南北朝期12 ~畠山家の内紛~

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46 畠山家の内紛

 

(1) 紛争の火種

翌1443年1月、将軍・義勝が正月の宴の席で雑煮を食べていたところ、餅を挟んだ箸が折れたため、諸将らは不吉なことと囁き合ったと伝わります。この時代の人々は、箸には神や霊が宿ると考えていたようです。そこで、祝膳では折れにくい太い箸を使うようになったという話もあります。

同年2月、今度は富樫教家が管領・畠山持国に対して、自分を加賀守護に復帰させるよう働きかけました。持国はこれも許しましたが、加賀守護代・山川八郎が持国の措置に憤慨し、現職の泰高を支持して反乱を起こしました。持国は将軍・義勝の名のもとに泰高を追討しようとしましたが、八郎とその父は、泰高を赦して教家・泰高兄弟をそれぞれ半国守護とするよう願い出たうえで自害しました。これ以降、信濃に続き加賀でも富樫家が分裂して抗争を続けることになりました。

 

2009年9月18日
柴崎城址・背水の陣
(青森県北津軽郡)

同年5月、北奥では嘉吉の変後の幕政の混乱に乗じて、南部義政が安藤盛季討伐のために出陣しています。南部勢は唐川城を火攻めで攻略した後、本州最北端の城である柴崎城を数ヶ月の包囲戦の末に攻略しました。安藤家は渡島(松前)に逃れています。

南部義政によって現在の北海道に追い落とされた安藤康季は、新たに茂別館を拠点とするほか、12の館を設けて一族被官を配置して現地支配体制を整備しています。安藤家は、異民族からの収奪を強化して軍備を整えることにより本州への反転攻勢を期することとなります。これをもって、「アイヌ民族の日本史への登場」と理解する立場もあります。

 同年7月23日、正月に箸を折ったとされる将軍・義勝が死去しました。この頃、義勝の死は父・義教による持氏討伐に起因する怨霊の仕業という噂が流れたといいます。義勝の死により、弟・義政が第8代将軍に就任することとなりました。

 
 

同年9月、南朝の末裔の尊秀王が、公卿の日野有光と結んで宮中に乱入し、神璽宝剣を奪って延暦寺根本中堂に立て籠もりました。禁闕の変と呼ばれる事件です。この時、宝剣は取戻されましたが、神璽が行方不明となっています。そして、このことが嘉吉の変の後に幕府の追討を受けた赤松家の再興問題と絡んで再び問題になります。

翌1444年閏6月19日、美濃守護代・富島氏が守護・土岐家の京屋敷で謀殺されています。富島一族は管領・畠山持国に訴え出ますが、とり合ってもらえなかったため、やむなく近江に逃れています。既に美濃では斎藤家と富島家の並立状態が続いていましたが、これ以降、両家の抗争が続くことになります。同じ頃、一条兼良は自邸で『源氏物語』の講義を始めています。現代人が江戸時代の作品に触れるような感覚でしょうか。

 
 

同じ頃、安芸では毛利熙元が一族に惣領家の統制に従うという起請文を提出させています。結城合戦に見られるとおり、惣領と庶流の対立という時代になっていました。毛利惣領家の熙元は、大和在陣後も京に残って将軍に仕えるなどして、中央の将軍の権威を後ろ盾として一族の統制を図ろうとしていました。しかし、後ろ盾となるはずの将軍は赤松満祐によって犬死させられています。将軍権威が失墜すれば、一族が勝手な行動に走り出すことが想定されたため、引締めを図ったものと思われます。

 翌1445年3月、細川勝元が畠山持国に代わって管領に任じられています。将軍・義政は11歳、管領・勝元は16歳で、「少年支配」という指摘もあります。同じ頃、山名持豊は摂津有馬郡で前年10月に反乱を起こした赤松満政を討取っています。

また、渡島では安藤康季が軍勢を率いて津軽・西浜に上陸し、引根城を築いて反抗拠点としましたが、ほどなくして病死しています。出羽の湊安藤家も康季に呼応して雄物川沿いに南下し、仙北で南部義政の息子・光政の軍勢と戦っています。光政は義政の婿の葛西持信らの援軍の到着によって、かろうじて安藤勢を撃退しています。

2009年9月18日
津軽半島最北端・竜飛岬
(青森県)

 

この頃、上杉清方の死去によって山内上杉家は当主不在となってしまいました。既に出家している憲実は、次男・房顕のみ京で奉公させ、他の息子たちはすべて出家させ、自らが身を置いて苦労を重ねた関東の政界には1人も息子を出さないとの方針を固めています。この後の展開を知っている現代人には先見の明があるようにも見えます。しかし、この方針は2年後の憲忠の還俗によって破られることになります。幕府は後花園天皇の綸旨によって憲実に対して関東管領職への復帰を命じましたが、憲実はこれも拒否しています。

翌1446年、前管領・畠山持国に自身の加賀守護復帰を働きかけた富樫教家が死去しました。持国は引続き教家の息子・成春を支援しましたが、管領・細川勝元は泰高を支援しました。ここに、加賀は細川・畠山両家の代理戦争の舞台となったのです。

 北奥では、この年から翌年にかけて、湊安藤家と南部家の軍勢が男鹿川を挟んで対陣し続けたと伝わります。湊安藤家は、南部家との戦いに備えて津軽回復を目指す安藤政季を檜山城(能代市檜山)に招くことになります。なお、この年に一条兼良が太政大臣に任じられています。

 
 

翌1447年6月、京では一条兼良が関白に就任しています。太政大臣からの関白就任は異例のことで、兼良が日野重子の政治容喙に乗じたという指摘もあります。同じ頃、越後守護・上杉房朝の働きかけによって、持氏遺子・万寿王丸(14歳)が鎌倉公方に復帰し、また、上杉憲実の息子・憲忠(15歳)も還俗して山内上杉家を継ぐとともに関東管領にも就任しています。万寿王丸は元服して成氏と名乗り、永享の乱から約9年を経て、ここに鎌倉府が再興されたことになります。関東の政界に息子を出すつもりがなかった憲実は、憲忠を義絶して伊豆に退去し、政界から完全に引退することとなりました。

 ただ、永享の乱の際に幕府方についた小山持政は、鎌倉府の再興後は公方・成氏派に転じています。上杉家の家宰の長尾家や太田家は、永享の乱の混乱に乗じて関東各地で不動産侵奪に及んでいたようで、この年の春頃には梁田持助が長尾家の相模国長尾郷を押領するなど、上杉家及びこれに連なる勢力に対する反発が高まっておりました。特に、鎌倉幕府のもとで重きをなしてきた北関東の名家は、新興勢力の上杉家に対して強く反発していました。既に持氏の頃のような「京VS鎌倉」という対立軸は消滅していますが、これに代わって、新たに「歴史・実績ある北関東の名族VS新興勢力・上杉家」という対立軸が生じることになるのです。

 
 

鎌倉府が再興された頃、下総では結城合戦で滅亡した結城家も結城氏朝の遺子・成朝によって再興されています。しかし、成朝の鎌倉出仕の是非をめぐって、早くも鎌倉府内に出仕を認める公方・成氏派と、これに強く反対する長尾景仲ら関東管領派の対立が生じています。成朝の出仕自体は翌年に認められていますが、公方派と管領派の対立という構図は残ります。そして、幕府に助命嘆願をしつつも最終的に持氏を自害に追い込んだのは関東管領・上杉憲忠の父・憲実です。このような経緯が後に不幸な結果を招来することになります。なお、安芸ではこの年に武田家と藤原親胤の土地紛争に起因して、大内教弘と武田信繁の間に初めて武力衝突が生じています。

 1449年4月16日、将軍・義政の元服式が盛大に執り行われ、同月29日に征夷大将軍に任じられています。細川勝元は、このタイミングで一旦管領職を畠山持国に譲っています。

同じ頃、安芸では毛利熙元の息子・松寿丸も、山名持豊の次男・是豊から「豊」の字を貰い受けて「豊」元と名乗ることを許されています。かつて、毛利時親は元春を高師泰の麾下に入れることによってその庇護を得ています。熙元も、細川勝元と協調して畠山持国に対抗していた山名持豊の権勢を踏まえ、是豊の麾下に息子を送り込むことによって細川・山名連合の庇護を得ようとしたものと思われます。明徳の乱で凋落した山名家は、時熙の忠勤によって幕政の中心に復帰し、さらに嘉吉の変の後に播磨・美作守護も加えて中国地方において絶大な権勢を誇っておりました。しかし、後の戦国期において中国地方の覇者となるのは、この時に山名家の庇護を得ようとした毛利家なのです。ただ、あと100年ほどは山名家や大内家のもとで自家を保つ状態が続くことになります。

 

翌1450年1月、南部政盛が潮潟重季を攻めました。重季は討死し、政季は捕えられましたが、母の縁で政季の命は助けられています。政季は南部家から田名部に所領を与えられています。

同年4月、扇谷・山内上杉連合軍が鎌倉の公方・成氏邸を襲撃し、成氏は江の島に逃れました。上杉勢は七沢要害(厚木市)に立て籠もり、江の島の成氏勢と対峙します。同月20日の江の島合戦では、新興の関東管領・上杉家と公方・成氏率いる北関東の伝統ある名族の対立という構図がより一層明確になっています。軍事衝突自体は、上杉憲実の弟・道悦の調停により年内に一応終結しています。この時点での管領・畠山持国は公方・成氏寄りの立ち位置でしたから、かつてのような「幕府VS公方」という構図ではありません。持国は成氏に対して、上杉憲実を関東管領に復帰させるよう指示しましたが、憲実は既に諸国行脚の旅に出てしまっていました。

 
 

(2) 畠山家の内紛

管領・畠山持国は既に信濃や加賀に抗争の種を蒔いていましたが、同年6月、自らの家でも内紛の原因を作っています。持国は既に養子・弥三郎に家督を相続させると約束しておりましたが、実子・義就に対する情愛ゆえに約束を反故にして義就に相続させることを決めてしまいました。弥三郎を支援していた神保・遊佐らは、義就を除いて弥三郎を擁立するため謀議を重ねていくことになります。なお、前管領・細川勝元はこの頃に龍安寺を建立しています。

 同年9月1日、美濃守護代・斎藤宗円が、京の山名邸を訪問した帰り道で富島家の刺客に殺害されています。6年前には、守護代・富島氏が土岐家の京屋敷で殺害されています。

この年、山名持豊は南禅寺に塔頭・真乗院を建立しています。持豊は禅道帰依を装って「宗峯」と称するとともに、嫡子・教豊に家督を譲っています。持豊は後に「宗全」と名を改めています。翌1451年8月、毛利熙元も、山名家に接近させていた豊元に対して全所領の譲状を書いています。

 この年、かつての尾張守護代・織田郷広が、将軍・義政の乳母・今参局を通じて、現職の織田敏広に代わって守護代に復帰したいと願い出ました。最高権力者の周囲の人物との縁を頼って自らの願望を実現しようとする構図は信濃の小笠原家などと同様です。これを許した義政は、守護・斯波義健に対して守護代の更迭を命じました。しかし、義健は重臣の越前守護代・甲斐常治の反対によって更迭を拒否しています。さらに、今参局の政治介入が問題視され、今参局は一時期、京を追放されることになりました。

 
 

翌1452年11月、幕府の管領が公方寄りの畠山持国から上杉寄りの細川勝元に交代しています。この年、斯波義健が若年で死去して斯波宗家が断絶しています。守護代・甲斐常治によって庶流の斯波義敏が宗家に迎えられましたが、分家の義敏を侮ったのか、甲斐・朝倉・織田家らは義敏の命に従おうとはしませんでした。なお、長門ではこの年に上杉憲実が大寧寺に入ったと伝わります。

翌1453年3月、管領・細川勝元は、関東政界における公方派と関東管領派の対立に関し、関東管領・上杉家を支持する立場を公方・成氏に伝えました。この時、成氏から幕府へ連絡があっても、公私の区別なく、関東管領・上杉憲忠の副状のないものには返答しないと伝えています。関東管領の口添えがなければ公方は幕府からリアクションすら得られないわけですから、幕府は上杉家を通じて関東を統治するという姿勢を明確にしたことになります。このことが成氏の態度を硬化させることになりました。

 

2009年9月20日
深浦館跡(青森県)

北奥では、この年に(下国)安藤義季が本拠地・深浦から大浦に侵攻しましたが、南部勢に敗れて自害しています。義季残党は深浦に逃れ、深浦館を築いて拠点としています。

翌1454年4月、畠山家の重臣らによる弥三郎擁立のための謀議が露見したため、持国は遊佐国助らを派遣して謀議に与した者を襲わせています。この時、弥三郎は細川勝元邸に逃れ、遊佐長直・神保宗右衛門らは山名宗全邸に逃れ、神保越中守は討死しています。細川・山名連合は、畠山家の弱体化のために分裂を煽っていたようです。持国は弥三郎追討の兵を挙げましたが、細川・山名連合は弥三郎支持にまわり、畠山家の家臣の多くも弥三郎を支援しました。同年8月21日、弥三郎方は持国邸を襲撃し、屋敷に火を放ちました。畠山義就は遊佐国助の助けで伊賀に逃れ、持国は建仁寺の塔頭・西来院に引き籠りました。

 

2009年9月16日
恐山(青森県)

同じ頃、渡島では、(下国)安藤家が田名部の安藤政季を宗家に迎えています。この時、武田信広・相原政胤及び河野政通の3人が政季に安藤宗家の継承を説いたうえで、政季とともに渡島に渡ったと伝わります。武田信広は、大和で一色義貫を謀殺した功により若狭守護に任じられた武田家の人物ということになっておりますが、真相は若狭から蠣崎に来ていた昆布商人という指摘もあります。

 茂別館に入った政季は、一族・重臣らを12の館に配置して現地支配体制を整備します。茂別館を中心とする「下の国」には下国家政を、大舘中心の「松前」には下国定季を、花沢館中心の「上の国」には蠣崎季繁を配置して各地域を任せました。下国安藤家はアイヌ社会への物資供給を統制することによってアイヌの「和人」に対する従属度を強めていくことになります。本州とは異なり、渡島では民族対立という要素も高まっていくのです。

同年9月、細川・山名連合が将軍・義政に願い出たことにより、弥三郎が畠山家の家督を継ぐことが決定しました。加賀でも富樫成春が失脚しています。畠山家の家督争いの過程で力を削がれた畠山持国と、畠山家の追い落としのために協調した細川・山名連合の対立が高まっています。

 この年の冬頃、細川成之の将軍・義政に対する働きかけにより、嘉吉の変の後に討伐を受けた赤松満祐の甥・則尚を幕府に出仕させ、播磨・摂津の所領を与えることが決まりました。この決定には、赤松家に播磨守護・山名宗全を牽制させる狙いがありました。応永の乱の後に大内盛見が追討を受けた際にも、明徳の乱で凋落していた山名家に大内家を牽制する役割が与えられています。この決定を知った宗全は義政を深く恨みましたが、義政においても、畠山家の家督争いの頃から宗全の驕慢を疎んじるようになっていました。そして、畠山弱体化のために山名家と協調してきた細川家においても、成之が宗全の恨み言を逐一義政に讒言するようになっています。中国風に言えば、義政と宗全の間に離間の計を用いたといえましょう。

 
 

同年11月2日、将軍・義政は山名宗全の追討を決定し、赤松則尚に播磨の旧赤松領を攻めさせようとしました。しかし、追討軍の主力となるはずだった細川勝元は、義理の父・宗全を見殺しにはできないとして、幕府軍を抜け出して東山の五大堂に籠ってしまいます。これにより、義政は宗全追討を諦めましたが、翌12月3日、宗全に対して嫡子・教豊に家督を譲って隠退するよう命じています。毛利豊元が偏諱を受けた山名是豊も、この時に出仕を認められています。宗全は一応但馬に帰国しましたが、これは名ばかりの隠居にすぎませんでした。

(3) 享徳の乱

同年12月27日、公方・成氏が関東管領・上杉憲忠を鎌倉・西御門第に招いて謀殺しています。幕府が上杉家支持の立場を明確にしたことで公方・成氏が焦燥を募らせていたことに加え、新興・上杉家の勢力伸長に対する関東諸氏の不安や反感が高まっていました。憲忠の殺害によって鎌倉府における公方派と関東管領派の対立が決定的となり、30年近くにわたる享徳の乱が始まることになります。応仁の乱よりも前に、関東では既に戦国時代の先駆けともいえる状況が生じていたことになります。将軍・義政は、今川範忠(駿河守護)・小笠原光康(信濃守護)・上杉房定(越後守護)らに対して公方・成氏討伐を命じています。成氏はこの後、約25年間にわたり「享徳」年号を使用し続けています。

 
 

翌1455年1月、京に現れた立札が民衆の間で大評判になっています。立札には「けだし政は三魔に出づるなり。御今・有馬・烏丸なり」と書かれており、「三魔」とは、烏丸資任・有馬持家、そして、かつて政治介入が問題視された今参局です。建武の失政の際も二条河原の落書きが評判になっています。京では将軍と宗全の対立や畠山家の内紛、関東では公方と上杉家が対立している状況下において、民衆も社会不安を肌で感じ取っていたのではないでしょうか。

公方・成氏勢は、同月6日の分倍河原の戦いで、(扇谷)上杉顕房・(犬懸)上杉憲秋という両大将を討死させるなど優勢に戦いを進めますが、幕府の追討軍が編成されると、関東の名族のなかからも千葉胤直や宇都宮等綱など上杉派に鞍替えする者が現れました。畿内では、同年2月に畠山義就が将軍・義政から弥三郎追討の許しを得ており、畠山家の内紛も再燃しています。翌3月、内紛の種を蒔いた畠山持国が死去しています。成氏は常陸小栗城に逃れていた長尾景仲勢を同年5月中旬に駆逐した後、小山持政の下野小山城に入っています。

 同月、千葉家重臣で公方・成氏派の原胤房が、千葉胤直の千葉城を攻略しています。

 
 

こうした社会不安のもとで、翌4月25日、三条西実隆が今出川武者小路邸で生まれています。

同年5月、山名宗全は赤松則尚の攻撃を受けている政豊を援けるため、但馬を出陣して播磨に向かいました。援軍の到着によって赤松勢は総崩れとなり、則尚も討死しました。則尚に播磨を取らせて山名家を牽制させようとした細川家の思惑は外れたことになります。将軍・義政による宗全追討の際は五大堂に籠ってしまった勝元も、一族の意向に押されて次第に宗全と距離をおくようになります。

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同年6月、河内で畠山義就と弥三郎の間で戦闘が始まりました。将軍・義政は畠山義統(能登守護)ら北陸の軍勢なども動員して義就を支援しましたが、分国・河内のほか紀伊・大和からも援軍を得た弥三郎が大勝しています。義就は幕府に援軍を求めましたが、義政は細川勝元のとりなしによって弥三郎を赦免し、畠山家の和解を志向することになります。しかし、義就は弥三郎の弟らを捕えて殺害するとともに、大和において筒井順永と対立していた越智家らを味方に引き入れて抗争を継続しました。畠山家の内紛によって、この頃から大和でも筒井家ら弥三郎派と越智家ら義就派の戦闘が激化していくことになります。

 同年6月16日、今川範忠の軍勢を中心とする幕府軍が鎌倉を攻略し、公方御所や神社仏閣に火を放ちました。幕府軍の攻撃によって鎌倉は荒廃してしまいましたが、後に伊勢盛時が「武家の都」の再興に尽力することになります。伊勢盛時をご存じない方でも、「北条早雲」と聞けばおわかりになるはずです。

 
 

(4) 古河公方と堀越公方

鎌倉を追われた成氏は古河に御座所を移し、なお公方としての地位を主張し続けます。それゆえ、これ以降は鎌倉公方の表記を「古河公方」に改めることとします。この頃の公方・成氏派の主力は、鎌倉幕府で重きをなした北関東の名族である小山家や結城家です。この年、中央では「康正」に改元されていますが、古河公方は「享徳」を使用し続けています。もはや成氏を公方と認めていない幕府は、新たに足利政知を公方として鎌倉に下向させることになります。

しかし、政知は伊豆まで来たところで、古河公方の勢力が根強く、これ以上進むのは危険と判断して堀越(韮山)に御所を築いて滞在することにしました。かくして、関東に古河公方・成氏と堀越公方・政知という2人の公方が並立することになるのです。

2010年8月1日
伝・堀越御所跡
(静岡県)

 

同年8月、京では将軍・義政が日野富子を夫人としています。この婚姻については、義政の母・重子と結託した勝光の働きかけによるものだった可能性が指摘されています。勝光は、夫人決定の日、権大納言に昇進しています。

 同じ頃、下総では原胤房・馬加康胤らが志摩・多古両城を攻略しています。上杉派の千葉胤直父子は自害し、鎌倉幕府草創期の千葉常胤以来の名族・千葉宗家が滅亡しました。これ以降は、馬加康胤が下総千葉氏を称しています。同年10月15日、公方・成氏は木村原の合戦で宇都宮勢を破り、宇都宮城に迫りました。同月、宇都宮家は成氏に降伏しています。千葉宗家は滅亡しましたが、宇都宮明綱や紀清両党は成氏に降伏することで自家を保ちました。「上杉派VS古河公方派」という対立軸のもとで、この時代の宇都宮家もかつての公綱と同様、幕府が成氏追討軍を派遣した頃に上杉派に転じ、後に古河公方勢に攻められれば降伏して公方派に転じています。

 この年、甲斐では武田信守が死去しています。信昌が家督を継ぎ、守護代の跡部明海・景家父子が信昌を補佐しています。信昌・信純・信虎の3代の頃の武田家は、甲府の躑躅ヶ崎館ではなく石和館を居館としていたと考えられています。

その頃、若狭の武田本家・信賢は、小浜湊から商船を明に派遣して文化の吸収に努めています。また、後に若狭の文化的発展に寄与することとなる武田元信の生年については争いがあるようですが、この年と考える立場もあるようです。

2009年2月23日
人魚の像
(福井県小浜市)

 

武蔵では、この年に扇谷上杉家宰・太田道真が家督を資長(道灌)に譲って隠遁し、自得軒で歌道を楽しむ生活に入っています。

(5) コシャマインの乱

翌1456年春、渡島の志濃里で異民族が安藤家に対して反乱を起こしました。アイヌの少年が鍛冶屋に注文していた小刀を取りに来たところ、その出来や価格をめぐって口論となり、鍛冶屋がその小刀で少年を刺殺してしまいました。これに激怒したアイヌが蜂起したのです。この騒乱はコシャマインの乱と呼ばれています。

2009年9月17日
元町公園から
(北海道函館市)

 

同年5月、越前では甲斐常治によって擁立された斯波義敏が、常治の専横に対する不満から、常治の弟・近江守らの支援を得て常治の専横を幕府に訴え出ています。近江守は兄・常治と実権をめぐって争っていたようです。義敏の訴えを審理した結果、将軍・義政は兄・常治を処罰しようとしました。しかし、常治は伊勢貞親の妾となっていた妹を頼って貞親に泣きつきました。貞親は義政に対して義敏に関する讒言を行い、訴えを審理してきた幕将らも義政の意を忖度したのか、常治に有利な答申を行いました。近江守は幕府要人との縁によって審理の結果を覆されたことに憤慨し、出仕を拒否して斯波家の菩提寺である東山の東光寺に籠ってしまいました。家臣らも常治派と近江守派に分裂して緊張が高まっています。

同年秋頃、北奥では安藤政季が秋田湊の安藤惟季の招きに応じて檜山に渡っています。この時から檜山安東家の歴史が始まったとされています。政季の檜山入りによって南部家に緊張が走り、出羽は南部・葛西連合軍と湊・檜山安東連合軍による北奥の覇権をめぐる全面戦争に突入することになります。この戦いでは安東家の軍勢に多数の異民族が動員されています。この頃、南部光政が雄物川戦線で湊安藤勢と戦っていますが、この時に援軍として赴いた葛西信政が討死しています。同じ頃、武蔵では上杉房定も関東管領・上杉房顕を援けて公方・成氏勢と岡部原で戦っています。

2009年9月19日
田沢湖(秋田県)

 

美濃ではこの年に土岐持兼が死去し、美濃でも亀寿丸派と一色成頼迎立派の対立によって国が割れることになりました。この対立は成頼迎立派が勝利を収めましたが、成頼を支持した斎藤利永の息子の妙椿・利藤兄弟が実権を掌握することになります。後の応仁の乱では、成頼と利藤は西軍に与して上洛し、妙春は美濃に残りましたが、この頃から兄弟の仲が悪くなり、やがて成頼の後継問題に発展していきます。

上総では、この年に武田信長が真里谷・庁南両城に入っています。これが真里谷武田家の始まりといわれています。

2009年3月16日
真里谷城址
(千葉県木更津市)

2009年9月20日
津軽のりんご
(青森県)

翌1457年2月、出羽に続き下北半島でも南部家と安東家の戦闘が始まっています。この戦闘に勝利した南部家は、現在の岩手県北部、青森県東部から津軽内陸部、鹿角・仙北方面にまで所領を拡大したことになります。(八戸)南部政経は、安東家残党が多く潜んでいた下北半島の田名部を攻め、これにより同地の安東勢が渡島に追われています。南部家との抗争の過程で「和人」が現在の北海道に多く渡ったことで、以前から渡島に存在した異民族の社会も和人派と反和人派に分裂していきました。

同年3月、安芸では大内教弘が武田攻めを再開しています。若狭の武田信賢が安芸に赴いたため、厳島神主・親春が義父・大内教弘に支援を要請したことが大内家と武田家の軍事衝突につながりました。やがて、大内勢は武田家の金山城にも迫りましたが、管領・細川勝元が吉川・毛利家らに信賢支援を命じたため、落城は免れています。

 
 

同年4月8日、扇谷上杉朝定の命により、古河公方・成氏との戦いに備えて太田道灌が築城していた江戸城が完成しました。道灌の築城法は「道灌がかり」と呼ばれています。道灌はこれ以降、約30年にわたり江戸城を本拠地としています。「兵は静をもって勝」(『尉繚子』)を信条としていた道灌は、城内に静勝軒という館を築いています。

 同年4月28日、白河直朝が将軍・義政から公方・成氏討伐のための軍勢催促を命じられています。かつて稲村・篠川両御所を「母として」支えた白河家はやがて幕府側に与することとなりましたが、この頃も南奥における幕府側の中心勢力として指導的立場を認められていました。白河家が支えるべき相手は、堀越公方・政知や関東の幕府方諸将です。

同年5月、渡島ではアイヌの酋長・コシャマインが渡島半島のすべてのアイヌを動員して安東家の館を攻めています。アイヌ勢は志濃里・函館を攻略して安東家政の茂別館を包囲したうえで、別動隊がその他の館も次々と攻略した末に松前の大舘を包囲しました。松前の下国定季は花沢館の蠣崎季繁に援軍を求めましたが、援軍はアイヌの伏兵に敗れて定季は生け捕られました。アイヌ勢はさらに花沢館も包囲しています。

2009年9月17日
函館(北海道函館市)

2009年9月17日
北海道第一歩の地碑付近
(北海道函館市)

同年6月20日、武田信広は反乱を率いてきたコシャマインを七重浜に誘き出して謀殺しました。指導者の死によって乱は一応終息しましたが、これ以降16世紀半ば頃まで異民族との民族紛争が断続的に続いていくことになります。蠣崎季繁は、乱後にコシャマインを謀殺した武田信広に娘を与えて自らの嗣子としました。「武田」を自称してはいますが、実際は若狭からやってきた商人にすぎなかった信広が、安東家の渡島支配体制を担ってきた蠣崎家を継ぐことになったのです。

(6) 南朝遺臣の乱

同年10月、吉野の大台ヶ原山に潜伏していた南朝の末裔を自称する自天王・忠義王兄弟が、14年前の禁闕の変の際に行方不明となっていた神璽を奉じて南朝遺臣らとともに金峯山寺を襲撃しました。事件後、赤松家再興運動を続けていた者に対して、「自天王・忠義王を討って神璽を取戻せば、赤松家の再興を認める」という後花園天皇の綸旨が下りました。

2009年10月10日
大台ヶ原山
(奈良・三重県境)

2009年10月10日
瀞峡
(奈良・三重・和歌山県境)

同年12月、赤松旧臣らは自天王・忠義王を殺害して神璽も一旦取戻しましたが、その後に神璽を十八郷の土地の者に奪われました。翌年8月、土地の者から神璽を騙し取って帰京しています。これにより、赤松家は再興を認められ、赤松満祐の弟・義雅の孫・政則が畠山家という後ろ盾を失った富樫成春の後の加賀半国守護に任じられました。さらに、政則は備前・出雲及び伊勢にも所領を与えられていますが、これには管領・細川勝元による山名宗全牽制策の一環という見方もあります。

翌1458年2月29日、将軍・義政は管領・細川勝元らの諫言により、越前の斯波義敏と甲斐常治を和解させました。斯波義敏は、ようやく東光寺を出ています。同年3月27日、義政は公方・成氏派の東上野の岩松持国に対して帰参を求めています。岩松宗家の説得もあり、同年5月15日、持国は幕府方に帰参しています。しかし、敵の支持勢力に手を突っ込んだ寝返り工作の成功により、関東における上杉派と成氏派の緊張が高まっています。同年7月、越前でも斯波家と甲斐家の対立が再び激しくなり、合戦となっています。

 この頃、甲斐でも守護代・跡部景家の専横が目立ってきています。同年8月、景家は塩山の向岳寺に寺領安堵状を発しており、幼君・武田信昌を軽視しているようにも受け取れます。同月、京では山名宗全が将軍・義政から赦免されて再び幕政に関与するようになっています。義政は宗全の傲慢さを嫌いつつも、その実力を無視できなかったという指摘もあります。

 
 

同年11月下旬、越前の斯波義敏が古河公方・成氏討伐のために京を発ちました。既に同年6月から斯波義敏と甲斐家には成氏討伐命令が下っていたのですが、双方とも出陣を渋っており、ここにきてようやく出陣したのです。しかし、義敏の軍勢は越前の戦況を窺うかのごとく、近江まで進んでからは動こうとせず、そのまま同地で越年しています。

翌1459年1月、日野富子が将軍・義政との間の長男を生みましたが、この男児はすぐに死んでしまいました。この後、「今参局に呪い殺された」という風説が流れ、息子の死に落胆していた義政は、この風説を信じて今参局を琵琶湖の沖ノ島に流したうえで殺害しています。義政の堕落と諸将の対立に乗じて、この頃から日野勝光・富子兄妹が権勢をふるい始めることになります。

 
 

同年2月、越前では斯波家と甲斐家の和平交渉が決裂して合戦が再開されています。翌3月、隣国の美濃の土岐益忠も所領を守護方に奪われてしまったと幕府に訴え出ており、守護代・斎藤家と守護・土岐家の対立が窺えます。守護代は中央政界に身を置く守護家の当主の代理として現地を支配する存在のはずですが、在国している時間が長ければ、それだけ地元の事情にも精通してきますし、人的つながりも生じてきます。他方で、守護家が身を置く中央政界では将軍謀殺を筆頭に、不毛な権力闘争が続いています。実力をつけ、心も離れた守護代による下克上が多数生じる世の中になってきています。今日においても、地元の秘書に軒を貸したら母屋を奪われたというケースも生じています。

同年5月、近江で進軍を止めていた斯波義敏は、公方・成氏討伐のために進軍させていたはずの軍勢を敦賀城に向かわせ、海陸両面から攻撃しましたが、暴風によって船が沈んで約800人が溺死したと伝わります。将軍・義政は義敏の命令違背に激怒し、近江・加賀・能登・越中の軍勢を動員して義敏を討伐させることを決めました。

 翌6月、赤松家の再興を認められた赤松政則は、備前に与えられた所領を接収しようとしましたが、これを拒否する備前守護・山名教之との間で武力衝突が生じました。将軍・義政は赤松政則を支持して山名家に所領の引渡しを命じています。宗全は、政則が半国守護に任じられた加賀においても、富樫成春を支援して政則の加賀入国に抵抗させています。

 

2009年2月23日
一乗谷朝倉氏遺跡
(福井県福井市)

同年8月11日、越前で斯波派と甲斐派の最終決戦が戦われ、甲斐派が大勝しています。この時、一乗谷から出陣した朝倉孝景が大活躍したと伝わります。斯波義敏は既に命令違背によって親交のあった大内教弘の周防に隠退しており、また、甲斐常治も7月に死去し、常治の息子・敏光には常治のような力はありません。さらに、孝景は斯波家との抗争を通じて、敵対していた叔父・将景の勢力を一掃することにも成功しています。漁夫の利を得たとも言い得る孝景は、これ以降、一乗谷を拠点として勢力を蓄えていくことになります。

朝倉孝景の越前平定戦によって越前を追われた勢力の逃亡先として、越前と同じく斯波家が守護を務めていた尾張・遠江が選ばれたケースが多かったであろうという推測もなされています。そして、越前から逃れた者のなかには、山内一豊の先祖も含まれていた可能性が指摘されています。

 
 

同年10月、関東では上杉房定が関東管領・上杉房顕を援けて古河公方・成氏勢と武蔵や上野で激戦を繰り広げています。翌11月、山名宗全は、赤松家の再興を幕府に働きかけた石見太郎を部下に殺害させています。備前での紛争の原因をつくったということでしょうか。この年、畠山家では畠山弥三郎が死去し、弟・政長が擁立されています。管領・細川勝元は、政長を支援する一方で、義就の立場を悪くするための工作活動を次々と打ち出しています。

 このように、室町幕府は「幕府」とはいいますが、8代将軍・義政の頃になっても全国各地で戦乱が絶えませんでした。そして、この後には戦国の世の到来を告げる応仁の乱が勃発することになります。この年の末頃、将軍・義政は次のような和歌を作っています。

   さまざまの 事にふれつつ なげくぞよ

             道さだかにも をさめえぬ身を