南北朝期13 ~応仁の乱~

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47 応仁の乱

 

(1) 対立軸の形成

翌1460年1月、三条西公保が死去しました。これにより、実隆が6歳で三条西家の当主になっています。この年、京では伊勢貞親が政所執事に就任しています。今後、この伊勢家が京だけでなく関東においても重要な役割を担うことになります。同年4月21日、将軍・義政は、南奥で抗争を続けていた白河家と蘆名家を和睦させるとともに、両家に対して古河公方・成氏を討伐するよう命じています。義政はかねてより白河直朝に対して成氏討伐を命じており、白河直朝が蘆名盛詮と戦っていたことに苛立っていたようです。

同年9月、管領・細川勝元は、将軍・義政に対して畠山義就に関する讒言を行い、義就を隠居させて養子・義有に家督を相続させようとしました。これに憤慨した義就は、被官らを率いて河内の若江城に逃れました。他方、細川家が推す政長は、紀伊・河内及び越中の守護に任じられて畠山家の当主として認められるとともに、義就の所領も与えられました。同月、義就追討の綸旨も賜った政長は、大和に赴いて筒井順永ら与党の結集を図っています。翌10月9日、畠山義就は若江城を出て大和の政長に奇襲を仕掛けましたが失敗しています。政長の軍勢は河内に進み、義就勢を次第に追い詰めていきます。

 
 

同月、山名家では宗全が嫡子・教豊を追放しており、教豊は播磨に逃れています。宗全は毛利家が近づいた次男・是豊ではなく、是豊の弟・政豊を教豊の養子に入れて家督を継がせています。しかし、弟が兄の養子に入って家督を相続するという構図は、約90年前の山名氏清と同様です。弟の風下に立たされた氏清は、満幸と結託して将軍・義満に対して時熙・氏之の叛意を讒言し、これが後の明徳の乱での山名家凋落につながりました。ここでも、次男・是豊の家督相続への期待が裏切られたことが後の宗全との対立につながった可能性が指摘されています。

山名家の庇護に期待していた毛利家は、この年に惣領の統制を乱す庶家を処罰したところ、かえって惣領家が幕府から「罪科」に処せられてしまい、南北朝以来の本領であった内部荘と豊島郷を没収されてしまいました。惣領家は幕府から任務を与えられた場合、幕府の方針どおりに庶家に対して命令を発することとされており、これに従わない庶家を処罰する権限もあったはずです。毛利熙元としてもそのような認識だったと思われますが、命に従わない麻原是広の所領に兵を入れたところ、是広は幕府の要人にとり入って、事実を歪曲して「熙元の非」を訴えたのです。

 かつて千葉常胤も政治に敗れた末に相馬御厨を源義宗に奪われています。毛利家に対する幕府の処分には、伊勢貞親が関わっていた可能性が指摘されています。この頃、周防の大内家の勢力圏は麾下の厳島神主家らを含めて安芸の沿海部一帯に広がっていました。3年後、豊元に譲状を書いて事実上の遺言を残した際、熙元は「口惜しき次第なり」と述べており、父祖以来の本領を回復するために幕府に嘆願せよと強く言い遺しています。

 

2009年2月21日
白川郷
(岐阜県大野郡白川村)

飛騨では、寛正年間(1460年~66年)に、信濃の内ヶ島為氏が飛騨・白川郷を押領し、さらに越中砺波郡も平定して向牧戸城を居城としたと伝わります。

 内ヶ島家は、庄川流域に拡がりつつあった浄土真宗勢力との結びつきを強めながら力を蓄え、戦国時代の白川は照蓮寺を中心として真宗王国の様相を呈するようになります。

2009年2月21日
五箇山
(富山県南砺市)

 

翌1461年10月、将軍・義政は越前の斯波家を継いでいた松王丸を廃し、九州探題の渋川一族から義廉を斯波家に入れて、朝倉教景と甲斐政盛に義廉を補佐させることを決定しました。この決定については、幕府内の反細川勢力が、義敏・松王丸父子を擁護している管領・細川勝元の力を削ぐために将軍・義政を唆した可能性が指摘されています。この頃、義政は一条兼良の『源氏物語』の講義を初日に聴いています。

 翌11月、三河では松平親則が死去しています。信光は、親則の菩提を弔うために妙心寺を創建することになります。

翌1462年4月、細川成之を総大将とする幕府軍が河内の畠山義就を攻撃しています。この時、父・宗全から備後守護を譲られていた山名是豊も備後の軍勢を率いて河内に出陣していますが、是豊は既に父・宗全とは疎遠になっていました。宗全と是豊の対立の兆しを読み取ったであろう管領・細川勝元は、山名家内部に楔を打ち込むべく、是豊が嘉吉の変で殺害された山名熙貴の跡を継げるよう奔走したり、河内出陣に応じなかった山名政清に代わって石見守護に任じられるよう運動しています。なお、毛利豊元も是豊麾下として河内を転戦しています。

 同年12月、再興された結城家の成朝が、重臣の多賀谷高経によって殺害されました。多賀谷高経は、結城家再興の際、兄・長朝を推した派閥に属していました。結城家は氏広が継ぎましたが、これ以降、結城家は多賀谷家の影響下におかれることになりました。

 この年、白河の関川寺に匿われていた宇都宮等綱が死去しています。

 

2009年10月10日
平家一門供養塔
(奈良県吉野郡)

翌1463年4月、畠山義就は嶽山城を脱出して吉野の山奥に逃れました。幕府軍はそれ以上の追及を諦めて京に引揚げています。

同年9月28日、将軍・義政の母・重子が死去しました。関東で成氏派と対峙している上杉房定は、この時に香典を送るなどして積極的に義政に近づいて信頼を勝ち取っています。管領・細川勝元は、義政に対して命令違背により失脚した斯波義敏・松王丸父子の赦免を求めましたが、政所執事の伊勢貞親がこれに反対しました。そこで、義敏は自らの妾だった女性を貞親にあてがうことによって貞親を抱き込みました。今日においても、美人をあてがうことによって自らの政治的要求をとおそうとする動きは普通に生じています。実は、私自身も仕掛けられたことがあります。貞親は一転して義敏を再び斯波家の当主に据えるよう義政に進言し、義政の承諾を得ています。渋川義廉のもとで落ち着きを取り戻しつつあった越前は、細川勝元と山名宗全の権力闘争に加え、伊勢貞親や季瓊真蘂(きけいしんずい)らの介入によって再び激しい抗争の場に転じることになります。

 
 

翌1464年9月、細川勝元による度重なる管領辞任の申し出がようやく認められ、後任には畠山家の家督争いにおいて勝元の支援を受けてきた畠山政長が就任しました。勝元は自ら育てあげた政長を表に出させたうえで、裏で権勢をふるおうとしたと考えられています。前年の幕府軍の撤収にも、勝元が政長を自身の後継者に育てる目的があった可能性が指摘されています。

 同年12月、義尋が還俗して義視と名乗るとともに、正式に将軍・義政の後継者と決定されました。後見は細川勝元ですが、勝元には日野家の権勢を弱める狙いがあった可能性も指摘されています。義視は今出川の三条家旧邸に移り、「今出川殿」と呼ばれるようになります。同じ頃、山名是豊が備後・安芸に加えて山城守護も兼任するようになっています。この補任についても、山名家内部に楔を打ち込むために細川勝元が将軍・義政に働きかけた可能性が指摘されています。

 
 

翌1465年3月、将軍・義政の妾・宮内卿局が男の子を生みました。しかし、妻の日野富子は、自分も妊娠している身でありながら、義政の側近との不義の子であるとしてこの子を排斥しています。

 翌4月、伊勢盛定が駿河の今川義忠と政所執事・伊勢貞親の連絡を取り次ぐ申次衆に就任しています。この盛定の息子が、後に南関東で覇を唱える「北条早雲」こと伊勢盛時です。

この頃、三河では反幕府勢力が蜂起しています。幕府と対立していた古河公方・成氏や、斯波義敏によって斯波家当主の座を追われた義廉らが、一色義貫の謀殺後の守護交代で利権を失った人々を煽って蜂起させた可能性が指摘されています。三河の松平家は伊勢家被官であったため、しばしば守護家の命令を無視することがありました。そこで、三河守護・細川成之は、政所執事・伊勢貞親に対して、三河一揆を黙認すれば厳しく処罰する旨伝えて欲しいと要請しています。これを受けて、伊勢貞親も松平信光に対して、一揆を許容する者は厳しく処罰するよう命じています。どうやら松平家もこの三河一揆に加担していたようですが、伊勢貞親からの命令を受けたことで鎮圧方針に転じています。支援を失った一揆勢は瓦解しています。

 
 

同年6月、安芸では大内家が武田家を激しく攻めています。大内教弘は、幕命により河野通春と対立している細川勝元を援けるために伊予に渡りましたが、水面下では通春と通じておりました。大内家と細川家は、瀬戸内海方面における交易の利権をめぐって対立していたようです。ここに、芸備方面における「大内家VS細川家」という対立軸も顕在化してきました。

 翌7月、甲斐では武田信昌が小野田城(山梨市)を攻めて、跡部景家を自害に追い込んでいます。守護代・跡部家が実権を掌握してきた甲斐における武田家の威信回復に向けた動きという指摘があります。

同年9月、大内教弘が伊予・興居島で病死しました。嫡男・政弘が家督を継いでいます。既に武田信賢から鏡山城を奪っていた大内家は、教弘の死後も武田勢を猛攻し、別動隊は沼田小早川家も攻めています。この時、毛利豊元は沼田小早川家に援軍を派遣しています。この方面では、大内派の大内・河野家らと細川派の武田・毛利・小早川・吉川家らという構図になっています。

2009年2月17日
善応寺
(愛媛県松山市)

 

同月11日、将軍・義政のもとに関東の上杉房定から、古河公方・成氏が武蔵・太田荘に出陣したという連絡が入っています。義政は駿河守護・今川義忠や甲斐守護・武田信昌らに対して成氏討伐を命じています。この年、今川義忠は京で北川殿を見初め、側室として駿河に連れ帰っています。関東で再び上杉派と古河公方派が衝突していた頃、武蔵では田代三喜が生まれています。

同年11月23日、日野富子が義尚を生んでいます。富子は義政と妾の間の子は排斥しましたが、我が子による抗争は防げませんでした。翌12月、義尚は伊勢家に移され、伊勢貞親が養育にあたることになりましたが、これが義視を支持する細川勝元と義尚を支持する日野富子・勝光兄妹及び伊勢貞親による将軍後継争いにつながることになります。この年、義政は20回も貞親邸を訪れており、何事も貞親の意見を聞いていたことの現れという指摘もあります。

 
 

翌1466年2月、古河公方・成氏は上杉房顕討伐のため武蔵・五十子に出陣しています。同月12日、房顕は五十子で対陣中に急死しています。房顕には男子がなかったため、将軍・義政の要請により房定の次男・顕定が山内上杉家を継ぐことになりました。翌閏2月6日には、京と鎌倉の板挟みで苦労が絶えなかった父・憲実も長門・大寧寺で死去しています。翌3月、信濃の村上政国が麾下の将に対して武田信昌を破ったことに対する恩賞を与えています。このことから、既に武田家と村上家の抗争が始まっていた可能性が指摘されています。

同じ頃、安芸では毛利豊元が父・熙元の遺言どおり、幕府に対して長文の申状を提出して没収された土地の返還の訴えを起こしています。惣領の権限を発動したところ、麻原是広の讒言によって逆に惣領家が土地を没収されてしまった件です。申状のなかで麻原家だけを槍玉にあげられたのは、既に有力庶家の福原・坂両家を味方に引き入れていたためという指摘があります。一族を離れて幕府権力に直結していった麻原家に対する反発が、惣領家を中心とした一族の結束を強めたという指摘もあります。ここでも、共通の敵の存在が結束を高める要素になっています。同年夏頃、連歌師・宗祇が東国の旅に出ています。以前から歌枕探訪を願っていたようですが、それとは別に何らかの政治的使命を帯びていた可能性も指摘されています。

 
 

同年7月、越前では斯波義敏によって当主の座を追われた義廉が、義敏の被官を捕えて殺害しています。しかし、義廉派の山名・一色・土岐家らが強く反発するなか、義敏は伊勢貞親らの支持を得て着実に復権していきます。義廉は斯波家の分国の越前・尾張・遠江から軍勢を京に集め、山名宗全も義廉に加勢するために軍備を整え始めました。また、これまで義敏を支持してきた細川勝元も、将軍後継問題をめぐる伊勢貞親との対立などから一転して義廉側にまわったため、将軍・義政は宗全追討に踏み切れませんでした。越前問題において細川勝元に離反された伊勢貞親は、越前の構図を持ち込むことによって将軍後継問題を有利に進めようと画策します。貞親は日野富子・勝光兄妹と結んで、将軍・義政に対して、斯波義廉や山名宗全が軍勢を京に集めているのは今出川殿(義視)が将軍を討とうとしているからである旨、讒言しました。これを信じた義政は義視を殺害しようとしたため、義視は細川勝元の屋敷に逃れました。

 山名宗全は、諸将らの連署を得たうえで、騒動の原因は伊勢貞親や季瓊真蘂にあるとして切腹させるよう義政に求めました。これには細川勝元も即座に賛成しています。かつて、足利義嗣を排除する限りにおいて幕府と鎌倉府の協調関係が成立したことがありましたが、ここでも伊勢貞親・季瓊真蘂らを排除する限りにおいて細川勝元と山名宗全の協調が見られました。あくまでも相対評価での身の処し方です。

しかし、同年8月25日、将軍・義政は斯波義廉から没収した越前・尾張・遠江を斯波義敏に与えてしまいました。さらに、義政は日野勝光を使者として、宗全に対して斯波義廉と絶交するよう命じています。翌9月6日、山名勢の挙兵の動きを察知した伊勢貞親や斯波義敏らは京を脱出し、貞親は近江へ、義敏は越前に逃れました。そして、幕府内の伊勢派も追放されました。これが文正の政変です。義政はやむを得ず斯波義廉を赦免して越前・尾張・遠江守護に復帰させるとともに、貞親の嫡子・貞宗に伊勢家を相続させることで決着させました。伊勢貞親が失脚したことで共通の敵を失った細川家と山名家は、いよいよ軍事衝突することになります。

 
 

この年、足利学校が足利荘代官・長尾景人によって現在地(足利市昌平町)に移築されています。

(2) 開戦

翌1467年1月8日、斯波義廉が管領・畠山政長を退けて管領に就任しています。同月17日、畠山政長の軍勢は上御霊に張陣しました。翌18日、畠山義就の軍勢が山名政豊・朝倉孝景らの援軍とともに御霊の森を攻撃しました。翌19日、政長は御霊の森から撤退し、しばらく河内に潜伏した後に京で細川家の軍勢に合流しています。京では大内政弘が西軍として大挙上洛するという風説が流れています。細川勝元は、毛利豊元や吉川経基らに対して、武田家と結んで大内政弘を防ぐよう指示しています。勝元は、毛利豊元に対して、所領没収に関する訴えのことは忘れていないと付け加えています。

 
 

 上御霊では既に東西両軍の戦闘が始まっていたにもかかわらず、翌2月6日、日野勝光の内大臣昇進を祝う節会が盛大に挙行されています。勝光はこの時に権大納言から内大臣への昇進を強行したことから「押大臣」と呼ばれることになります。翌3月3日、上巳の節句を祝うために諸将が「花の御所」に集まりましたが、細川派の人物は1人も現れませんでした。細川勝元は、祝賀ムードのなかで着々と巻き返しの準備を進めています。同月5日、「応仁」に改元されました。

 同年4月、細川勢が丹波で山名家の輸送部隊を待ち伏せて、運ばれてきた年貢を強奪しています。翌5月、細川勢が山名家の所領への侵攻を開始しました。赤松政秀はかつて赤松家が有していた播磨に侵攻し、旧赤松被官も多数が政秀に与しています。斯波義敏の軍勢は、かつて支配していた越前・尾張及び遠江に侵攻して管領・斯波義廉被官と戦っています。世保政康は一色義直の伊勢に侵攻し、若狭では武田信賢が丹後の一色勢を若狭から駆逐しています。

この頃から、京市中でも東西両軍の小競り合いが頻発し始めます。細川家は「花の御所」から義視の今出川邸・細川邸へと続く京の北部から北東部一帯を固めて陣営としています。この頃、御霊合戦後に行方をくらましていた畠山政長も細川勢に合流しています。同月17日、山名宗全は一色義直邸に山名一族や斯波義廉・畠山義就・六角高頼・土岐成頼・一色義直らを集めて軍議を開いた結果、宗全邸・義廉邸を含む京の西部から中央部にかけて張陣することに決まりました。その結果、細川派を東軍、山名派を西軍と呼ぶようになりました。

2008年11月18日
山名宗全邸跡
(京都府京都市)

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同月25日、東軍は将軍・義政の「花の御所」に籠り、翌26日午前4時頃、大手口から太鼓を鳴らし鬨の声をあげながら西軍の陣営に攻め込みました。ここに、応仁の乱の火蓋が切られることとなりました。中央政界における管領・細川勝元と四職・山名宗全の対立に対応する形で、これまでご紹介してきた畠山家の家督問題や各国守護をめぐる争い、さらに、守護代の守護に対する反抗といった各地の紛争も両派に色分けされてきています。たとえば、越前守護をめぐる争いは斯波義敏(東)と斯波義廉(西)、畠山家の家督問題は畠山政長(東)と畠山義就(西)、近江の佐々木一族の抗争は京極持清(東)と六角高頼(西)、美濃では守護家の争いとともに守護代・斎藤妙椿と富島家の抗争、若狭は武田信賢(東)と一色義直(西)、大和は筒井順永(東)と越智家(西)、芸備は山名是豊(東)と大内政弘(西)の戦いとなっています。

山名宗全が西軍を率いているにもかかわらず、家督問題をめぐり宗全との関係が悪化したと思われる次男・是豊は東軍に与しています。守護家の父子対立に対応して、備後の現地勢力も東西両陣営に分裂して抗争を続けることになります。備後北部の山内首藤家が西軍に属したため、この地域では西軍が優勢に戦いを進めていきます。他方、是豊の麾下に入っていた毛利豊元は東軍に属し、細川家から備後の抑えの役割を与えられています。甲斐武田家についても、幕府による征伐の対象に挙がっていないことから東軍に属していた可能性が指摘されています。

 

2009年2月21日
飛騨・高山
(岐阜県高山市)

飛騨の姉小路三家のうち、古川・向両家は東軍に属しており、飛騨においては東軍の勢力が西軍を圧倒していたという推測もなされています。

肥後の菊池家は筑後の回復を目論んで西軍に属していますが、豊後の大友家や人吉の相良長続は東軍に属しています。島津家については、応仁の乱を傍観していたという見方もあります。

 
 

三条西実隆は、応仁の乱の勃発により洛北の鞍馬寺に疎開しています。

翌6月、既に京で噂になっていた大内政弘の軍勢が周防・山口を発ち、500~600艘の大船団で京に向かいました。

 

同年8月、東軍のトップのはずの義視が伊勢に逃れてしまいました。同じ頃、一条兼良も息子・厳宝が門主をしていた小野の隨心院門跡に逃れています。

 翌9月1日、安芸武田家の信賢(東軍)の弟・元綱(西軍)が、畠山勢(東軍)が籠っていた将軍家菩提寺・等持院を攻めています。同月、一条兼良の一条室町の邸宅が焼失しています。

翌10月3日、西軍が相国寺に張陣していた武田信賢らを攻めています。若狭武田家の軍勢は、東西衝突の矢面に立たされ続けて苦戦が続いていきます。翌11月、毛利豊元は細川勢とともに摂津・中島(大阪市)の大内勢と戦うことを命じられています。豊元はこの頃から翌年5月頃にかけて、京の各所で東軍方として戦っています。翌12月、土佐では守護代・細川持益が死去しています。息子の勝益が家督を継いでいますが、土佐細川家にもかつての力はなく、現地勢力の力が相対的に高まっています。この年から翌年にかけて、海野氏幸と村上頼清が信濃・小県郡をめぐって争った海野大乱と呼ばれる戦闘がありました。これ以降、村上家が徐々に小県郡に進出して滋野一族を圧迫していきます。信濃でも守護・小笠原家の衰退により現地勢力の力が相対的に高まっています。

 
 

(2) 足軽部隊の活躍

翌1468年3月、細川勝元は骨皮道賢に対して、群盗を集めて西軍を襲うよう指示しています。同月18日、群盗らは夜陰に乗じて西軍の兵糧集積場を襲撃しました。『三国志演義』にも、河北の袁紹と兗州・徐州の曹操が激突した官渡の戦いにおいて、曹軍に投降した許攸がもたらした軍事機密をもとに烏巣を奇襲するシーンがあります。同月21日、西軍は群盗が張陣する稲荷山を攻撃し、骨皮道賢は女装して逃れようとしましたが殺害されています。有事の際に正規軍だけでなく、ならず者集団をも活用するケースは現代においても見られます。

同年6月8日、荒稼ぎ目的で参集した東軍の足軽部隊が、山名宗全の本陣を奇襲しています。東西両軍の戦闘に乗じて、力ずくで財産を得ようとした面もあったでしょうが、むしろ、そうでもしなければ生きていけなかった人々が多数存在したという現実を指摘しておかなければなりません。生きていくために戦争に加わったわけですから、各地で放火や略奪を行っており、統制などとれているはずもありません。仲間割れにより殺し合うこともありました。あえて今日の価値観から申し上げれば、大飢饉という自然災害の側面もありましたが、権力闘争に明け暮れて民を顧みなかった政治の責任は大きいものと思われます。今日においても、「最高の刑事政策は、福祉政策である」という言葉もあります。

 
 

翌7月、幕府は前年に日野富子・勝光兄妹の進言によって管領職に復帰していた斯波義廉を罷免し、細川勝元が管領に復帰しています。同月末、東軍の足軽部隊は清水寺に駐屯しています。

東軍の足軽部隊が戦果をあげたことから、西軍も足軽部隊を編成することにしました。翌8月上旬、西軍の足軽部隊が青蓮院や聖護院などに火を放っています。吉川元経勢(東軍)も畠山義就(西軍)の館を攻撃していますが、この頃から東西の戦闘が減っていきます。そもそも東西両軍は、守護になりたいとか、敵対者を追い出したいといった私利私欲による対立に両陣営が乗り入れた野合にすぎず、戦闘の大義も明確ではありません。また、リーダーシップの欠如が戦況の停滞を招いたという指摘もあります。

 
 

隨心院に疎開していた一条兼良は、この頃から息子・尋尊がいる興福寺大乗院門跡に身を寄せています。兼良の奈良疎開は10年以上にも及ぶこととなりました。兼良はこの頃に光明峰寺で保管していた一条家に伝わる記録類を大乗院門跡に移しています。応仁の乱では、建築物だけでなく、当時を知る手掛かりとなるはずだった重要書面が数多く失われてしまいました。

同年9月7日、船岡山の戦いでも足軽部隊が活躍しています。ただ、東西両軍とも足軽部隊の効用を認識したことが足軽部隊同士の小競り合いの常態化につながり、乱が長期化する原因の1つとなったという指摘もあります。

2008年3月24日
船岡山から
(京都府京都市)

 

同月12日、伊勢に逃れていた義視が京に戻っています。管領・細川勝元は、諸将らと連名で義視の帰京を求めておりました。東軍のトップが逃げたとあっては体裁が悪いと考えて、義視の帰京を将軍・義政に要請していた可能性が指摘されています。義視は京に戻る途中、武田信賢の弟・国信の迎えにより同月10日に三井寺に入っています。翌10月10日、美濃では斎藤妙椿が垂井の富島勢を駆逐しています。富島勢は近江に逃れ、これにより20年にわたる両家の抗争が斎藤家の勝利で終わりました。ただ、富島家も伊勢の土岐世保家と結んで美濃奪還を目指し続けています。

翌11月、将軍・義政は伊勢貞親や日野富子・勝光兄妹による讒言を信じて、義視と結んで陰謀を企んでいるとされた赤松元家を殺害させています。義視は帰京の際、義政に対して、邪悪な近臣を退けて政道を正すべきとの意見書を提出していましたが、誰にとって「邪悪」かが問題です。細川勝元は、義政による元家殺害を傍観していたという指摘もあります。この点については、勝元は義視を犠牲にして自己保身を図った可能性が指摘されています。この頃に作られた歌が残っています。「細川」は「Hoso-river」の意味で使用されています。

 

 細川は 八里が中を 流れけり 

   あなたへも四里 こなたへも四里

 

同月13日、義視は夜陰に紛れて東陣を脱出し、比叡山の東塔院衆徒を頼りました。この時、これまで擁立すべき将軍後継者を得られていなかった山名宗全は、義視を擁立することを決定し、比叡山に使者を送っています。この結果、これまで東軍の勝元のもとにあった義視が西軍の宗全によって擁立され、戦闘を通じてどのような政治目的を達成しようとしているのかがより一層不明確となりました。同月23日、義視は斯波義廉の屋敷に入り、西軍諸将らの歓迎を受けています。同年12月、朝廷は義視をはじめとする西軍諸将の官位を剥奪しています。

一説によると、この年に九州の少弐教頼の息子・清直が、父・教頼の死後に母方の祖父・経直の跡を継いで「鍋島」を名乗ったと伝わります。鍋島家については、近江で抗争を続けている京極・六角両家と同様、宇田源氏佐々木一族と考える立場もあるようです。この見解によれば、経直は菅原道真と同時代の宇多天皇の皇子・敦実親王の末裔とされ、経秀・経直父子の頃に京から鍋島村に下向して鍋島を称し、経直の頃に竜造寺家の麾下に入ったと伝わります。鎌倉期に源頼朝から九州を任された大友・島津及び少弐の3極のうち、少弐家はやがて竜造寺・鍋島家にとって代わられることになります。翌1469年4月、武田信賢は丹後の一色義直勢を駆逐して丹後守護に任じられています。

 
 

同月、はるか南の琉球では、第1尚氏の尚徳が死去しています。尚徳の息子による王位継承は賛同を得られず、金丸が王位に推されました。金丸が王位に就いたことにより、7代にわたり続いた尚巴志王統が終焉を迎え、琉球では無血革命によって尚円王統(第2尚氏)が始まることになりました。我が国とは異なり、琉球ではこの時に王朝交代が起きたということになります。この新王朝が、廃藩置県の頃に至るまで19代400年にわたり琉球を治めることになります。今日において、保守派が女系天皇を認める皇室典範改正に強く反対しているのは、たとえ血のつながりがあっても、男系継承でなければ王朝交代と同じという理解があるものと思われます。なお、この王朝交代の際、明という外国勢力が関与していた可能性も指摘されています。

翌5月、長門では大内政弘の留守の間に伯父・教幸が謀反を起こしています。教幸は細川家から備後に東軍の援軍として赴くよう指示されています。この時は政弘の腹心の陶弘護が謀反を鎮圧して教幸を豊前で自害に追い込んでいますが、今日の我が国では陶家はむしろ謀反を起こした側として有名でしょう。

 
 

(3) 寝返り工作

同年7月、毛利豊元が西軍から帰順を誘われています。この頃から東西両軍の寝返り工作が活発化しています。豊元は既に父・熙元の遺命に従い、幕府によって不当に没収されていた所領の回復の訴えを提起しています。細川家からはこの訴えのことは忘れていない旨を伝えられてはいますが、この時点では口約束の域をでていないでしょう。そもそも今日の価値観からすれば、不当に没収されたのであれば、東軍に与するという条件を付することなく直ちに返還すべきものです。同年9月、豊元は幕府に対して所領の返還を強く訴えています。

 応仁の乱が続いていたこの年、武蔵・河越城では既に隠退していた太田道真が連歌師・宗祇らを招いて連歌会を催しています。相良為続は、宗祇の『新つくば集』に九州で唯一入選しています。為続はこの頃に西軍に転じていた模様です。

翌1470年1月、北奥では檜山安東政季が雪深い津軽に攻め入り、南部家の藤崎城を攻めましたが、撃退されて檜山城に戻っています。同年7月、一条兼良が大和から関白の辞表を書き送っています。左大臣・二条政嗣が関白職を望んでいることを受けて、二条家に近い日野勝光らが兼良に辞任を勧めていたためです。かつての藤原家は摂関の地位をめぐって権力闘争を繰り広げましたが、この頃の兼良は関白という地位に何らの未練もなかった可能性が指摘されています。叙任自体はまだ行われていましたが、中央政界の公卿の後ろ盾や官位に伴う権威によって地方を抑えるというかつての支配のあり方はもはや通用せず、軍事力がものをいう時代になっています。王朝の権限は有名無実化され、京文化に対する憧憬を抱く地方の武士らが歌道や茶道の教示を受けたり、公卿の家の女性を妻として招くといった関わり方になっていました。

 

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翌10月、足軽部隊によって焼かれずに残っていた相国寺七重塔が、落雷により炎上してしまいました。この頃、「一休さん」で有名な一休和尚が京の荒廃を歌に詠んで嘆いています。

 この年、醍醐寺の真如三昧堂も焼失しています。応仁の乱により、醍醐寺は五重塔を残して下醍醐が焼失しています。同年12月24日、後花園天皇が崩御しました。一条兼良は、大和から「後文徳」という諡号を不適当と伝え、「後花園」と「後土御門」の2案を答申しています。その結果、「後花園」が採用されることになりました。

翌1471年1月頃、西軍が京の八条で足軽を募集しています。この募集には東寺関係者を含む多数の応募があったのですが、東寺は足軽となることを禁止してしまいました。これに反対する者らが東寺に押しかけて抗議した結果、東寺は既に足軽になっている者は禁止の対象から外すという形で譲歩しています。ここでも既得権を守る形で妥協しています。宗教関係者ですら、戦闘に参加して略奪をしなければ生きていくのが難しい時代になっていました。足軽志望者たちにとっては、東西いずれが勝利するかなどどうでもよかった可能性すら指摘されています。

2010年8月1日
願成就院跡
(静岡県伊豆の国市)

同年3月、関東では古河公方・成氏の軍勢が箱根山を越えて伊豆の堀越公方・政知を攻めましたが、敗れています。成氏派には結城氏広・小山持政・千葉孝胤ら関東の名族たちが加わっています。他方、堀越公方・政知派には、上杉家に加えて家宰の長尾・太田両家、そして、駿河から赴いた今川義忠らが加わっています。

同じ頃、一条兼良は吉野にお花見に行っています。

2009年10月10日
十津川(奈良県吉野郡)

2009年2月23日
一乗谷朝倉氏遺跡
(福井県福井市)

同年5月21日、越前の朝倉孝景が幕府から越前守護に任じられ、孝景の東軍への寝返りが決定的となっています。将軍・義政と孝景の間には、半済の実施に関する密約があった可能性が指摘されています。ここでも、寝返りの際の重要なファクターは経済的利益でした。

 同月末頃、関東管領・上杉顕定の軍勢が古河城に迫っています。翌6月、公方・成氏は古河から千葉孝胤の下総・佐倉城に逃れています。同月2日、安芸・若狭の武田信賢(東軍)が死去しています。戦況の悪化による心労が原因という推測もなされています。

同月10日、朝倉孝景が初めて東軍の一員として出陣しています。緒戦こそ躓きはありましたが、その後は甲斐家との戦いで勝利を重ねていき、やがて越前一国を平定することになります。

2009年2月23日
一乗谷朝倉氏遺跡・湯殿跡庭園
(福井県福井市)

2009年2月21日
飛騨・高山
(岐阜県高山市)

同年夏頃、飛騨では姉小路基綱と京極家の間で戦闘が始まっています。京極家の分裂に乗じて姉小路家が仕掛けた可能性が指摘されています。同年7月、本願寺蓮如が吉崎に坊舎を建立し、浄土真宗の布教に着手しています。同じ頃、毛利豊元が山名是豊に対して帰国の希望を伝えています。帰国後はより一層東軍のために奔走したいと述べて許可を得ていますが、実は安芸で留守をあずかる福原広俊らと連絡をとりあいながら、西軍への寝返りを計画していたのです。このような毛利家の動きは、京の大内政弘のもとにも届いていたようです。翌8月7日、飛騨で三木(みつき)家の当主が姉小路基綱勢と戦って討死した可能性が指摘されています。この頃までに、三木家は飛騨における守護・京極側を代表する勢力に成長しています。

同月、将軍・義政は妻・富子と仲違いし、約1ヶ月間、細川勝元の新邸に避難しています。同じ頃、関東では宇都宮正綱が上杉派に与した可能性が指摘されています。ただ、これを前提にしたとしても、正綱はその後に成氏派に復することになります。鎌倉幕府以来の名族も、状況次第で強い側に与して家を保つことを考えるようになっています。

 
 

翌閏8月、毛利豊元は備後の西軍に対する抑えとして三吉口に派遣していた部隊を撤退させています。豊元の西軍への寝返りが行動になって現れたものです。豊元は西軍に転じた後、訴訟を起こしていた土地を実力で取戻すだけでなく、毛利家の版図を父・熙元の頃以上に拡大しています。福原広俊は、豊元を西軍に転じさせたことで大内家から恩賞を受けています。これに焦ったのは細川勝元でした。勝元は豊元が訴えていた土地の返還を認める旨を書き送りましたが、時既に遅しでした。帰国を認めた山名是豊も、書状を書き送って豊元の説得を試みましたが無意味でした。その代わり、勝元は毛利一族のなかで立場を失っていた麻原是広を西軍から東軍に引き抜いています。

この年、山名宗全は南朝皇胤の小倉宮を紀伊から西軍に迎えています。足利尊氏が播磨・室津から九州に落ち延びる際、赤松円心は持明院統の院宣を得て朝敵の汚名を回避するよう提案しています。尊氏は鞆の浦で光厳院の院宣を得るとともに、再入京後に北朝の光明天皇を即位させています。東軍が天皇・上皇を奉じて西軍を「賊軍」呼ばわりしていたため、宗全も皇族を擁立したものと思われます。この時に宗全によって擁立された小倉宮の末裔を自称したのが、太平洋戦争終戦の翌年に現れた「熊沢天皇」です。

 
 

奥州では、この年に伊達・白河及び蘆名家による三者会談が行われています。伊達家は長年にわたり京都御扶持衆として活動してきましたし、白河家も伊達家に続いて幕府方に転じていました。稲村・篠川両御所は、父も母も失っていたわけです。しかし、関東情勢への対応を協議した結果、将軍・義政からの成氏討伐命令には従わないことを決定しています。