南北朝期14 ~戦国時代の幕開け~

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48 戦国時代の幕開け

 

(1) 厭戦

翌1472年1月、東西両軍で和平交渉が行われているという風説が流れ、翌2月には、赤松政則1人が反対しているせいで和議が整わないという一層うがった風説まで流れています。庶民の間にも厭戦気分が高まっていたのかもしれません。政治の乱れが人心の乱れにつながったという理解も可能でしょう。この年の春、関東では古河公方・成氏が古河に戻り、五十子の上杉勢との対決姿勢を強めています。

同年5月、大内政弘は一条兼良に対して、大内義弘の像に付する賛を求めています。「自画自賛」の「賛」です。大内家は戦争ばかりしていたのではなく、政弘の頃にも中央の文化の吸収に努めており、そのような努力が後の山口の繁栄につながっていきます。翌6月、細川勝元は毛利豊元の弟・元家に対して、兄のすべての所領を与えると約束して一族被官を連れて東軍に寝返るよう誘いましたが、元家はこの誘いには乗っておりません。西軍に寝返った豊元を孤立させようとしたのでしょうか。

 
 

同年8月、山名宗全が今度は本当に隠居して、嫡孫・政豊に家督を譲っています。宗全は既に体調を崩しており、重い中風の可能性が指摘されています。しかし、兄・是豊も備後守護を手放すつもりはなく、同国では明徳の乱の氏清と同様、兄弟の争いが激化することになります。同月6日、越前では朝倉孝景が越前府中を攻略しています。孝景による越前府中制圧は、京の西軍にとっては糧道が断たれたことを意味し、これ以降、西軍は物資の調達に苦しむことになります。なお、東国と西国の狭間の交通の要衝である隣国の近江は、この頃までに西軍によって制圧されており、幕府の危機感が感じられます。

同年10月、三条西実隆の母が死去しました。実隆は母のために一原野にささやかな墓を建てています。実隆は二尊院の父・公保の墓以上に母の墓参りをしており、命日には生涯仏事を営んで追慕の情を捧げたと伝わります。

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(2) 相次ぐ要人の死

翌1473年は要人が相次いで死去した年になりました。まず、同年3月18日に山名宗全が西陣の邸内で死去しました。この頃から、南朝皇胤・小倉宮の動静が史料に現れなくなります。南朝皇胤のその後の足どりが不明だからこそ、「末裔」を自称することも可能となります。翌4月、東西両軍の間で和睦交渉が始まりました。同月23日、義視は一条兼良に書状を書き送り、和平後の身の処し方を相談しています。翌5月11日、今度は細川勝元が東陣の邸内で死去しました。一条兼良の息子・大乗院尋尊は、この日の日記としてただ一言、「神罰也」と記述しています。

翌6月23日、山内上杉家の家宰・長尾景信が死去しました。景信の死去により、連歌師・宗祇は東国における庇護者を失い、活動拠点を京に移すことになります。同月25日、一条兼良は大乗院門跡で出家し、法号は「覚恵」としています。この年秋頃、鞍馬寺に疎開していた三条西実隆が洛中に戻った可能性が指摘されています。実隆は父・公保の頃の屋敷跡地に粗末な小屋を建てて住み始めています。

 同年9月、幕府は京極政高を近江守護に任じて、前年に西軍によって制圧された近江の奪還を命じています。この頃から芸備では沼田小早川敬平(東軍 惣領家)の本拠地・高山城攻防戦が東西両軍の主戦場になっています。高山城攻めの中心勢力は大内家麾下の竹原小早川弘景(有力庶家)で、毛利豊元(西軍)も竹原小早川家に加勢しています。翌10月8日、連歌師・宗祇が大和の一条兼良を訪問しています。同月、摂津でも大内勢が細川領内に放火し、山名政豊も大内勢に加勢しています。東軍も信濃の小笠原家長・木曽家豊らを美濃に侵攻させるとともに、大和の筒井順永も畠山政長を援けて河内に出陣しています。

 
 

翌11月、扇谷上杉政真が五十子で陣没しました。定正が扇谷上杉家を継いでいます。

同月24日、今川義忠(東軍・上杉派)が遠江・懸革荘の代官職に任じられました。義忠としては、応仁の乱に乗じて遠江に勢力を伸長したかったようですが、東軍の斯波義良が遠江守護に任じられたためにそれが難しくなっていました。しかし、義忠は同じ東軍陣営に属している斯波義良の所領を侵略することになります。同年12月、将軍・義政は、嫡子・義尚(9歳)に将軍職を譲りました。この年、伊勢貞親も隠遁先の若狭で死去しています。

2010年3月3日
掛川城(静岡県掛川市)

 

翌1474年1月、後土御門天皇が室町第で新年を迎えています。しかし、四方拝などの年頭儀式は行われず、摂関の出仕もなく、将軍・義尚のほか三条西実隆らが参集して簡素な宴が催されるにとどまっています。とはいえ、久しぶりに和やかな正月となりました。この頃になると、全国的に見ても合戦の数がかなり減ってきています。

同年5月16日、越前では朝倉孝景によって加賀に追い落とされていた甲斐勢が再び加賀から一乗谷付近に迫っています。しかし、翌閏5月15日、一乗谷付近で朝倉勢が大勝しています。この勝利により、越前中央部における朝倉家の支配が確定的となりました。同年7月、既に東西両軍の和睦交渉が始まっていましたが、和議に加わっていない大内政弘・畠山義就・土岐成頼らは引続き東軍を攻撃しています。とはいえ、これらの面々も水面下では和睦交渉を継続しています。

2009年2月23日
一乗谷朝倉氏遺跡
(福井県福井市)

2010年3月3日
中田島砂丘
(静岡県浜松市)

同年8月、両軍の和睦交渉が続けられるなか、遠江では今川義忠が同じ東軍の遠江守護・斯波義良の所領の侵略を開始しています。翌9月、大内政弘が幕府に帰順を申入れました。この頃、大内家以外にも本拠地の不安を理由に帰国の動きを見せる者があり、京はかなり穏やかな雰囲気になってきています。三条西実隆は、この年から日記を書き残しています。

 同年11月、今川義忠が斯波義良の守護代・狩野宮内少輔を攻め滅ぼしています。

(3) 朝儀復活の兆し

翌1475年元旦、応仁の乱の勃発以来、初めて室町第の行在で四方拝と平座の儀が行われています。同月末には、久しぶりに懸召除目(あがためしのじもく)も行われ、三条西実隆は蔵人頭に昇進しています。翌2月、実隆は和歌を学ぶために飛鳥井栄雅の門人になっています。人は平和が保たれてはじめて学問にうち込むことができます。中国でも孔子や孫子は、春秋戦国時代にあって比較的戦乱が収まっていた時期に青年時代を過ごしています。

 
 

同年4月23日、芸備では高山城の沼田小早川家(東軍)が、山名是豊(東軍)に無断で講和を結んでしまいました。是豊は軍勢を率いて備後に入り、自ら山内首藤家の甲山城を攻めています。是豊の備後入りにより、大内家麾下の毛利豊元はかつての上司と戦うことになりました。山名勢との戦いを通じて攻略した土地は、山名政豊(西軍)から毛利家永代の地として与えられています。翌5月、大和では興福寺衆徒が東西に割れて戦端を開いています。

 同年11月24日付で、毛利豊元は嫡男・千代寿丸(弘元)に対して、本領に加えて応仁の乱を通じて獲得した安芸・備後の所領を譲っています。当初は偏諱を受けた山名是「豊」の麾下として東軍に与していた「豊」元でしたが、所領回復の訴えが遅々として進まない状況に業を煮やし、ついに西軍に転じたうえで実力で不当な所領没収の前よりも多くの所領を獲得することとなったのです。嫡男の「弘」元は、父・豊元とは異なり、大内政「弘」から偏諱を受け、もっぱら大内家の麾下として戦うことになります。

翌1476年1月6日、応仁の乱勃発以来、初めての叙位の儀が行われています。この時、三条西実隆は正四位上に叙せられています。

 

2010年3月3日
塩貝坂古戦場
(静岡県菊川市)

(4) 今川義忠の死

 翌2月、遠江では今川義忠が横地家の本拠地である金寿城を攻略しています。しかし、駿河に戻る途中、塩貝坂で横地・勝間田の残党の襲撃を受けて討死しています。結果的に、義忠の領土的野心が自らの命を奪うことになりました。義忠による遠江侵略は幕府上層部の意向に反する動きであり、その後に義忠と戦った横地・勝間田勢は「残党」ではなく、斯波義良の遠江守護職を支持した幕府による今川義忠追討軍であった可能性も指摘されています。

今川義忠の討死により、今川家に後継問題が生じることとなりました。候補者は今川義忠の従兄弟の小鹿範満と龍王丸の2人ですが、幕府や母・北川殿らは龍王丸を支持しています。この時の調停役として、北川殿の父・伊勢盛定の代わりに盛時が駿河に下向したと考えられています。盛時の調停案は、龍王丸を当主としたうえで、龍王丸が成人するまでは小鹿範満が後見するという内容だったとされています。これが、「北条早雲」こと伊勢盛時の関東との関わりの端緒です。

 
 

今川義忠の死は、関東情勢にも影響を及ぼしました。山内上杉家の家宰・長尾景信の死去の後、関東管領・上杉顕定は景信の次男・忠景に家宰を継がせました。しかし、これに不満の長男・景春は、古河公方・成氏派の軍勢と五十子で対陣中に、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が今川家の家督問題に関連して駿河に出兵している隙に成氏派に転じ、五十子の上杉本陣を奇襲しました。上杉顕定は上野に逃れています。同年4月3日、大和における東軍・筒井順永が死去しています。筒井家の基礎を固めたのはこの順永だったと理解されています。

翌5月28日、毛利豊元が死去しました。33歳での死去には飲酒の害による早死にという推測もなされています。毛利家を継いだ弘元は、大内家の麾下に入りつつ力を蓄え、芸備の領主のなかでも一目置かれる勢力に成長していきます。同月、「押大臣」こと日野勝光が内大臣から左大臣に昇進していますが、翌6月に死去しています。大乗院尋尊は日記に「稀有の神罰」と記述しています。この年、連歌師・宗祇の京における拠点として、種玉庵が開庵しています。他方、この年の下半期に室町第が焼失しています。

 
 

(5) 平安への憧憬

翌1477年元旦の朝儀は、室町第の焼失により再び中止となりました。しかし、前年から京で全面講和の機運が高まってきています。三条西実隆は、この頃は天皇や将軍からの依頼により、古典の書写に明け暮れています。この時代はコピー機はありませんでしたから、焼失した書籍などは誰かが書き写さなければ部数が増えません。

同年1月、関東では上杉勢が、長尾景春ら古河公方・成氏勢に敗れています。同年5月、扇谷上杉家の家宰・太田道灌が、用土原で長尾景春を破っています。景春は武蔵鉢形城に逃れたうえで、古河公方・成氏に援軍を要請しています。同年7月、古河公方・成氏は景春からの援軍要請に応じて、結城・宇都宮ら北関東の名族を率いて上野に侵攻しています。上杉勢は鉢形城の包囲を解いて上野白井城に退いています。

 
 

同年9月22日、畠山義就は和睦ムードに抗して独力で支配地を拡大することとし、京を去って河内に向かいました。翌10月、大内政弘は畠山義就の帰国を受けて幕府に帰順を申し入れています。政弘は周防・長門・豊前及び筑前の4ヶ国守護並びに安芸の東西条郡を安堵されています。その後、山名政清の更迭後に石見守護も得ています。他方、一色勢を丹後から駆逐したはずの若狭・武田国信は、東西の和睦条件の履行として、丹後守護を一色義春に戻さなければならなくなります。丹後返還に不満の逸見真正は、丹後で合戦に及んだ末に自害しています。

同年10月、大和では筒井順尊が畠山義就・越智家により再び筒井城を奪われています。やがて越智家が大和の大部分を制圧し、順尊は以後10年以上にわたり山中に潜伏してゲリラ的抵抗を繰り返すことになります。同年11月、上杉勢と対峙していた宇都宮正綱が上野白井で陣没しています。成綱が宇都宮家を継ぎ、これを芳賀高益・景高父子が補佐することになりました。

 
 

同月11日、大内政弘が京を発ち、周防へ引揚げました。これ以降、領国経営に集中することになります。同じ頃、乱の途中から西軍に擁立された義視も、土岐成頼に伴われて息子・義稙とともに美濃に赴いています。出発の際、義視は自らの本営に火を放っており、これにより仙洞御所や二条邸などが類焼する被害が生じています。

同月20日、在京の公卿・諸将らが将軍・義尚らのもとに参賀して天下静謐を祝賀しました。ここに、応仁の乱の終了が宣言されました。しかし、たとえ平穏が戻っても、赤松家による将軍謀殺に引続きこの大義なき内戦では、もはや幕府の権威は地に墜ちています。幕府による統制を失った我が国は、「力こそ正義」の戦国時代に突入していくことになります。なお、関東では相変わらず上杉派と古河公方・成氏派が上野で対峙し続けています。扇谷上杉家の家宰・太田資長が仏門に入って「道灌」と称したのはこの頃です。

 
 

応仁の乱の後、人々の間に懐古的な風潮が広がり、平安貴族時代への憧憬が高まっていきます。王朝から武家政権が権限を吸い上げた結果、このような戦乱の絶えない世の中になってしまったという理解にたつとすれば、人々が王朝期を懐かしむのも無理もないことかもしれません。この頃、特に注目を集めていたのは藤原道長の時代に紫式部が著した『源氏物語』で、庶民だけでなく後のいわゆる戦国大名からも求められるようになりました。そして、このような時流のもとで、多くの公卿らが一条兼良を先達と仰ぐことになります。

応仁の乱の後に王朝期への憧憬が高まるなか、京の公家の娘が地方の武家に嫁ぐケースが増えていきます。京の公家は各地の荘園からの年貢によって生活していましたが、地方武士による荘園侵略が相次いだことによって公家の生活が困窮してきました。他方で、地方武士の京に対する憧憬は高まっていたため、京の女性を受け入れる素地があります。そこで、公家は地方の有力武士に娘を嫁がせることによって生活の安定を図ろうとしたといわれています。同月22日、公卿らが焼け残った土御門内裏などの見物に出かけています。この時、三条西実隆は悲嘆にうちのめされています。

 
 

翌12月17日、興福寺大乗院に疎開していた一条兼良が京に戻りましたが、帰京後、最初に開講した講義はやはり『源氏物語』でした。女人による政治容喙という批判のあった日野富子も兼良に講義を求めたとされ、兼良はこれを承諾しましたが、息子の尋尊は不快感を示したとも伝わります。大晦日、三条西実隆は参議に昇進して公卿に列せられています。

本サイトにおいては、南朝の末裔の動静を史料からたどることができなくなったことをもって「南北朝期」の終了と位置づけることとします。

2009年12月5日
南朝・賀名生皇居跡
(奈良県五條市)

南北朝期 完