師泰の後任の尾張守護には土岐頼康が任じられています。長年にわたり高師泰の麾下で働いてきた毛利元春にとっては、師泰の死は大きな痛手となりました。元春は父・親衡を頼って直冬派に転じ、これ以降は直冬派として父子協力して吉田荘周辺での勢力扶植に努めることになります。しかし、十分な支援を得られた父とは異なり、元春はやがて武田家の攻撃に屈することになります。

 北朝が荒れるたびに士気が上がるのが南朝です。吉野の北畠親房は、観応の擾乱を踏まえて北畠顕信らに多賀国府奪取を命じました。顕信は滴石城から南下して多賀国府を目指し、同年3月から吉良貞家の弟・貞経と山形付近で戦闘になっています。

 
 

同年4月8日、赤松範資が死去しました。尊氏は、範資の息子の光範には円心の七条邸のほか摂津守護のみ与え(赤松七条流)、則祐に惣領職と播磨守護を与えました(二条西洞院)。後年、この赤松家の二条西洞院屋敷で、これ以上ない下克上が起きることになります。

(4) 直義の死

同年7月、今度は直義と義詮の対立が激しくなり、諸将らも領国に戻って合戦の準備を始めました。この頃、細川顕氏は直義派から尊氏派に転じたと思われます。同月末、尊氏は近江に下って直義攻撃の準備を進めます。義詮も東寺に張陣しています。尊氏らの戦闘準備を知った直義は、上杉能憲らとともに京を脱出し、越前経由で上杉憲顕がいる鎌倉に逃れます。翌8月、尊氏は吉野の南朝に「降伏」の使者を派遣しています。尊氏・直義兄弟は、ともに南朝と戦っていたはずですが、兄弟対立の末に2人とも南朝に「降伏」を申し出たことになります。

 九州では、直義の京脱出により直冬の鎮西探題の地位は有名無実となり、これ以降、直冬は一色範氏・懐良親王連合軍との戦闘に明け暮れることになります。九州南朝勢は一色範氏と連携して直冬方の大宰府の挟撃を目指し、同月8日、直冬は白木原で初めて九州南朝勢と戦っています。 同月18日、尊氏は直義追討の宣旨を賜り、近江で直義派との戦闘が始まりました。同じ頃、播磨でも赤松則祐が転戦しています。甲斐では武田本家が南北朝の動乱のなかで一時的に南朝系の当主に権力を奪われていましたが、この頃までに武田信武が甲斐守護に任じられて権力を回復しています。

 
 

同年10月24日、尊氏の南朝への「降伏」が認められ、「正平」年号に統一されました(正平の一統)。尊氏の降伏によって北朝の崇光天皇が廃され、また、南朝の後村上天皇からあらためて直義追討の綸旨を賜っていますが、あくまでも直義派との戦いに資源を集中したり、京の義詮を守るための便法にすぎず、北朝が南朝に吸収合併されて消滅するという事態は想定していなかったと思われます。なお、鎌倉府は尊氏の「降伏」によってもなお「観応」年号を使用し続けています。

その頃、吉野の北畠親房は、北朝の内部対立に乗じて京・鎌倉・奥州及び大宰府の一斉占領を目指して各地の南朝勢力に挙兵を命じています。奥州では、北畠顕信の嫡男の守親ら宇津峯の南朝勢が、出羽から南下する顕信勢と連携して北上し、広瀬川で吉良貞家らを破っています。翌11月、顕信は多賀国府に入りました。顕信は兄・顕家の討死の後に鎮守府将軍に任じられてから任地に入るまでに13年かかったことになります。

 

なお、尊氏は「降伏」にあたり、「南朝が武力を発動する場合は尊氏側と協議する」という条項を盛り込んでいましたから、この頃の南朝の軍事行動は「降伏」の際の条件に違反するものです。しかし、南朝側が降伏条件に縛られて座して死を待つよりも、政治力の裏付けとなる実力を短期間のうちに拡大する必要性を認識していたとすれば、この降伏条件は破られるべくして破られたといえましょう。今日においても、武力の発動には事前の協議が必要だったり、多国間の枠組みのもとでしか武力を発動できない国があります。それらは、自国のためにのみ武力を発動することが封じられていると理解できます。

同年11月4日、尊氏は直義を討つために京を出陣して東海道を急ぎます。「降伏」条件など南北朝抗争のもとでは所詮「紙屑」にすぎないわけですから、南朝の勢力を伸長させないうちに直義を討たなければなりません。九州落ちに続き、今回も時間との勝負となりました。同月15日、直義が一足先に鎌倉に入り、執事・上杉憲顕に迎えられています。同月末、駿河・手越宿に着いた尊氏は、ここで小山氏政、宇都宮氏綱、佐竹貞義、白河顕朝らに軍勢催促の使者を派遣しています。そして、薩埵峠に張陣して宇都宮・小山らの後詰を待つことになります。直義も鎌倉を出陣して伊豆国府(三島市)に張陣しています。

 同年12月27日、宇都宮勢が箱根・竹ノ下に着きました。小山勢も国府津に着いています。この時、尊氏派のかがり火によっておびただしい数の軍勢に見えたのか、直義の軍勢から逃亡者が相次いだと伝わります。翌日にかけて戦われた駿河・薩埵峠の戦いは尊氏派の大勝利に終わりました。この戦いでは、今川範国が目覚ましい活躍をして、尊氏から「一人当千」と称賛されたと伝わります。また、河越直重や宇都宮氏綱も尊氏から軍功を認められています。

 
 

年末頃、尊氏は直義に与した上杉憲顕の所領を没収し、上野・越後の守護職も取り上げています。憲顕に代わって守護に任じられたのは、薩埵峠での軍功を認められた下野の宇都宮氏綱でした。氏綱は、芳賀禅可を上野・越後守護代に任じています。宇都宮家には、尊氏の「新田義貞討伐」の戦いの際に天皇派に与した公綱が、尊氏の入京を受けて尊氏派に降伏し、さらに北畠顕家の軍勢によって尊氏が九州に追われたら天皇派に復した過去があります。薩埵峠での軍功によって一時的に家運が上向きましたが、戦国期になると新興の北条と上杉の狭間で公綱のような身の処し方を続けることになります。

翌1352年1月2日、尊氏は相模国早河尻で直義勢を破り、この時に直義は尊氏に降伏しました。同月6日、尊氏は直義とともに鎌倉に入ります。この戦いの前、南関東は直義の勢力圏、上野・越後も直義派の上杉憲顕の勢力圏という状況でした。しかし、尊氏は関東の直義派の守護たちを一斉に自派の人物に交代させたのです。ただ、この東国人事が、後の動乱の原因となります。なお、この頃、上野・越後守護を剥奪された上杉憲顕が信州で挙兵しています。もちろん、吉野の北畠親房も全国の南朝勢力に檄を飛ばしています。

 同年2月26日、尊氏は高師直の一周忌の日に、鎌倉で直義を殺害しました。直義としては、尊氏の降伏を認めた経緯から自分も赦してもらえるという気持ちもあったかもしれませんが、尊氏は弟を赦しませんでした。直義の死により、養子の直冬が旧直義派の盟主の座を引継ぐことになります。しかし、後ろ盾を失った直冬を取り巻く状況は急激に悪化し、一色・懐良親王連合軍によって徐々に追い詰められていくことになります。

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(5) 再び北朝優位に

直義を除くことには成功した尊氏でしたが、既に南朝の北畠顕信が多賀国府を出陣して鎌倉を目指していました。また、同年閏2月には、新田義興・義宗・脇屋義治らも上野で挙兵しています。越後に潜んでいた上杉憲顕の軍勢もこれに参加しています。さらに、宗良親王と親王に従う北条時行らも武蔵国で新田勢に合流しました。新田勢は小手指原で尊氏の軍勢と合戦になり、旧直義派の石塔義房らの寝返りなどによって新田勢が勝利を収めました。新田勢は鎌倉に攻め入り、鎌倉を一時的に占拠しましたが、その後は態勢を立て直した北朝勢に敗れ続けています。

その頃、畿内では南朝の後村上天皇が天王寺に赴き、北畠顕能・楠木正儀らが京を急襲しています。南朝としては、1336年以来の京回復です。この時、細川頼春が四条大宮で討死しています。息子の頼之は、父の弔い合戦を期して阿波の軍勢を率いて京に攻めのぼっています。義詮は近江に逃れていますが、何者かに攻められた際、京の要人が近江に逃れるというパターンは、室町時代を通じてこれから何度も出てきます。

 
 

南朝による京回復は長くは続かず、同年3月、北朝の赤松則祐が京を回復しています。北朝は細川顕氏が主将として後村上天皇の行在所や男山を攻めており、細川頼之もこれに加わっています。ただ、南朝が京を脱出する際、北朝方の光厳・光明・崇光三上皇らが三種の神器とともに連れ去られてしまい、北朝の再興が困難となっています。同じ頃、鎌倉では尊氏が新田義興から鎌倉を奪い返しています。

 尊氏の鎌倉奪還の際、蘆名直盛が会津に逃れた可能性が指摘されています。当時の会津の支配者である奥州管領・吉良貞家も旧直義派ということもあり、直盛の会津下向後に会津蘆名氏の勢力伸長が目立ってくるという分析もあります。吉良貞家は、北畠顕信が鎌倉を目指している隙をついて守親が守る多賀国府を奪い返しています。顕信・守親父子は、宇津峯城に籠城することになりました。

同年5月11日、北朝の細川顕氏らの軍勢が男山の占領に成功しました。南朝勢は再び賀名生へ逃れています。尊氏の形ばかりの「降伏」によって一時的に南朝が息を吹き返したように見えましたが、直義の殺害によって南朝は再び吉野の奥地に追いやられることになったのです。なお、顕氏はこの年の7月5日に死去しています。その頃、安芸では父・親衡を頼って直冬派に与していた毛利元春が武田氏信の軍勢に降伏し、吉田城も破却されています。元春の雌伏が始まりました。

 
 

同年8月17日、北朝は三種の神器も三上皇も奪われた状況下で、継体天皇の例によって後光厳の擁立にこぎつけました。三種の神器の代わりに唐櫃を使用しています。同年9月27日、北朝は「文和」に改元しましたが、九州の直冬は「観応」を使用し続けています。直冬は少弐頼尚ら九州の与党を結集して一色氏冬らとの大宰府攻防戦を戦っていました。しかし、追い詰められた直冬は九州を脱出し、長門の豊田種藤の豊田城に逃れることになります。そして、年末頃に直義・尊氏に続いて直冬も尊氏・義詮に対抗するために南朝に「降伏」したのです。直冬は、翌年5月頃から南朝の「正平」年号を使用し始めており、中国地方で工作活動を続けて勢力拡大を目指しています。なお、この年に大内弘世が周防を統一しています。

翌1353年2月2日、少弐・菊池連合軍が、一色勢を針摺原で破り、一色範氏を筑前から肥前に追いやっています。奥州では、同年5月上旬、南朝の宇津峯城が落城し、北畠顕信らは出羽に逃れました。これにより、奥州の南朝勢はほぼ壊滅したことになります。顕信は1362年頃までは南部家との連絡の痕跡などから出羽・津軽方面に潜伏していたと思われますが、その後の消息は不明です。

 
 

この頃、尊氏が鎌倉の基礎固めのため留守にしていた京では、配下の対立が激しくなっていました。所領問題を原因として山名時氏と京極道誉の対立が高まり、時氏は嫡子・師義らとともに出雲で尊氏に反旗を翻して南朝に帰順してしまいました。山名家は山陰の直冬派らと連携して勢力圏を拡大していきます。同年5月、時氏は楠木正儀らとともに、京極道誉討伐のため京を攻めます。義詮は後光厳を奉じて美濃国垂井に逃れ、土岐頼康がこれを迎えています。この時、細川清氏が近江で鎧を着たまま後光厳を背負って山越えをしたという話も伝わります。同年12月、山名時氏は直冬を大将として伯耆を出陣し、今度は播磨の赤松を攻めています。

同年7月10日、義詮は京奪還のため美濃を出陣します。同月24日、山名時氏らは京から撤退し、義詮は京を回復しました。同月29日、鎌倉の尊氏も関東の安定を見極めたうえで上洛します。1195年の源頼朝の上洛を意識して、下総の結城直光を先陣として東海道を西上しています。尊氏が上洛した後の関東は、息子の基氏を武蔵入間川におくとともに、畠山国清を執事としてつけて上野・越後の新田勢に備えさせています。同月9月23日、後光厳も美濃から京に戻りました。

 翌1354年4月17日、小田城で『神皇正統記』を執筆し、吉野に戻ってからも盛んに全国の南朝勢力に号令をかけ続けていた北畠親房が賀名生で死去しました。親房の南朝正統論は、南北朝正閏問題という形で後世の日本人に大いに影響を与えることになります。

2009年12月5日
北畠親房公之墳墓
(奈良県五條市)