南北朝期11 ~嘉吉の変~

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45 嘉吉の変

 

同年6月24日、赤松満祐(播磨・備前・美作守護)が将軍・義教を自邸に招いて殺害しました。その場に居合わせた山名熙貴・京極高数・大内持世も殺害されています。いわゆる嘉吉の変です。赤松家は、幕府草創期に播磨で新田義貞を足止めした円心の家です。しかし、最晩年の義持からは播磨守護を剥奪され、将軍・義教からも何度も不利益処分を受け続けてきました。そもそも、歴代将軍が有力守護の力を削ごうとしてきた目的は、将軍権力を確立することにありました。しかし、将軍が白昼堂々、家臣の手にかかって犬死したことで、かえって将軍権威が失墜することになりました。そして、応仁の乱へとつながっていくのです。

近江では、嘉吉の変で京極高数が殺害されたため、持清が京極家を継いでいます。道誉の再来とも呼ばれる持清の代で京極家は全盛期を迎えます。周防では大内持世が変から約1ヶ月後に死去したため、教弘が家督を継いでいます。この教弘が、後に雪舟を山口に招くことになります。常陸では、結城合戦の敗残兵らとともに太田城で抵抗を続けていた佐竹義憲が、嘉吉の変に伴う攻撃中止によって窮地を脱しています。北奥では、嘉吉の変に伴う幕政の混乱に乗じて、南部義政が再び安藤家の福島城を攻めることになります。

 

2009年11月7日
白旗城址周辺
(兵庫県)

赤松満祐は将軍殺害後、直ちに一族被官を伴って播磨に帰国し、木ノ山・白旗両城の防備を固めて迎撃態勢を整えています。幕府は協議の末に義教の嫡子・義勝を将軍に擁立することを決めるとともに、翌7月11日から赤松追討軍を播磨に派遣し始めます。関東は結城合戦が終わってからまだ日が浅いですが、幕府は関東のことは上杉憲実に任せることにしました。持氏を殺害して以来、憲実は隠退を希望してきたのですが、将軍謀殺による幕政の混乱によって鎌倉に残らざるを得なくなってしまいました。

同月25日、幕府軍と赤松軍の間で戦闘が始まりました。しかし、幕府軍の士気は上がりませんでした。赤松満祐が義持から播磨守護を剥奪された際も、諸将は赤松擁護にまわっています。その後の将軍・義教による不利益処分も当然知っています。追討軍の細川持常は、赤松満祐と親しい間柄でもありました。歴代将軍から理不尽な処分を受けてきた赤松家に対する同情もあったかもしれませんが、むしろ、このような処分がまかり通れば、ひいては自分たちの利益も守れなくなるという気持ちがあったと思われます。義教の死に、内心安堵していた人物がいた可能性すら指摘されています。

2009年11月7日
白旗城址周辺
(兵庫県)

 

このような状況下においてなお士気が高かったのは、嘉吉の変で山名熙貴を殺害された山名家でした。山名家と赤松家は四職の家柄同士で、互いに張り合ってきたことに加え、赤松家の美作は山名家が明徳の乱で切り刻まれた旧領でした。山名持豊は単に士気が高いだけではなく、この頃から傲慢な態度も目に付くようになっています。同月28日、山名持豊は軍勢を率いて但馬から播磨に侵攻しています。翌8月中旬頃までには、美作全域の赤松勢を駆逐しています。翌9月5日、持豊の軍勢は赤松満祐が張陣していた書写山まで進んでいます。事ここに至り、ようやく細川持常も赤松攻めに本腰を入れることになります。

武田家の信賢・信重も、幕府から赤松追討軍への参加を命じられています。信賢は討伐軍の一員として播磨に赴きましたが、その後は若狭の一色残党の討伐に戻っています。毛利熙元も宍戸家とともに播磨に出陣していますが、到着した頃には既に赤松討伐は終了していました。赤松討伐軍に参加はしたものの、この頃の熙元の主要な関心事は安芸における馬越家との所領争いであったようです。同年閏9月、幕府軍は京に凱旋しています。

 
 

翌1442年1月、赤松討伐戦で気を吐いた山名持豊は幕府から播磨・石見守護を与えられ、山名家は合計10ヶ国を領有することとなりました。うち9ヶ国が中国地方の国です。明徳の乱後の凋落を経験した後、再び往時に匹敵する勢力に成長したことになります。他方、同年6月には管領・細川持之が辞任し、畠山持国が管領に就任しました。そして同年8月4日、細川持之が死去し、勝元(13歳)が家督を継ぎました。細川家はこの時点で摂津・丹波・讃岐・土佐など9ヶ国の守護に任じられています。かくして、応仁の乱の前提が整ったことになります。

この年、信濃では守護・小笠原政康の死去により嫡男・宗康が家督を継いだものの、政康の甥の持長が相続権を主張して幕府に訴え出ています。幕府は持長の主張を排斥しようとしましたが、持長は畠山持国の妻を頼って持国に自分が相続できるようにして欲しいと依頼しました。持国はこれを承諾し、判決を歪曲して持長の家督相続を認めました。これにより小笠原家や家臣らが分裂して抗争に発展し、宗康の討死後も弟の光康が抵抗を続けたため、信濃では戦乱が続くことになります。ここでも、幕府は相続問題においてあえて無理筋な側に肩入れすることによって守護家の内紛を煽っています。