南北朝期2 ~北朝の勝利宣言~

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35 北朝の勝利宣言

2009年3月11日
多賀国府跡
(宮城県)

(1) 南朝2枚看板の死

南朝の後醍醐天皇は、1336年12月25日付で、多賀国府の北畠顕家に宛てて宸筆で速やかに京を回復するよう書き送っています。顕家のもとには、越前や伊勢からも救援要請が届いていました。しかし、翌1337年1月、北朝方に転じた留守一族が顕家を多賀国府から霊山城に追い落としてしまいました。中央政界の北朝優位に伴い、奥州における顕家の優位も失われています。同年2月、顕家に代わって、北朝の奥州総大将として石塔義房が多賀国府に入り、奥州支配体制を固め始めています。同年3月6日、越前では新田義貞の金崎城も落城し、義貞は杣山城に逃れましたが、尊良・恒良両親王は命を落としています。

南朝方の退潮が進む状況下において、同年8月11日、北畠顕家は2度目の遠征のため霊山城を出陣しました。再度の出陣にあたり、南部師行は根城を発つ直前に政長・信政父子に対して悲痛な遺言を残しています。同月19日、白河の関を越えた顕家は、宇都宮城に入った後、小山朝郷の小山城を攻略しますが、南朝に与してきた白河の結城宗広の懇願によって朝郷を赦しています。また、常陸の小田勢と協力して北朝方を破っています。

2009年3月9日
雲水峰清水
(福島県)

 

同年12月13日、義詮と斯波家長は利根川を挟んで顕家勢を迎撃するも敗れています。この頃、宇都宮家配下の紀清両党と呼ばれる軍勢も顕家勢に編入されています。同月24日、顕家勢は鎌倉に攻め入り、義詮は三浦半島に逃れますが、斯波家長は杉本観音寺城で自害しました。

鎌倉で越年した顕家は、翌1338年1月2日、鎌倉を発ち東海道を西に向かいます。途中、井伊道政の兵に守られた宗良親王が橋本で顕家と対面しています。井伊直弼の井伊家は、彦根というイメージの方が強いかもしれませんが、元々は遠江の家です。

2010年3月3日
井伊谷付近
(静岡県)

2009年10月31日
島津隊ゆかりの道
(岐阜県)

同月28日、顕家勢は青野原(大垣市)で北朝の高師冬と土岐頼遠の軍勢を破ります。同月4日、高師泰・京極道誉勢も顕家勢を迎撃するために京を発つのですが、顕家勢はこの後、伊勢路に進路を変えています。後年、島津義弘はこの時に顕家が辿ったルートで関ヶ原から堺に撤退しています。

2009年10月4日
田丸城址
(三重県)

顕家は弟・顕信が守る田丸城に入った後、伊賀・笠置・柳生などを経て奈良に入ります。この間、連日のように北朝方と戦闘を続けており、苦しい行軍が続いています。そして、同月28日、ついに般若坂(奈良市)の合戦で桃井直常・直信兄弟に敗れ、顕家勢は四散します。結城宗広も、般若坂の合戦後、義良親王とともに吉野に逃れています。

奈良で敗れた顕家はその後に河内方面に現れ、翌3月8日、天王寺合戦で北朝の細川顕氏らの軍勢を破ります。また、弟の顕信も吉野から石清水八幡まで進出してきました。北畠兄弟が京に迫ったことを受け、足利直義も東寺に出陣しています。天王寺の顕家と男山の顕信の奮戦はありましたが、九州・四国から北朝の軍勢が集まってくるにつれて南朝は次第に劣勢になっていきます。

 

2009年2月23日
紫式部公園
(福井県越前市)

この頃、越前で斯波高経と戦っていた新田義貞は一時的に勢力を回復し、高経を居城の黒丸城から追い、越前国府を奪っています。

同年5月6日、顕家は堺を攻めますが、兵の消耗は大きくなっておりました。同月15日、状況が悪化していくなかで、顕家は吉野の後醍醐天皇に宛てて上奏文を書き送り、政治刷新を訴えています。そして、同月22日、顕家はついに高師直・師泰・細川顕氏らの軍勢との戦いで討死しました。この時、顕家に従っていた南部師行を含む南部家の従者も全滅し、師行の弟の政長が根城の南部家を継ぐことになりました。従兄弟との土地紛争を解決するために討幕軍に参加した南部家でしたが、鎌倉攻めを通じて新田家との結びつきを強めたことが南北朝期の不幸につながってしまいました。顕家は討死しましたが、奥州にはまだ南部・葛西・伊達らが残っています。

2009年12月25日
北畠顕家・南部師行供養塔
(大阪府堺市 石津川)

2009年2月22日
燈明寺畷
(福井県)

同年閏7月2日、越前では新田義貞が藤島城攻めの加勢に向かう途中、灯明寺畷で流れ矢にあたって討死しました。弟の脇屋義助も越前から退却し、越前のほぼ全域が北朝の斯波高経の勢力圏となりました。この頃、北畠顕家の討死を受けて、弟の顕信が鎮守府将軍に任じられており、また、結城宗広は後醍醐天皇に奥州再建策を奏上していますが、南朝は2枚看板を失い、もはや大勢は決したと言って良いでしょう。

同年8月11日、尊氏は征夷大将軍に任じられ、直義も左兵衛督に任じられました。源頼朝のケースと同様に論じるのであれば、これで名実ともに室町幕府が成立したということになるはずです。しかし、尊氏の時代は、頼朝の頃よりもはるかに多くの抗争が生じており、直ちに「安定」というイメージを抱くのは誤りといえましょう。この時点では頼朝が甲斐源氏らを粛正したような有力家臣の力を削ぐ動きも見られません。力を削ぐくらいなら、敵にぶつける方が得策でしょう。

 南朝勢力の退潮により「北朝VS南朝」という対立軸は後退しましたが、それに代わって、北朝内部において尊氏・直義兄弟による二頭政治の弊害が顕在化し、北朝内部の「尊氏派VS直義派」という対立軸において、苦しくなった側が南朝に「降伏」することによって北朝内部における権力闘争に勝とうとするようになります。青息吐息だったはずの南朝は、北朝の内部対立が激化するたびに一時的に息を吹き返し、その結果、南北朝の抗争が長引くことになりました。

 

2009年10月4日
伊勢・大湊
(三重県伊勢市)

(2) 南朝の奥州再建策

同年9月上旬、北畠顕信は、奥州南朝軍の再建のために伊勢大湊から船出します。しかし、同月中旬、遠州灘で台風に遭遇してしまいます。常陸に漂着した北畠親房や伊達行朝らは小田治久の小田城に入ります。以後、小田城が常陸における南北朝の抗争の主戦場となるとともに、親房はこの地で『神皇正統記』の執筆にとりかかるのです。翌年2月には、春日顕国も救援のために吉野から小田城に入っています。同じ頃、顕信も大掾高幹の援助により府中城(石岡市)に入り、その後、小田城で父・親房と作戦を練ったうえで奥州に下向しています。

このほか、宗良親王や北条時行らは遠江白羽湊に漂着し、新田義興らは武蔵国石浜(東京都台東区)に漂着し、その余は伊勢に吹き戻されました。

2010年7月6日
旧岩崎邸
(東京都台東区)

2009年10月4日
阿漕浦
(三重県津市)

伊勢に吹き戻された結城宗広は、ほどなくして病死しています。結城宗広は、建武の新政の時期に後醍醐天皇から厚遇されたことによって、白河の結城家の所領を大幅に拡大させることに成功しました。しかし、嫡男・親朝は、いまだに去就を明らかにしておりません。小田城に入った北畠親房は、親朝に対して5年間にわたり協力要請をし続けることになります。関東と奥州の南朝勢を連携させるためには、国境に位置する白河の協力が必要だったのです。

 1339年3月、津軽で戦闘が再開され、南朝の南部政長が大光寺城に曾我光高を攻めています。足利直義は、政長にたびたび降伏を勧告しているのですが、政長はこれらをすべてはねつけています。また、南朝の安藤四郎も、北朝の安藤師季や曾我勢とたびたび交戦しています。

同年8月16日、南朝の後醍醐天皇が崩御しました。これに伴い、台風に吹き戻されて以来、吉野に戻っていた義良親王が即位しました。後村上天皇です。

 
 

翌1340年4月、脇屋義助が勅命により伊予に赴いて南朝方の勢力挽回に努めています。同月28日、南朝の後村上天皇は、常陸における南朝方の苦戦を踏まえ、南朝の再興を期して年号を「延元」から「興国」に改めています。しかし、翌5月に脇屋義助が急死し、その後に細川頼春が伊予に攻め入って来ます。これ以降、四国支配を強めようとする細川頼春と伊予の河野家の抗争が続くことになります。

同年6月頃、小田城を発った北畠昭信は、宇津峰城に入ります。そして、翌7月には葛西一族の居城である日和山城に入り、多賀国府奪還を目指します。この間、足利直義は南部政長に対して2度目の降伏勧告を行っていますが、政長はこれも一蹴したうえで、日和山城の顕信との連携を見据えています。

2009年3月9日
宇津峰城址
(福島県須賀川市)

 

同年秋頃には、北朝の高師冬が常陸の瓜連城に入っています。小田城攻撃のためとも、奥州に入った顕信に備えるためともいわれます。このような状況下で、白河の戦略的重要性が高まってきていたのですが、白河親朝はなお去就を明らかにしないのです。小田城の北畠親房の苛立ちが当時の書状の文面にも表れているようです。

 なお、この年に後に初代・鎌倉公方に就任する足利基氏が生まれています。尊氏と直義の二頭政治は観応の擾乱が直義の殺害によって幕を閉じることによって一応解消されますが、直義亡き後も北朝の支配体制は京の将軍と鎌倉の公方という二元的状況が続きます。やがて、鎌倉公方も南朝勢力と連携して京の将軍に対抗しようとするようになります。

翌1341年春、北畠顕信は南部政長に軍勢の南下を命じます。石巻の葛西一族も北進させることによって、多賀国府以北の北朝勢力を挟撃しようとしたのです。このような情勢のもとで、和賀家では一族が南北に分裂しています。他方、北朝の石塔義房は、安藤・曾我らに南部政長の根城を攻撃させています。南部政長は挟撃作戦を諦めて糠部に兵を退きました。

 同じ頃、新田義宗らも越後で南朝勢力の挽回のため軍を動かしています。常陸では瓜連城の高師冬が小田城に迫っています。また、この頃に下野の小山一族を中心として北畠親房に対する批判的な動きが高まっており(藤氏一揆)、南朝の士気を低下させる要因となっています。

 
 

同年秋頃、北畠顕信は津久毛城を築くとともに、前九年の役の終盤に源頼義が清原武則の軍勢と合流した営岡八幡宮あたりにも砦を築いて多賀国府攻撃の準備を進めます。これに対して、北朝の石塔義房も北上して顕信勢と対峙します。両軍が睨み合ったまま容易に動かず、やがて雪が降り始めたこともあり、そのまま越年することになりました。

その頃、常陸では高師冬が藤氏一揆による南朝方の動揺を衝いて小田城周辺の支城を攻略しています。そして、同年11月、兵糧攻めによってついに小田城は落城しました。北畠親房は関城に、春日顕国は大宝城に逃れましたが、小田治久は佐竹義篤の勧めを受け入れて北朝に降伏しました。この時、小田家の所領の多くが没収され、後に佐竹家に与えられることになります。

 鎌倉幕府のもとでは、佐竹家は源頼朝から討伐の対象とされ、その後も相対的に低い立場に甘んじてきた反面、頼朝に重用された八田知家の小田家は幕府において重きをなしてきました。しかし、討幕以来、佐竹貞義が足利家との結びつきを強めた結果、ここにきて両者の力関係が逆転するに至ったのです。伊佐城には伊達行朝もおりましたが、いよいよ常陸の南朝勢力は追い詰められてきました。同年12月上旬、高師冬は、降伏したばかりの小田治久を最前線に配置して、関城その他周辺の南朝勢力を攻撃しています。

 

2009年2月27日
春日山城址から
(新潟県上越市)

尊氏はこの年、越後の南朝勢力を討伐するために、上杉憲顕を越後守護に任じています。この時、長尾景忠が越後守護代に就任しています。上杉家と越後の結びつきが具体的なものになったのはこの時だと理解されています。

その頃、伊予の道後湯築城でも、南北両軍の激戦が続いております。

2009年2月17日
道後湯築城址から
(愛媛県松山市)

2009年2月4日
東福寺城址からの桜島
(鹿児島県鹿児島市)

2009年2月4日
東福寺城址
(鹿児島県鹿児島市)

島津貞久は、この年に南朝の肝付兼重らが籠る東福寺城を攻略しています。家督を継いだ氏久が東福寺城を居城として以降、鹿児島が島津家の拠点となりました。

翌1342年5月、懐良親王が薩摩に上陸しています。親王はやがて肥後の菊池家を頼り、九州において南朝勢力の挽回に努めることになります。

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2009年3月9日
宇津峰城址
(2009年3月9日)

同年9月、奥州で動きがありました。三迫合戦で北朝の石塔義房が南朝の北畠顕信を激闘の末に破ったのです。敗れた顕信は宇津峯城に逃れました。翌10月8日には津久毛城も落城し、出羽方面に逃れた顕信はしばらくの間、消息不明となりました。

同じ頃、京では土岐頼遠がお酒で失敗をしています。二階堂行春と酒を飲んで帰る途中、光厳上皇の行列に遭遇しましたが、下馬しないどころか、上皇の牛車を取り囲んで矢を射かけるという暴挙に及んでしまったのです。

 同年12月1日、鎌倉では義詮が元服しています。義詮は引続き上杉憲顕らの補佐を受けて「鎌倉殿」と呼ばれており、この義詮をもって実質的な初代・鎌倉公方と理解することも可能です。他方、京ではこの頃に土岐頼遠が六条河原で処刑されています。土岐家の家督は頼康が継ぐことになりました。

 
 

同月23日、尊氏の母・清子が死去しました。この年、尊氏は丹波安国寺に寺領を寄進しており、同寺は歴代将軍の保護を受けています。

翌1343年2月、尊氏は白河親朝に勧降状を書き送りました。「北朝に帰参すれば建武2年以前の所領を認める」という内容で、建武期に父・宗広とともに拡大した既得権を認める趣旨と理解できます。小田城の北畠親房からの救援要請を断り続けてきた親朝にとっては、南朝の正統性よりも白河結城家の既得権の方が重要だったのかもしれません。親朝はほどなくして北朝に帰参することになるのです。

2009年3月9日
白河関・古関蹟の碑
(福島県白河市)

2009年3月13日
関城址
(茨城県筑西市)

他方、下総の結城直朝は、同年3月、北畠親房の籠る関城を攻めた際に討死し、息子がいなかったために弟の直光が下総結城家の家督を継ぐことになりました。

同年8月、長らく去就を明らかにしてこなかった白河親朝が、ついに北朝に与して挙兵しました。同年11月11日、関城は落城し、北畠親房は吉野に逃れました。また、大宝城も落城し、春日顕国は討死しています。ここに、常陸を舞台とした南北朝の抗争は、北朝の勝利で幕を閉じたのです。伊達宗遠も既に北朝に降伏していると思われますから、この時点での奥州の主要な南朝勢力は、宇津峯、霊山、出羽に逃れて消息不明の北畠顕信及び糠部の南部家のみとなっています。

 常陸の抗争が決着したことを受け、高師冬は鎌倉に戻って義詮のもとで上杉憲顕とともに関東執事としての政務に復帰しています。しかし、既に述べたとおり、南北という対立軸の後退に伴い、今度は北朝内部において尊氏派と直義派という対立軸が鮮明になっていきます。そして、鎌倉府で義詮を支える2人の関東執事も、尊氏派の高師冬と直義派の上杉憲顕に割れることになります。なお、越後守護代の長尾景忠の軍勢が、この頃に出羽南朝方を破っています。翌1344年8月、出羽の北畠顕信が藤島城で再び挙兵しますが、秋頃には北朝に城を奪われています。

 
 

1345年2月6日、光厳上皇の院宣が下り、元弘の変以来の戦没者の菩提を弔うため、各国に一寺一塔を建立することになりました。「一寺」とは安国寺、「一塔」とは利生塔のことです。

さらに、同年8月29日、京で天龍寺供養が行われ、全国から北朝の諸将が集まりました。表向きは「後醍醐天皇の菩提を弔うため」ということになっていますが、むしろ、足利の天下を政治的に印象づける意味合いがありました。しかし、次なる問題は「どちらの足利なのか?」です。既に高師直と直義の対立が始まっています。そして、新たに発足した奥州管領には師直派の畠山国氏と直義派の吉良貞家が任命されています。鎌倉府の関東執事の2人も両派に割れることになります。足利家の兄弟対立が、我が国全体を二分することになるのです。

 
 

天龍寺供養の際、新田一族から興った山名家の時氏が先駆を務めています。この山名家は、後に乱世のなかで中国地方を中心として実力で所領を拡大していき、やがて白河親朝のように既得権の保証を得たうえで北朝に帰順することになります。ただ、その実力の大きさが幕府権力から狙われる原因ともなりました。

なお、この頃、足利直冬が尊氏と面会するために上洛していますが、尊氏に面会を拒否されています。やむなく、直冬は京で勉学に励みながら暮らすのですが、やがて人物を認められて直義の養子となりました。このような経緯から、直義の浮沈が直冬のそれに連動することになります。

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