南北朝期1 ~第2の武家政権へ~

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34 建武の新政

 

(1) 問題の所在

 1333年6月5日、後醍醐天皇は京に戻り、天皇親政に向けて始動します。新政権による恩賞第1号として、天皇は討幕における軍功第一の足利高氏を鎮守府将軍に任じました。奥州藤原氏らが任じられてきた「鎮守府将軍」であって、坂上田村麻呂や源頼朝以降の鎌倉将軍が任じられてきた「征夷大将軍」ではないところが重要です。天皇親政を志向する天皇と、第2の武家政権の開府を志向する足利高氏の妥協の産物としての鎮守府将軍補任でした。また、高氏は天皇の「尊治」という名前から一字賜り、足利「尊」氏と名乗ることとなりました。

 しかし、天皇の皇子の立場から幕府の開府を志向していた護良親王が、尊氏の鎮守府将軍補任に強く反発します。同月12日、天皇は尊氏を従四位下・左兵衛督(さひょうえのかみ)に、直義を左馬頭に任じつつ、護良親王を征夷大将軍に任じることにより両者の均衡を保とうとしました。「両雄並び立たず」という言葉もありますが、新政開始後間もない京に、鎮守府将軍と征夷大将軍という2人の将軍が並立することになったのです。この人事は尊氏派と親王派という対立軸を自ら作り出す結果となりました。討幕に参加して北条家に勝利した陣営は、早くも尊氏派と親王派の2派に分裂し、護良新野は大和の信貴山に兵を集めて尊氏に対抗しようとしています。

 天皇は建武の新政において、鎌倉期に失った政治の実権を京に戻そうとしています。鎌倉幕府は、大江広元の建議によって武家政権の統治機構として守護・地頭制度を全国展開しました。これにより、従来の王朝型統治機構は有名無実化が進行し、京の貴族の権威の拠りどころは歌道など文化的素養に求められることとなりました。

 しかし、天皇は約150年間続いてきた守護・地頭制度の存在自体はこれを承認しつつも、王朝型の国司制度にも権限を復活させて、幕府型の守護・地頭制度と並置したのです。武力行使に関する権限を守護に残しつつも、公家のなかから各国の国司を選任したうえで「介」にも国司を補佐させました。さらに、守護は地頭を監督しますが、地頭との関係でも国司の決裁が必要になるという形でその権限が制約されることとなりました。

 ただ、公家から国司を起用することにしても、鎌倉幕府の開府以来、約150年間もの長きにわたり、公家は政務から離れていたのです。現場の実情に疎い人物が政務に携わることになれば、政治に混乱をきたすことは容易に予想されるところです。そして、政務の稚拙さに起因して土地紛争などで誤判が生じれば、父祖以来の土地を「一所懸命」に守ってきた武家の期待に応えられなくなります。

 

2009年2月11日
広島県安芸高田市
吉田町吉田

国司の権限の復活は、統治機構内部の二重権力という問題を孕むものですが、武家の土地保全欲求との関係では間接的なものとも理解できます。しかし、武家の新政権に対する期待をより直接的な形で裏切る政策が発布されました。それが、個別安堵法です。綸旨によらない土地の安堵を認めないということですから、武家政権に「奉公」すれば「本領安堵」・「新恩給付」を受けられるという、かつて頼朝が大磯で宣言した仕組みは認めないということでしょう。

 翌7月、個別安堵法は武家らの激しい不満によって早くも改正され、安堵権限を諸国の国司に委ねたうえで、同法の適用を旧北条家及びこれと関連する所領に限定しました。これにより、討幕に参加した者らの所領は従前どおり安堵するという現実的な結論に落ち着いたようにも見えます。しかし、この時代は後醍醐天皇や足利・新田・楠木らの動きばかりが注目されがちですが、実は新政の船出の陰で不条理が発生していたのです。(南条)毛利家が有していた安芸国吉田荘の地頭職が新政権に取り上げられ、後醍醐天皇の寵臣である美乃判官全元に与えられてしまったのです。

毛利家からは船上山からの天皇の綸旨に応じて親衡が討幕軍に馳せ参じていたはずですが、吉田荘が毛利家を離れて天皇の寵臣に与えられてしまったことに合理的理由はあるのでしょうか。千葉常胤は、頼朝の挙兵を支えることを通じて相馬御厨を取戻しました。南部家は従兄弟との土地紛争を解決するために新田義貞の討幕軍に加わりました。そして、毛利時親は吉田荘を取戻して毛利家の将来を切り拓くために、足利尊氏との接触を図ることになるのです。

2009年2月19日
船上山周辺
(鳥取県)

 

また、鎌倉期は頼朝に対する非協力態度が原因で低い立場におかれた常陸の佐竹家も、討幕成功後に尊氏から所領を安堵されたことをきっかけとして尊氏派として行動するようになり、やがて尊氏の幕府開府によって家運が大きく向上することになるのです。

 武家の核心的利益に安易にメスを入れた挙句の朝令暮改の悪印象に加え、相変わらず安堵権限は国司に委ねられたままです。そして、国司は必ずしも政務に通じているとはいえない公家から選任されます。これでは武家の不安は尽きないでしょう。実際、毛利家では吉田荘が天皇の寵臣の手に渡るという実害も発生していたのです。また、公正な裁判に期待して討幕軍に参加した南部三兄弟も、年末頃に再び従兄弟の武行を訴えていますが、迅速な解決には至っておりません。天皇の政策はイデオロギー的には正しかったのかもしれませんが、現実に根差した具体策に欠けていたため、建武政権は「聖域」を脅かした末に自壊したのです。

2009年3月11日
多賀国府跡
(宮城県)

(2) 「ポスト建武」への流れ

早くも「ポスト建武政権」を見据えた動きでしょうか。鎌倉幕府の滅亡の直接的な原因の1つとなったのは奥州の安藤家の内紛でしたが、足利尊氏は新政開始後の早い時期から蝦夷に対する抑えとしての奥州の政治的重要性に着目し、北条泰家の所領であった糠部・外ヶ浜の地頭職を要求してこれを認められています。

 他方、護良親王も東国に勢力を伸長しようとする尊氏に対抗して、奥州を天皇直轄地に組み込む構想のもと、義良親王を奉じた北畠親房・顕家を多賀国府に派遣しました。陸奥守に任じられた顕家は、鎌倉幕府の統治機構を踏襲した地方行政組織の整備を進めていきます。北畠親房の北畠家は、藤原摂関家と姻戚関係を結んできた村上源氏の流れをくみ、家格は摂関家に次ぐ家柄でした。この多賀国府行きが北畠家と奥州の関りの端緒であるとともに、「蝦夷地」とも言われていた奥州に親王や高官が赴任するのは初めてのことでした。

 
 

また、親王らは鎌倉を攻略しながらも足利一族の細川家によって鎌倉を追われることとなった新田義貞を自らの陣営に引き込んでいます。さらに、鎌倉攻めを通じて新田家との結びつきを強めた南部家も、新田家と足並みをそろえて親王方に与することになります。南部師行は顕家の糠部郡国代に任じられ、この時から糠部における波木井南部家の歴史が始まるのです。

 
 

また、親王らは鎌倉を攻略しながらも足利一族の細川家によって鎌倉を追われることとなった新田義貞を自らの陣営に引き込んでいます。さらに、鎌倉攻めを通じて新田家との結びつきを強めた南部家も、新田家と足並みをそろえて親王方に与することになります。南部師行は顕家の糠部郡国代に任じられ、この時から糠部における波木井南部家の歴史が始まるのです。

顕家は、鎌倉幕府を支えた北関東の名族の1つである結城家からも、宗広を奥州における協力者として起用しています。さらに、頼朝の奥州藤原氏討伐の後に興った伊達家からは、行朝を起用しています。このように、奥州では陸奥守・顕家を中心とする天皇派勢力が地方組織を整備している反面、尊氏派の地域も混在しており、当初から多賀国府の政策は尊氏派の地域では浸透しにくかった可能性が指摘されています。

2009年3月9日
白河城址
(福島県)

 

同年冬頃、天皇派と尊氏派の対決ムードが高まりつつある状況下において、旧幕府勢力の名越時如と安達高景が北条家再興のために挙兵しました。陸奥守・顕家は、曾我光高・安藤高季らに大光寺城を攻めさせます。この反乱には、旧幕府勢力だけではなく、何らかの理由により新政に不満を抱く者も「反新政」の1点で一致することにより参加しています。安藤家からも、不満分子の師季が新政に反旗を翻しています。鎌倉幕府の権威失墜の原因となった安藤家の内紛がまだ尾を引いていたようです。

 同年12月、北畠顕家による地方組織の整備が奥州で進むなか、尊氏もこれに対抗して弟・直義に成良親王を奉じて鎌倉に入らせるとともに、関東10ヶ国を管轄させました。『梅松論』によれば、「東国の輩これに帰服して京都には応ぜざりし」とあり、これを前提とすれば、建武政権はこの頃までには武家の失望を買い、民心は武家の尊氏に向いていたと理解できましょう。

尊氏は上杉家の女性の息子として生まれました。同月29日、上杉憲房が尊氏から旧北条家領の伊豆国奈古屋郷の地頭職を与えられています。この地が上杉家の東国での発展の基盤となりました。憲房の息子・憲顕は、この頃から尊氏の嫡子・義詮に仕えています。上杉家は後述のとおり室町幕府草創期において足利家をよく支え続け、大きな犠牲も払っています。後の戦国期において、越後の上杉家が室町幕府の関東管領の立場から既に崩壊した関東の秩序の回復のために戦った背景には、幕府草創期以来の足利家との強い結びつきがありました。

2010年8月1日
巣雲山
(静岡県 韮山近く)

2009年3月9日
白河関 空堀跡
(福島県)

翌1334年1月、恒良親王が立太子されました。後醍醐天皇が討幕を目指した動機には、自らの系統に皇位を継承させることがありました。他方で同月、天皇は綸旨によって奥州で北畠顕家を支えていた結城宗広を結城家の惣領としました。結城宗家だった朝祐は、尊氏が篠村八幡宮で反北条の立場を鮮明にした頃から既に尊氏らと行動をともにしており、現に宮方として討幕に加わっているのです。にもかかわらず、なぜ綸旨によって惣領の地位を失わなければならなかったのでしょうか。

同月12日、武家らの土地に関する不安をよそに、天皇は大内裏造営を建議します。しかし、同月に多賀国府勢が大光寺城を攻略しているとはいえ、津軽の北条残党は石川楯に籠って抵抗を続けている状況です。新政が未だ安定を得られていない段階で、さらに全国から造営費用を徴収して立派な内裏を建造することには激しい非難が寄せられました。武家の所領を安堵する前に自らの内裏を新調するのでは、民心が離れていくのもやむを得ません。さらに、内裏造営費用を捻出するために負担を転嫁された農民らの反感も高まっていきます。

大光寺城を攻めた曾我光高や安藤高季らも、この時点では未だに父祖以来の土地の安堵を得られておりません。そのような状況において、よく頑張ったといえましょう。結城家で綸旨による惣領の交代が生じていたこともあり、同年5月中旬、光高は本領安堵と惣領権のために石川楯を猛攻し、これを攻略することに成功しました。北条残党は、さらに山深い持寄城に逃れています。

 石川楯攻めには、多賀国府で北畠顕家に仕えていた摂津源氏・多田貞綱も加勢していたのですが、合戦奉行・多田貞綱は、曾我光高が安堵を求めていた父祖以来の沼楯村を、応援部隊として来ていた安保弥五郎入道に与えてしまうのです。なぜ光高に安堵しなかったのでしょうか。また、攻略の恩賞なのであれば、なぜ当初から石川楯を攻めていた光高の意思に反してまで途中から応援部隊として参加した者に与えたのでしょうか。これに激怒した光高の心も完全に多賀国府から離れることとなりました。

同年6月、北畠顕家は南部師行に対して、安藤一族の分断工作を依頼しています。大光寺城攻めに参加した安藤高季には家季という弟がいたのですが、この家季は多賀国府と尊氏派の冷戦の間隙を衝いて独立を図ったとも理解できる動きをしておりました。顕家は、家季に与している安藤一族の一部に手を突っ込んで、国府側に取り込んだうえで持寄城攻めに参加させようとしたのです。南部師行の工作活動によって安藤祐季らの動員に成功した国府勢は、同年11月19日、持寄城を攻略し、名越時如と安達高景は降伏しています。この日蓮を身延山に招いた甲斐源氏支流の南部家と、前九年の役で滅ぼされた安倍氏の末裔と伝わる安藤家が、やがて本州最北の地で覇を競うことになるのです。

 

同年夏頃には、かつて尊氏らとともに三方から京に攻め入って六波羅探題を攻略した播磨の赤松円心も播磨守護を解任されています。

同年8月、京の二条河原に落書きが現れました。「此頃京都にはやる物、夜討、強盗、謀(にせ)綸旨・・・」 現代刑法においては、落書きは落書きをされた財産の効用を喪失させたという意味で器物損壊罪(刑法第261条)として処理されますが、ごく稀に名もなき人物による世情の風刺が本質を突くこともあります。今日の芸能界において、このような風刺も自らの役割の1つとして認識されている方もおられることでしょう。

 
 

南部師行が安藤一族の分断工作を開始した頃、護良親王は兵を集めて尊氏の宿所を襲撃していますが、暗殺には失敗しています。尊氏は後醍醐天皇に対して、「天皇の命令ではないか?」と強く詰め寄っています。同年10月22日、天皇は、結城親光と名和長年に対して、護良親王を捕えるよう命じています。そして、同年12月、天皇は足利直義に対して、親王を鎌倉配流に処するよう命じています。親王は東光寺に幽閉され、政治生命を絶たれました。

同年11月、討幕以来、足利家との結びつきを強めていた常陸の佐竹貞義は、小栗重貞とともに建長寺の僧の訴えを処理するよう足利家から命じられています。新政府によって小田治久が既に守護に任じられていたため、本来であればこの訴訟の処理は治久の任務です。しかし、尊氏から関東を任されていた弟の直義が、天皇派の守護の存在を無視して貞義らに処理するよう命じているのです。

 建武政権に対する失望と、武家政権の復活に対する期待感によって、我が国の指揮命令系統に乱れが生じるに至ったのです。今後、天皇の命令と足利家の命令の間に齟齬が生じたら、どちらに従えば良いのでしょうか。このような状況下において、安芸国吉田荘を失った毛利時親は、足利家に仕えていた高師泰の麾下に元春を入れたのです。元春とは後年に改めた名で、師泰が健在だった頃は「師親」と名乗っています。

 

(3) 中先代の乱

 翌1335年は、建武政権に対する不満が顕在化した年となりました。同年6月、京で西園寺公宗を中心とした反後醍醐運動が起こります。新田義貞によって自害に追い込まれた北条高時の遺子・時行と呼応して、後醍醐天皇を倒そうとしたのですが、これは公宗の弟の公重の密告によって露見しました。西園寺家では相続争いが生じており、対立軸は家族の内にも生じていたのです。

 しかし、北条時行は同年7月14日、信濃の諏訪頼重の支援を受けて信濃で北条家再興のため挙兵し、直義が治める鎌倉を目指します。いわゆる「中先代の乱」で、「中先代」とは「先代・北条高時」と「後代・足利尊氏」の間の乱であるという意味です。これに対して、新政以来、足利家との結びつきを強めていた常陸の佐竹貞義は、一族を率いて鎌倉に救援に向かっています。また、甲斐の武田信武も尊氏方として戦っています。同月22日、時行は井出沢で直義の軍勢を破り、同月25日には父・高時らが執権として政務を担っていた鎌倉を奪還しました。直義らはやむなく鎌倉から西に逃れますが、この鎌倉陥落の際、捕えていた護良親王を殺害しています。

京で鎌倉の危機を知った尊氏は、かつての源頼朝の先例に倣って、後醍醐天皇に自身を「総追捕使・征夷大将軍」に任じて鎌倉に派遣するよう求めました。しかし、親政を志向していた天皇はこれを拒否しました。とはいえ、事は急を要するため、同年8月2日、尊氏は天皇の許しを得ないまま京を出発して鎌倉に向かうのです。この頃、鎌倉を追われた直義らは三河の足利一族の拠点・矢作まで逃れてきています。天皇は尊氏を「征東将軍」に任じて出陣を事後承認しました。この時、尊氏は播磨守護を取りあげられていた赤松円心に対して、息子1人の出陣を依頼しており、円心の次男・貞範が出陣しています。また、土岐頼貞も中先代の乱以降、尊氏の再入京に至るまで、一貫して尊氏に従っています。

 
 

同月9日、尊氏の軍勢は遠江橋本で時行を破り、同月12日、小夜中山の戦いでの勝利によって流れを引き寄せました。この時、足利一族の今川頼国が名越邦時を討取っています。同月17日、尊氏勢は箱根でも勝利を収めますが、翌18日、相模川の戦いで今川家の頼国・頼周が討死しています。さらに、武蔵小手指原の戦いでは今川範満も討死し、既に建武政権から遠江守護に任じられていた範国は、短期間のうちに3人の兄を失うことになりました。

この頃、奥州では天皇派の北畠顕家のもとで、伊達行朝が結城盛広を攻めており、この頃から結城一族は天皇派・尊氏派の対立に連動する形で2派に分裂していたようです。同月19日、辻堂片瀬原合戦で勝利した尊氏の軍勢は、同日、時行から鎌倉を奪還することに成功しました。尊氏は奥州の北畠顕家に対抗するため、一族の斯波家長を奥州総大将に任命しています。家長には、多賀国府の顕家と糠部の南部家の間に割って入って、両者を分断する役割が与えられたのです。

 
 

(4) 征夷大将軍を自称

同年10月15日、尊氏はかつて鎌倉幕府の将軍邸があった場所で「征夷大将軍」を自称しました。後醍醐天皇は京を出発する尊氏を征夷大将軍に任じることを拒否し、成良親王を征夷大将軍に任命しています。しかし、時行との決戦に先立ち、成良親王は京に返されています。尊氏が征夷大将軍を自称したことは、武家政権樹立への意思表明と理解できます。

 同年11月2日、尊氏は(「打倒・後醍醐天皇」ではなく)「君側の奸・新田義貞誅伐」を大義名分として檄を発し、諸国に軍勢催促状を送りました。尊氏は親族の上杉憲房を新田義貞の本拠地である上野の守護に任じたほか、佐竹貞義を常陸守護に任じています。また、細川定禅(讃岐)ら細川一族のほか、赤松円心(播磨)・大友貞載(九州)らにも挙兵を求め、いずれも応じています。安芸では武田・毛利が挙兵し、周防では大内弘幸も挙兵しています。九州では、少弐頼尚が檄に応じて九州の武士たちを招集しています。

同月19日、後醍醐天皇も足利尊氏・直義兄弟追討の勅命を下し、新田義貞を総大将として鎌倉に進撃するよう命じました。また、天皇は帰京命令を無視し続ける尊氏から一切の官位を剥奪するとともに、尊氏から剥奪した鎮守府将軍の称号を北畠顕家に与え、新田義貞とともに尊氏を挟撃するよう命じました。ここに天皇派と尊氏派の決戦の火蓋が切られることとなったのです。天皇派に与した者としては、菊池武重・武吉兄弟(肥後)、宇都宮公綱(下野)、大内弘直(周防)らがおりました。

 
 

状況を整理しておきます。まず、北条時行を討伐した尊氏が鎌倉にいます。そして、尊氏を討伐するために新田義貞らが東に向かっています。そして、奥州の多賀国府には北畠顕家がいます。顕家は、南部師行に多賀城の留守を任せ、政長は糠部の根城に残し、自身は政長の嫡子・信政とともに鎌倉を目指すことになります。奥州の斯波家長も南下する顕家を追撃し、顕家と家長の留守の間は安藤・曾我らが南部勢と戦っています。四国では足利一族の細川定禅が挙兵し、九州では、尊氏の檄に応じた少弐頼尚が招集令を発する反面、肥後の菊池兄弟は新田勢の先鋒を務めています。さらに、新田義貞が新政後の論功行賞で越後守と越後守護を兼任するようになって以来、越後は新田一族の牙城と化しており、これと越後の尊氏派の抗争も続いていくことになります。

天皇派と尊氏派という対立軸に対応して、結城一族は宗広ら白河の天皇派と下総の尊氏派に分裂しましたが、新田一族でも山名政氏・時氏父子らは義貞に従わずに尊氏派に与しています。そして、この系統が後の応仁の乱の際に西軍のトップとなるのです。

 
 

次いで、戦術レベルの判断として、尊氏は佐々木道誉や上杉憲房らの進言を容れて、鎌倉を発って天皇派を迎撃することを決断しました。鎌倉の留守は息子の義詮に任せ、上杉憲顕と高師冬の2人が義詮を補佐することになりました。同月25日、新田勢は鎌倉に向かう途上、三河国の矢作で勝利を収めます。翌26日には、細川定禅が讃岐で挙兵しています。この頃、北畠顕家が多賀国府を出陣して南下を始めています。翌12月2日、安芸国守護の武田信武が銀山城で挙兵し、毛利元春もこれに加わって、美乃全元に奪われていた吉田荘地頭職を実力で奪い返します。安芸武田家は、この頃から武田山全域の城塞化を進めています。同じ頃、常陸では南下した北畠顕家が佐竹貞義の軍勢を破っています。

 同月11日、鎌倉から西上した尊氏勢と京から東下してきた新田勢が箱根で激突し、尊氏勢が勝利を収めました。尊氏勢はそのまま京に向かって進撃します。同月19日、越後でも加地景綱・色部高長らが挙兵しています。同月30日、九州では兄に代わり留守を守る菊池武敏が少弐方と戦闘しています。同じ頃、四国の細川定禅は軍勢を率いて畿内に渡っており、奥州から南下してきた斯波家長は鎌倉で越年しています。

新田勢を追って西上してきた尊氏勢は、翌1336年1月10日、京に突入しました。この頃、中国・四国で挙兵した軍勢も京で尊氏勢と合流しています。既に奥州では、同月6日、尊氏派の安藤家季・曾我光高らも雪のなか津軽の天皇方を攻めています。しかし、既に北畠顕家の軍勢が近江に迫っており、同月12日には六角氏頼の観音寺城を攻略しました。尊氏の入京を受けて比叡山に逃れていた後醍醐天皇でしたが、奥州から入京した北畠顕家勢と合流して、逆に尊氏勢を京から駆逐することに成功します。この時、顕家に従っていた者としては、南部師行・結城宗広・伊達行朝らがいました。同月27日、上杉憲房が四条河原で尊氏の身代わりとなって討死しており、敗れた尊氏勢は、かつて北条家討伐の檄を発した丹波篠村に落ち延びました。奥州勢が京で大きな戦功をあげたのは、この戦いが最初で最後という指摘もあります。

 

2009年11月7日
室津港(兵庫県)

(5) 九州で再起を図る

翌2月12日、播磨室津で重要な軍議が開かれました。軍議の結果、尊氏は九州に、細川一族は四国に逃れ、それぞれ態勢を立て直し、赤松円心は播磨に残って守りを固めることとなりました。この時の細川和氏の阿波行きが、以後200年以上にわたる細川家による阿波支配の端緒となりました。また、赤松円心は「持明院統の院宣を得ることによって朝敵の汚名を逃れよ」という重要な提案もしています。なお、将来の東上ルートの確保のために、桃井義盛を安芸に、石橋和義を備前に配置しています。これに対して、豊臣秀吉は江戸に封じ込めた家康の西上ルートを塞ぐために山内一豊らを東海道に配置しています。

尊氏は、周防の大内弘幸と豊後の大友貞宗らが用意した船で九州を目指します。そして、備後鞆津に着いた時、赤松円心の献策どおり、持明院統の光厳院の院宣がもたらされました。

 この頃、常陸では楠木正成の甥の正家が瓜連城に籠っており、太田城を拠点とする佐竹貞義と対峙する形になっています。

 同月20日、赤間ヶ関に着いた尊氏一行を、既に九州で招集令を発していた少弐頼尚らが迎えました。源頼朝以来、九州を任されてきた少弐・大友家は、天皇親政を理想とする後醍醐天皇とは政治的に距離があり、王政復古よりも得宗専制以前の武家政権への回帰を望んでいたため、九州に逃れてきた尊氏を支えたのです。他方で、この頃に肥後の菊池武敏が少弐貞経を大宰府に討っており、尊氏派と菊池家ら九州の天皇派との決戦が迫っていました。

2009年12月28日
鞆の浦
(広島県福山市)

2009年11月7日
白旗城址
(兵庫県上郡町)

播磨に残った赤松円心の役割は、尊氏を追って西に向かう新田義貞を足止めすることでした。円心は、播磨まで進んできた新田義貞に対して、「播磨守護職を返してくれれば、以前と同じようにお味方する」と申し出ます。義貞は京に使者を送り、十数日が経過した後に円心を播磨守護職に補任する綸旨がもたらされました。しかし、円心は、「既に尊氏から播磨の守護・国司を賜っているため綸旨は受けられない」と前言を翻しました。こうして、円心は十数日の時間の余裕を尊氏にもたらしました。

事実かどうかはともかくとして、似たような話は徳川秀忠の上田城攻めにもあります。また、『三国志演義』において、諸葛亮の北伐の際に隴西で勝手に兵を集めた司馬懿の頭にも、都の曹叡への使者の往復にかかる時間がありました。『孫子の兵法』においても、いつ、どこで戦うかを支配することが勝利への道と説かれています。

2009年11月7日
備前・三石城址から

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円心に騙された義貞は白旗城を力攻めしますが、赤松の守りの前に被害は増すばかりです。やむなく、弟の脇屋義助の進言を容れて白旗城攻めを中止して船坂を攻めるとともに、備中・福山城を攻略したうえで備前・三石城に石橋和義を包囲します。円心も尊氏に使者を送り、一刻も早い東上を促しています。

2009年2月9日
多々良浜古戦場・兜塚
(福岡県)

赤松円心の謀略が事実であるとすれば、新田義貞が謀られたことに気づいた頃でしょうか。同年3月2日、尊氏勢は多々良浜(博多市)で菊池武敏勢を破り、九州における尊氏派の優位を決定づけました。これが翌月からの反転攻勢につながるのです。

 ただ、この戦いで結城家の朝祐が討死しています。鎌倉幕府を草創期から支え続けた結城家は、建武期の天皇派と尊氏派の対立に対応する形で分裂し、北畠顕家が京で尊氏に追いついた際には、鴨川あたりで一族同士が戦闘しています。多々良浜で討死した朝祐は下総の結城家で、後醍醐天皇から厚遇された宗広は白河の結城家です。後年、結城合戦の舞台となる結城城は、前者の居城です。

(6) 反転攻勢

翌4月3日、足利尊氏・直義兄弟は、大宰府を発って東上を開始します。この時、尊氏は一色範氏を博多に残して九州の武士らの尊氏派への組織化や天皇派の制圧を委ねています。多々良浜で敗れたとはいえ、菊池武敏は九州における天皇派の中心として兵を動かし続けておりました。ただ、鎌倉期を通じて九州を任され続けてきた少弐家としては、一色範氏の指揮下に入れられたことをどう感じたでしょうか。

 尊氏・直義兄弟が東上を始めた頃、兄弟を京から駆逐した北畠顕家は多賀国府を目指して帰国の途についていました。その途中、東国の支配体制の構築に尽力していた斯波家長と片瀬川で戦闘になっています。敗れた家長は義詮を連れて三浦半島に逃れました。

 
 

翌5月1日、尊氏らは厳島に着き、ここで中国・四国の軍勢も合流しています。ここで尊氏の軍勢に加わった者のなかには、高師泰の麾下に入っていた毛利元春もいました。尊氏勢は、鞆の浦から海と陸に分かれて進軍を続けます。この頃、多賀国府に戻る途中の北畠顕家は、宇都宮付近にいます。

同月18日、尊氏勢は菊池武重・大江田氏経らが守る備中福山城を攻略します。同日、新田義貞は全軍退却を命じました。義貞としては、攻めるべき時に攻めなかったことが好機を逸するだけでなく、自身を窮地に陥らせることとなりました。義貞が軍勢を必要とした時、北畠顕家は奥州に戻っていたのです。同月19日、包囲を解かれた白旗城から、赤松円心が敵兵の旗印を持参して見性寺に尊氏を訪れています。

2009年12月29日
備中・福山城址
(岡山県)

2009年12月29日
備中・福山城本丸跡
(岡山県)

 

同月25日、湊川の戦いで天皇派の楠木正成を討った尊氏勢は、そのまま京に入りました。尊氏の再入京によって、全国の尊氏派が勢いづくことになります。この時、毛利時親は大和から京に赴き、元春に忠節を尽くさせることを申し入れて尊氏から感謝されています。

他方、後醍醐天皇は今回も比叡山に逃れています。この時、天皇に従っていた者としては、新田義貞・脇屋義助兄弟や尊氏討伐の際に先鋒を務めた菊池武重らに加えて、毛利貞親も含まれておりました。毛利家も、一族が天皇派と尊氏派に割れていたのです。かつて天皇の隠岐脱出に尽力した名和長年や、船上山から討幕軍を率いた千種忠顕らはこの頃に討死しています。

 
 

同じ頃、相馬一族が籠る小高城を攻略した北畠顕家が多賀国府に帰着しています。顕家勢は尊氏勢を京から九州に追い落とし、帰国途中も斯波家長や相馬家を破り続け、まさに連戦連勝だったわけですが、畿内では尊氏勢と合流した四国の細川勢が大活躍しており、中央での尊氏の優勢が奥州における顕家の求心力を徐々に奪っていくことになるのです。

同年8月15日、尊氏によって持明院統の光明天皇が擁立されたことにより、後醍醐天皇とともに、外観上、2人の天皇が並立することとなりました。それゆえ、今後は「天皇派と尊氏派」という表記が不適切となります。後醍醐天皇の系統はやがて吉野に逃れて皇位を主張し続けますので、京の天皇を「北朝」、吉野の天皇を「南朝」と表記することとします。

 この頃、常陸では足利家との結びつきを強めていた北朝の佐竹勢が、南朝の小田治久らと抗争を続けており、瓜連城及びその周辺が当面の主戦場となります。また、隣の下野では、北朝の小山勢と南朝の宇都宮勢の間で、小山城攻防戦が始まっています。宇都宮家の公綱は、尊氏の最初の入京の際に天皇派から尊氏派に降ったのですが、尊氏が北畠顕家によって九州に追われたことで再び天皇派(南朝方)に転じておりました。越後では北朝の加地・色部らが南朝の新田勢と戦っています。奥州でも、北朝の曾我勢らが南朝の葉室勢と戦っています。

 美濃では、この頃までに土岐頼貞が美濃国守護に任じられています。また、鎮守府将軍・藤原利仁を始祖とするとされる富樫家の高家が、この年までに加賀国守護に任じられています。足利体制のもとで、後年の応仁の乱の遠因となる人事が積み上げられていきます。

 
 

同年10月10日、後醍醐天皇は、尊氏の申し入れに応じて京に戻りました。南朝方の軍勢は解散され、新田義貞は恒良・尊良両親王とともに越前へ、北畠親房は伊勢へ、懐良親王は吉野へ逃れることになります。尊氏が挙兵の当初に掲げていた大義は「君側の奸・新田義貞誅伐」でしたから、後醍醐天皇との和解に理論的障害はありません。他方で、越前の金崎城に逃れた新田義貞の追討は継続されることになるのです。

 なお、毛利時親はこの年に本拠地を安芸国吉田荘に移しています。比叡山陥落の際、毛利貞親は出家・隠退し、翌月に父を頼って吉田荘に赴きます。また、時親は元春に北陸において南朝に与していた親衡の赦免願を提出させており、貞親の吉田荘行きと同じ頃に親衡も北朝に降っています。かくして、尊氏と後醍醐天皇の和解に伴い、毛利家では毛利時親の系統が安芸国吉田荘に集住することとなったのです。後年、毛利家はこの時親を安芸毛利家の基礎を固めた人物と意識しており、毛利家の家臣たちにおいても、自分たちの祖先は時親の吉田荘下向の際に時親に従ってきたものと認識しています。

 毛利時親は、一族の吉田荘集住を踏まえ、吉田荘地頭職を、親衡の死後は元春に譲渡すという条件付きで親衡に譲り直しました。既に同職は親衡に譲られていましたから、親衡としては新たな条件に不満が残ります。他方、元春としても、吉田荘を実力で取り返したのは自分であるにもかかわらず、父の死後まで待たなければならない点に不満が残るものでした。

 こうして、建武の新政の際の吉田荘喪失が、新政頓挫の後においても毛利父子の間に抗争の火種を残してしまったわけですが、当初は高師泰麾下で優勢だった元春と、天皇方に与した親衡の力関係は、観応の擾乱を境に入れ替わることになるのです。

2009年2月11日
吉田郡山城址
(広島県安芸高田市)

2009年3月13日
小田城址
(茨城県)

同年11月2日、尊氏は後醍醐天皇に強いて三種の神器を譲らせるとともに、太上天皇の称号を贈りました。これにより、一応は北朝の正当性が確立されたことになりますが、実はこの時に後醍醐天皇が渡した神器は偽物だったという話もあります。同月7日、尊氏による『建武式目』の発布によって事実上の室町幕府の開府と理解することも可能ですが、かつての源頼朝の鎌倉入りの頃よりも抗争がはるかに多く生じております。

 同年12月11日、北朝の佐竹勢が常陸北部における南朝の拠点・瓜連城を攻略しました。これに伴い、楠木正家や小田治久らは常陸南西部の小田城に逃れています。これ以降、常陸における南北朝の抗争の主戦場は小田城を中心とした常陸南西部に移っていきます。

 同月21日、花山院に幽閉されていた後醍醐天皇は、本物とされる神器を持って密かに吉野に逃れました。かくして、京の北朝と吉野の南朝がともに皇位を主張し合う異常事態となり、天皇家の分裂に対応して、全国各地で血みどろの抗争が続いていくことになるのです。