南北朝期10 ~結城合戦~

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44 結城合戦

2009年3月13日
結城城址
(茨城県結城市)

翌1440年3月3日、下総の結城氏朝ら旧公方派が、持氏の遺児である安王丸・春王丸・永寿王丸を擁立して、常陸木所城で挙兵しました。いわゆる結城合戦の勃発です。永享の乱で公方・持氏に与した結果として下総守護職を小山持政に奪われた結城氏朝としては、持政を討たなければこれを取戻せない状況でした。他方、小山持政においても、氏朝の挙兵をいち早く幕府に伝えるとともに、結城攻撃の先陣を務めています。同月21日、安王丸の軍勢は結城城に入り、さらに、惣領と庶流の対立という時代背景を反映して、家督を追われた宇都宮家綱らも一族を割って結城城に結集しています。

翌4月2日、幕府は上杉憲実の弟・清方に出陣を命じました。伊豆の国清寺に入っていた憲実は、幕府から政務復帰を強く要請されたため、同月6日、伊豆を発ち鎌倉・山内に戻っています。幕府は、「遅滞すればこれまでの忠も無に帰する」と伝えており、「要請」というよりは「脅し」に近いともいえます。越後守護代・長尾邦景の息子・実景も、越後の軍勢を率いて結城城に向かっています。駿河からは今川範忠が参陣し、甲斐守護として帰国していた武田信重も、永享の乱の際に出陣したかは不明ですが、結城合戦では討伐軍に加わっています。翌5月には憲実も出陣しています。

 
 

同じ頃、大和では安芸武田家に転機が訪れていました。同月15日、将軍・義教の命を受けた武田信栄が、大和の陣で一色義貫(若狭・三河・丹後守護)を殺害しました。信栄らは義貫を朝食に招いたうえで斑鳩の陣中で謀殺したと伝わります。信栄は義貫謀殺の功により義貫亡き後の若狭守護に任じられるとともに、父から安芸分郡守護職も継承しています。

 同年6月29日、信栄は若狭に入国しました。その後、一色家の残党を掃討して小浜湊を抑えましたが、義貫謀殺の際に重傷を負った信栄は、翌7月23日に死去しました。信栄の弟・信賢が若狭武田家を継ぎ、安芸・甲斐を支配してきた武田家の本家が若狭に移ることになりました。後年、安芸の吉川家が若狭に出陣したり、若狭の白井家が安芸に出陣するといった人的資源の融通も行われています。なお、信栄は建仁寺に塔頭・十如院を造っていたことから、若狭武田家から建仁寺の住職が多数輩出されることになります。

また、義教は土岐持頼(伊勢守護)の追討も命じており、多武峯で持頼を自害に追い込んだ際には、安芸の毛利熙元も負傷しながらも奮戦しています。熙元もこの時の軍功により父から譲られた安芸の所領を安堵されています。持頼の死は美濃の土岐・西池田家にとっては脅威の消滅という意味があったという指摘があり、持頼追討命令も西池田家の策謀であった可能性が指摘されています。

 熙元は3年間の大和在陣後も安芸に帰国せず、そのまま在京していますが、これには義教による惣領すげ替えを恐れて在京奉公に努めていたという指摘があります。この年の3月、義教はまたも赤松満祐の弟・義雅の所領を没収しています。遠くにいたら何をされるかわからないという危機感があったということでしょうか。「京VS鎌倉」という対立軸は一応消滅しましたが、諸将の間には将軍・義教に対する不安感が漂っていたようです。

 
 

翌6月、安王丸らに呼応した石川持光が、以前から公方への野心を露にしていた篠川御所・満直を攻め殺しています。稲村満貞は既に持氏とともに鎌倉で自害していますから、旧鎌倉府の奥州出先機関として設置された稲村・篠川両御所が消滅したことになります。

翌7月末、幕府の軍勢が結城城を包囲しました。翌1441年4月16日、上杉清方は結城城に総攻撃を仕掛け、結城城は落城しました。結城氏朝・持朝父子は自害したため下総結城家は滅亡し、持氏の遺児3人も捕えられました。宇都宮家では、庶流の家綱が討たれたことで等綱が家督を確保するなど、惣領と庶流の戦いに決着がついたという側面もありました。敗北した結城勢の多くが佐竹義憲の太田城に逃れており、義憲は敗残兵とともに太田城で抵抗を続けることになります。

2009年3月13日
結城城址
(茨城県結城市)

結城落城の際、結城に与していた里見家基は嫡子・義実を逃がし、自身は戦場に留まって討死しています。義実は相模の三浦に逃れた後、石橋山で敗れた後の源頼朝とは上陸地点こそ違いますが、やはり船で安房の野島埼に逃れています。これが房総里見家の始まりで、その後、里見家が15世紀後半までに安房を統一したと考えられています。

 後年、この里見家は江戸幕府のもとで伯耆に移され、同地で断絶することになりますが、最後の当主・忠義の死去から約3ヶ月後、忠臣8人も殉死しています。この8人の戒名にはいずれも「賢」の文字が入れられたため、「八賢士」と呼ばれることになりました。滝沢馬琴が著した『南総里見八犬伝』は、この房総里見家の断絶の経緯から着想を得たものと思われます。

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同年5月16日、結城合戦を契機として将軍・義教の信頼を得て、戦後も持氏の遺児を護送する任務に就いていた長尾実景が、将軍・義教の命により、垂井の金蓮寺で安王丸(13歳)と春王丸(12歳)を殺害しました。結城合戦に勝利した義教はますます独裁色を強めており、義教の機嫌を損ねた者からは惣領職を取りあげて一族の他の者に与えるという内部干潮を続けておりました。同年1月には管領・畠山持国を追放してその弟・持永に畠山宗家を継がせ、同年3月には安芸の小早川家の惣領を熙平から有力庶家の竹原盛景に変更し、さらに同年6月には加賀守護・富樫教家から所領を奪って弟・泰高に与えておりました。一般に、「下克上の時代」という言葉は、応仁の乱以降の戦国時代という意味で用いられていると思われますが、このような経緯のもとで、戦国時代が始まる前に、これ以上ない下克上が生じることになります。