鎌倉期9 ~鎌倉幕府の滅亡~

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特定商取引法に基づく表記

33 鎌倉幕府の滅亡

 

(1) 御家人と御内人の争い

ア 霜月騒動

時宗の死によって、息子の貞時が執権に就任しました。貞時の執権就任により執権外祖父となった安達泰盛が幕政において力を持ちましたが、平頼綱をはじめとする得宗御内人との緊張が高まっていきます。1285年11月17日、安達泰盛は息子・宗景を将軍に擁立しようとしているとの疑いをかけられ、執権館で平頼綱ら御内人によって殺害されました。その直後から御家人側と御内人側の間で合戦となり、勝者となった御内人側勢力は日頃の恨みを爆発させて御家人側の人物を虐殺しました。これが霜月騒動です。この騒動によって御家人勢力は大きく後退し、御内人勢力が幕政で重きをなしていくのです。

 中央政界としての鎌倉を舞台とした騒動は、地方にも波及していきました。あちこちで御家人側に与する人物と御内人側に与する人物が争ったのです。そして、中央政界で勝利した御内人側とつながりをもった人物が、地方においても立場を保持し続けるという政治力学が働いています。たとえば、鎮西探題の少弐家では、庶子の景資が鎌倉の霜月騒動の対立軸に対応する形で安達泰盛ら御家人側勢力に与して、一族を二分して御内人側の惣領・経資と戦いました。地方においても御内人側の惣領・経資が勝利を収めたのですが、少弐一族には敗死した景資の側についた者も多かったため、騒動後、少弐家の力が大きく後退することになりました。

1289年10月、久明親王(14歳 後深草第6皇子)が鎌倉に下向して8代将軍に就任しています。

 1291年、京の東山に「五山之上」に列せられる南禅寺が創建されました。

 
 

イ 平禅門の乱

1293年4月21日、平頼綱の長男・宗綱が、父と弟の陰謀を北条貞時に密告しました。頼綱が次男・飯沼資宗を将軍に擁立しようとしたともいわれています。貞時は頼綱を討つよう命じ、頼綱・資宗父子は翌22日未明に自邸で自害しました。平頼綱は霜月騒動の翌年の1286年に出家して「平禅門」と号していたため、平禅門の乱といいます。

 同年、越後の北条では北条毛利家が居館の近くに氏寺として専称寺を建立しています。翌1294年1月22日、我が国を攻めた元のフビライが死去しています。

1296年、「バサラ」で有名な京極道誉が生まれています。13世紀末、京極家の宗信は近江国伊香郡黒田村に入って黒田氏を称しています。後年、船岡山の戦いの後に追放処分を受けた黒田高政は備前福岡に移り、この黒田家から黒田官兵衛孝高が輩出されることになります。

 
 

(2) 制度疲労

 元寇という「未曽有の国難」を切り抜けた鎌倉幕府でしたが、新たに領土を獲得したわけではないため、得宗専制への不満に加えて戦後の恩賞に対する不満も加わりました。また、鎌倉期には佐々木家や毛利家の例をご紹介したとおり、女子も含めた分割相続が原則形態でしたが、所領が子どもたちに細分化されることが社会的混乱の原因になっていました。

 『孫子の兵法』においては、食糧や軍需物資は現地調達が優れているとされています。自国から物資を運ぶとなれば、戦闘員だけでなく物資を運ばせるための非戦闘員も必要になります。軍隊と一緒に移動する人員が増えれば、それだけ食糧の減り方も激しくなります。また、自国から物資を運び出せば、自国内の物資が減少することにより価格が高騰して経済にも混乱をきたします。

 そのような悪循環をできる限り生じさせないようにするには、食糧などは現地調達が優れているという考え方です。しかし、元寇は我が国にとっては自衛戦争でしたから、食糧を他所で徴発することはできませんでした。となれば、私は当時の経済に関する情報を得てはおりませんが、元寇に起因して国内の経済事情が悪化していた可能性があると推測しております。この点は、情報が入り次第、加筆することとします。

 これらの社会的不安定要因に加え、後醍醐天皇の将来に対する不安といった個人的な要素も重なって討幕の動きが生じるのです。以後は、鎌倉時代末期の主な出来事をご紹介しつつも、ウェイトを新時代の人々に移していくこととします。

(3) 鎌倉幕府その後

1301年、北条貞時は師時に執権を譲りました。1305年4月23日、内管領・北条宗方が、北条貞時の命と偽って、連署の北条時村の屋敷を襲撃して時村を殺害する事件が起きました。執権・師時と連署・時村を殺害して自己の政治的立場を維持・向上させようとしたといわれています。しかし、同年5月2日、宗方は執権・師時を討とうとして返り討ちにあい、敗死しました。これが嘉元の乱です。

 同年、室町幕府を開くことになる足利尊氏が生まれています。丹波の安国寺の前には産湯に使ったとされる井戸が残っています。1308年9月、京では尊治親王が立太子されました。また、この頃に将軍・久明の嫡男・守邦親王(8歳)が9代将軍に就任しています。

 

2012年11月3日
第1次伊能忠敬測量隊
到達最東端記念柱
(北海道別海町)

タタール海峡を渡っていた元軍は、この頃までに樺太全土の征服に成功しています。当時の日本人には北海道に関する明確な認識がありませんが、当時から北海道に居住していたアイヌ民族らにとっては、民族の生存を賭けた戦いが続いていたのです。

大阪府河内長野市の「大江修理亮遺跡碑」によれば、翌1309年、(南条)毛利時親が河内国加賀田郷に隠棲しています。時親には、若き日の楠木正成に兵法を伝授したという伝承も残っています。大江時親邸跡地から楠木正成の赤坂城までは約8kmしか離れていません。大江匡房が後三年の役よりも前に八幡太郎義家に『孫子の兵法』を伝授したという逸話を想起させます。

2009年12月5日
伝 大江時親邸跡
(大阪府河内長野市)

 

1311年10月26日、北条貞時が死去し、高時(9歳)が得宗家を継ぎました。

 1312年7月、上杉重房とともに将軍・宗尊を補佐した太田資国が死去しました。資国の法号は「道清」で、資国以降、太田氏は代々「資」を名乗り、「道」の法号を用いるようになりました。

同じ頃、十三湊では安藤氏が福島城を築城しています。元が樺太を征服したことで、その南の北海道も社会的に不安定な状況だったと思われます。それゆえ、北方の動乱に対する備えとして築城された可能性が指摘されています。福島城には樺太南端のものと同様の形式が確認されています。

2009年9月18日
十三湊・福島城本丸跡
(青森県五所川原市)

 

 1316年7月、北条高時が執権に就任しました。

 1318年2月、花園天皇が退位しました。これにより、後醍醐天皇が即位するとともに、後宇多上皇による院政が始まっています。「院政」とは言いますが、白河上皇の頃とは異なり鎌倉には武家政権が存在しているわけですから、院の権限は武家政権の所掌事務には及ばないはずです。

 後宇多上皇は、「後醍醐天皇の死後、その所領は邦良に譲り、皇位も邦良とその子孫に伝えよ。後醍醐の子孫は親王として天皇を支えよ。」と指示しています。これでは後醍醐天皇としては、はじめから自らの子孫に皇位を継承する余地はないことになります。後醍醐天皇は、自分と子孫の将来をどう切り拓くかを考えていたことでしょう。

 同年、島津忠氏が父・忠宗から和泉庄(出水市)を譲り受けて和泉氏を称しています。この和泉家から江戸末期に将軍・家定に嫁いだ天璋院篤姫が輩出されています。なお、この頃に土佐の長宗我部兼能が吸江庵の寺奉行になっているという指摘があります。同職務が当時の長宗我部家の最重要任務でした。この長宗我部家から、戦国末期に一時的であれ四国を平定した長宗我部元親が輩出されています。

1320年、本州の東西の端で内紛の芽が生じます。同年3月6日、周防の多々良重弘が死去しました。この時、嫡子・弘幸が家督を相続しましたが、幼少のため重弘の弟・長弘が実権を握っていたようです。そして、嫡子・弘幸と実権を手放さない長弘の争いが互いの子の世代まで続いていくのです。また、東では津軽の安藤家で内紛が勃発するのですが、これは鎌倉幕府滅亡の直接的な原因となったことから、項を改めてご紹介します。

(多々良系図 付記 弘幸・弘世:尊氏とともに南朝帰順 再叛後は直冬に従い南朝方守護)

(弘世の代で周防統一)

(4) 鎌倉末期の「奥州合戦」

 十三湊の安藤季長と藤崎の安藤宗季の間で、現地のアイヌをも巻き込む形で内紛が生じました。この頃の津軽方面は日本海沿岸から下北半島のほぼ全域にかけて安藤氏の現地支配が及んでおりました。おおむね西側の日本海沿岸から津軽半島までが惣領・季長の勢力圏で、東側の下北半島は庶流の宗季の勢力圏となっておりました。そして、この地域の現地支配権及びこれに伴う交易の利権をめぐり、惣領と庶子の間で争いが生じたのです。

 双方とも中央政界に贈物を届けて自らに有利な政治決着を図ろうとしますが、得宗家内管領・長崎高資は双方から贈物を受け取りつつ双方に都合の良い返答をして私腹を肥やしておりました。鎌倉開府から1世紀が経過して、幕政にも腐敗が進行していたのです。1324年5月、執権・高時の屋敷で、弘安の役の蒙古退散の調伏に匹敵する規模で「蝦夷降伏」のための五壇護修法が行われました。現代の日本人にはほとんど知られておりませんが、それだけ奥州の動乱のインパクトが大きかったのでしょう。

既に後宇多上皇から政務を移譲された後醍醐天皇が、1321年から親政を開始しておりましたが、日本海交易によって物や情報のやりとりがあったため、京にあっても奥州の安藤氏の内紛に関する情報が後醍醐天皇の耳に届いていた可能性が指摘されています。そして、奥州の動乱が天皇の行動に何らかの影響を及ぼした可能性も指摘されています。つまり、幕府の対応の悪さやその後の権威失墜に関する情報が、後醍醐天皇をして討幕を決意せしめた可能性の指摘です。

 1324年9月18日、土岐頼員の密告により、後醍醐天皇の討幕計画が露見しました。六波羅探題は、天皇近臣の日野資朝・俊基らを捕えましたが、天皇は釈明によって事なきを得ました。正中の変と呼ばれています。この事件処理として、日野資朝が佐渡に流されています。

 

2009年2月11日
吉田郡山城址
(広島県安芸高田市)

これに先立つ1323年、(南条)毛利親衡と長井三田入道の娘の間に、嫡男・元春が生まれています。この事実から、親衡が越後国佐橋荘から安芸国吉田荘に下向したのは1323年以前であろうという推測が可能となります。当時、大陸との貿易を通じて西国の経済的重要性が高まっていたことが本拠地移転につながった可能性が指摘されています。

1325年1月、鶴岡八幡宮で蝦夷降伏の祈祷が行われました。同年6月6日、幕府は蝦夷問題について、惣領の季長を津軽の現地支配者の地位から退かせて、庶流の宗季に与えるとの決定を下しました。これに不満の季長は、翌1326年2月、猛吹雪のなか藤崎城を奇襲し、これにより宗季は津軽の工藤祐貞のもとに逃れました。

 幕府が認めた現地支配者を追放したわけですから、平将門の乱などと同様、安藤氏の内紛という「私戦」から国家に対する「反乱」に紛争の質が転化したことになります。同年3月29日、幕府は鎌倉中期から現地代官として津軽に赴いていた工藤家の祐貞を蝦夷討伐のために出陣させます。同年7月、工藤祐貞は季長を捕えて鎌倉に戻り、季長は処刑されましたが、季兼ら残党によるゲリラ的抵抗が続いたため、幕府はこの「反乱」を鎮圧することができませんでした。このことが幕府の権威を失墜させ、蝦夷支配のみならず幕府の存立自体が危ぶまれる状況になったのです。

 同月、北条高時は病により出家し、連署であった金沢貞顕が執権に就任しますが、兄の後任として執権に就任することを期待していた泰家がこれに不満を示して出家してしまいました。泰家に従って出家する御家人も多数生じたため、幕政に混乱をきたしています。結局、翌4月に貞顕は執権を辞任し、北条守時が幕府最後の執権に就任しました。新田義貞の鎌倉攻めによって「腹切り(Harakiri)やぐら」で切腹したのは高時ですが、最後の執権は高時ではなく守時です。

2009年9月20日
安藤家・深浦館付近
(青森県深浦町)

 

翌1327年6月、幕府は下野の宇都宮高貞と常陸の小田高知を蝦夷追討使として派遣しました。今日においてはほとんど知られておりませんが、当時としては、幕府の存亡を賭けた安藤季長残党との一大決戦という位置づけでした。そのような重要な戦いを任されたのは、宇都宮家・小田家という北関東の名族だったわけです。北関東には、結城・小山家という頼朝挙兵以来の名族もおります。しかし、足利尊氏が開いた室町幕府のもとでは、鎌倉幕府で重きをなした北関東の名族らは次第に南関東の新興勢力に圧迫されていくことになります。他方、頼朝挙兵に冷淡な態度を示したため鎌倉期を通じて低い立場におかれていた常陸の佐竹家は、次の幕府を開くことになる下野の足利家と結びついたことによって飛躍していくのです。

 翌1328年10月、幕府は安藤季兼と和睦しました。安藤家との戦いでは、北関東の高名な武士らも安藤勢によって討取られています。「和睦」とはいえ、安藤季兼の抵抗を鎮圧できなかったことによる権威失墜を踏まえれば、「敗北」という意味合いに近いものと思われます。安藤宗季は、嫡男・高季に季長の本拠地だった津軽・西浜を譲渡しています。他方、季兼ら季長残党については、秋田湊・男鹿半島方面へ移った可能性が指摘されています。

翌1329年、安芸武田家は武田山の尾根筋に金山城を築城しています。

 同年、大和の興福寺は衆徒に有徳銭と呼ばれる富裕税を課税していますが、この時の衆徒のなかに「筒井下総公」という名が見えます。これが大和筒井氏の初見とされています。

2009年2月14日
武田山
(広島県広島市)

 

翌1330年9月、後醍醐天皇が立太子を望んでいた世良親王が死去しました。さらに、幕府が量仁親王を皇太子に推したことから、後醍醐天皇が自らの子孫への皇位継承のために討幕に傾斜していった可能性が指摘されています。

(5) 元弘の変

 翌1331年4月29日、後醍醐天皇の側近の吉田定房が、日野俊基らの反幕府の動きを密告しました。同年5月5日、幕府は長崎高貞らを上洛させ、日野俊基・文観・円観らを捕えました。同年6月、鎌倉に護送された俊基らは、拷問の末に勅命により関東調伏を行ったことを自白しました。これにより、俊基は既に佐渡に配流されていた資朝とともに処刑され、文観は硫黄島配流、円観は白河の結城家に預けられることになりました。

 同年8月、北条高時の命により、二階堂貞藤らが兵を率いて上洛しました。同月9日、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」に改元しましたが、幕府は天皇による改元を無視することを通じて後醍醐天皇の存在自体を否定しました。同月24日、幕府軍上洛の報を受けた天皇は、京を脱出して東大寺を経由して笠置寺に逃れました。そして、同月27日、ここで討幕の兵を募るのです。

 後醍醐天皇が笠置山に入ったことを知った幕府は、同年9月5日、大軍を笠置山に派遣しました。この時の幕府軍の大将のなかに、大仏・金沢・塩田といった北条家の人物に混じって「足利高氏」の名が見えます。頼朝の挙兵に馳せ参じた足利家は、新田家とは異なり、鎌倉期を通じて幕政において重きをおかれています。そして、高氏の代においても、幕臣の1人として追討軍の大将に選ばれているのです。

 また、武将としても、三浦時継を筆頭として、結城・小山・宇都宮ら北関東の名族や房総の千葉家といった頼朝挙兵以来の御家人のほか、周防の大内弘幸らも出陣しています。この頃、後醍醐天皇は笠置山で「楠木正成を頼るべき」という夢をみたという逸話があります。

2009年12月22日
笠置(奈良県)

2009年12月5日
上赤坂城址
(大阪府南河内郡)

同月中旬、大江時親から兵法を学んだとも伝わる楠木正成が、後醍醐天皇の勅命を受けて居城の赤坂城で挙兵します。しかし、幕府軍の攻撃を受けた天皇は、山中を彷徨っているところを捕えられ、六波羅に送られました。この頃、日蓮を身延山に招いた波木井南部家の2代目・実継も幕府によって捕えられています。翌10月21日、赤坂城も落城し、楠木正成は護良親王とともに城を脱出してゲリラ的抵抗を続けることになります。幕府は後醍醐天皇を隠岐に、尊良親王を土佐に、宗良親王を讃岐に配流することを決定しました。

1332年2月、光厳天皇(量仁親王)が即位しました。翌3月7日、後醍醐は京を発ち、京極道誉らに警護されながら隠岐に向かいます。また、討幕計画に加わった北畠具行も、北条高時の命により、同年5月10日、鎌倉に向けて京を発ちます。京極道誉は具行の護送の任務にも就いています。翌6月19日、鎌倉からの命により、具行は佐々木氏信が建立した京極家菩提寺・清滝寺で処刑されました。また、日野資朝・俊基もこの頃に処刑されています。

 

2009年12月5日
下赤坂城址
(大阪府南河内郡)

こうして元弘の変の事件処理が終了しましたが、この年の春頃に護良親王が吉野の金峯山寺で再び挙兵し、各地に令旨を発して兵を募っておりました。楠木正成もこれに続いており、同年11月に紀州湯浅党から下赤坂城を奪い返しています。約150年前に以仁王が平氏追討の令旨を発した際も、当初は源頼政とともに宇治で敗死に追い込まれています。しかし、その後に河内源氏の源頼朝のもとに坂東武士が結集して、約5年を経て壇ノ浦に平氏を滅ぼしています。

これに対して、元弘の変の時点では、既に河内源氏の頼朝の系統は3代将軍・実朝の暗殺によって途絶えています。それゆえ、前回の頼朝の役割を今回は河内源氏の支流の家が担うことになります。つまり、頼朝の挙兵の際にいち早く馳せ参じたことで鎌倉期を通じて幕政で重きをなしてきた下野・足利家と、その同族でありながら新田義重がしばらく去就を明らかにしなかったことなどによって低い立場におかれ続けた上野・新田家が、西と東からほぼ同時に鎌倉幕府を滅ぼすことになるのです。

 

2009年11月7日
赤松円心の郷
(兵庫県上郡町)

(5) 足利尊氏の六波羅探題攻め

翌1333年1月、楠木正成が紀見峠(河内長野市)から四天王寺にかけて幕府軍を破っていた頃、播磨国佐用庄の赤松円心が護良親王の令旨に応じて播州苔縄城で挙兵しました。この時、「大江山の鬼退治伝説」で知られる源頼光の系統の摂津源氏・多田貞綱も赤松軍に従っています。当初は河内源氏の支流の足利家・新田家らに加えて、多田貞綱も「討幕」という意味では一致していたのです。

 同年閏2月24日、後醍醐天皇が、漁師の名和長年の手引で配流先の隠岐を脱出し、伯耆(鳥取県)の稲津湊に漂着します。そして、船上山の船上寺を行在所とし、この地で北条家追討の綸旨を下したのです。吉野では、護良親王も同様の令旨を発しています。これに応じた将兵らが各地から船上山に集まってきました。

 先の元寇の際、高麗遠征論は立ち消えとなっていますから、元寇は我が国にとっては自衛戦争の域を出ておりません。そして、元軍を撤退させることには成功しましたが、我が国の領域の外に何ら戦勝の果実を得たわけではありませんから、戦後に御家人らの間に恩賞に対する不満が生じました。

 しかし、あらためて国内を見てみますと、執権・北条氏による政権運営は、開府後1世紀を経て、長崎家が安藤家の内紛当事者の双方から贈物を受け取って私腹を肥やすなど、腐敗も進行しておりました。「権力は必ず腐敗する」という言葉もあります。そして、安藤季兼らの追討に失敗したことが幕府の権威を失墜させておりました。他方、鎌倉期に権力闘争に敗れた者らの所領の多くが北条得宗家に帰属しており、得宗家の所領は全国各地に数多く存在しておりました。つまり、国内に北条得宗家領という新たなフロンティアが生じたのです。

2009年2月19日
船上山
(鳥取県東伯郡)

 

討幕の檄によって反幕府ムードが高まりを見せつつある状況下で、伊予では土居通増・得能通綱らが挙兵して、長門探題・北条時直の軍勢を破っています。肥後でも菊池武時が挙兵して鎮西探題・北条英時を攻めていますが、武時は敗死しています。この頃、人吉の相良頼広は書面において幕府が即位させた光厳天皇の「正慶」年号を用いているため、相良家は幕府方として菊池勢を迎撃していたと思われます。そして、武田家が守護職を務めていた安芸の吉田荘からは、(南条)毛利親衡が討幕軍に馳せ参じているのです。

奥州の南部家には固有の事情もありました。波木井南部時長・師行・政長三兄弟と従兄弟・武行の間で土地紛争があったのですが、三兄弟側が幕府に訴え出ても、幕府の得宗被官の長崎思元が武行の後ろ盾となっていたため、公正な判断を期待し得ない状況にありました。かつて、千葉常胤も平治の乱後の伊勢平氏を後ろ盾とした源義宗に相馬御厨を奪われています。南部三兄弟が討幕に加わった背景には、一族の間の土地紛争を決着させるためには、武行の後ろ盾となっている中央政界を刷新する必要があるという判断があったと考えられます。

 
 

同年3月中旬、後醍醐天皇は千種忠顕を大将とする討幕軍を山陰道から京に進発させます。播磨で挙兵した赤松円心の軍勢も、摂津摩耶山に本陣を構えています。他方、鎌倉の北条高時も、名越高家と足利高氏に兵を与えて京に向かわせています。高氏は近江の番場での京極道誉との密談の後、鏡宿(大津市)まで来たところで後醍醐天皇の綸旨を受けました。

高氏は討幕軍を迎撃するために山陰方面へ向かいますが、同年4月下旬、丹波国の篠村八幡社(京都府亀岡市)まで来たところで、ついに反北条の立場を明確にしました。高氏は篠村から新田一族の岩松経家(上野)に宛てて討幕の軍勢催促を行うほか、甲斐源氏庶流の小笠原貞宗(信濃)、草創期から幕府を支え続けた結城家の宗広(陸奥白河)、さらに、幕府の九州支配体制の担い手であった大友貞宗・島津貞久らにも軍勢催促をしています。源平の戦いの際には、源行家が東国の河内源氏に対して令旨を配り歩きましたが、今回は河内源氏だけでなく、頼朝と結びつくことによって幕府の体制内で力をつけてきた結城・島津・大友らにも軍勢催促をしているのです。

 高氏は、軍勢催促に応じた者たちのための目印として、篠村八幡宮に隣接する楊の木に源氏の白旗と足利家の家紋を掲げたと伝わります。画像はその時の楊の木の末裔です。

2009年3月21日
丹波篠村・尊氏旗立楊
(京都府亀岡市)

2010年1月30日
細川町周辺
(愛知県岡崎市細川町)

篠村八幡宮には、承久の乱の際に恩賞として与えられた三河国で領国経営をしていた細川ら足利一族も同行していたと思われます。また、足利泰氏の無断出家後に足利家をよく支えた斯波家の高経もこの時に高氏のもとに馳せ参じています。この斯波家から奥州の大崎家や最上家が興るのです。さらに、後に斯波高経のもとで越前を転戦し、やがて越前朝倉氏祖となる八木広景も、この時に高氏の軍勢に加わっています。鎌倉では、同年5月2日、高氏の挙兵に伴い、息子の義詮(4歳)を鎌倉から脱出させています。

同年5月7日、足利高氏は、東寺の南側から京に攻め入った赤松円心の軍勢や、伏見・竹田方面から攻め入った千種忠顕の軍勢とともに、幕府の出先機関である六波羅探題を攻略しました。なお、北条高時の命により高氏とともに上洛していた名越高家は、久我畷で千種忠顕の軍勢により討ち取られています。翌8日、六波羅探題南方の北条時益が清水寺の南付近で流れ矢にあたって討死しています。

 
 

探題・北条仲時は後伏見・花園・光厳天皇を奉じて京を脱出し、六角時信の居城である観音寺城に宿泊した後、中山道から鎌倉に逃れようとします。しかし、翌9日、愛知川まで来たところで時信が討幕軍に帰順してしまいました。時信は、北条仲時一行を見捨て、同じ佐々木一族である京極道誉の口添えを得て六角家を保とうとしたのです。愛知川は、佐々木家の分割相続の際に京極家と六角家の境界線とされた川でした。番場には、既に京極道誉の指示により、守良親王が率いる討幕軍が待ち構えていました。

この時に仲時は、「美濃の土岐、三河の吉良を敵にまわして鎌倉に戻ることは、1万の兵があっても困難だろう。」と述べたという逸話もあります。その真偽はともかくとして、この頃までに美濃の土岐家や三河の吉良家が有力な勢力として認識されていた可能性が指摘されています。なお、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は土岐一族とも伝わります。

 

足利高氏は、討幕に参加した武家らに対して速やかに安堵状を発給しています。そのなかの1通である長宗我部信能宛文書によると、信能は土佐国介良荘の反乱の鎮圧を命じられています。後に四国の覇者となる長宗我部家も、ようやく歴史の舞台に登場してきました。南北朝期の長宗我部家は四国の細川顕氏・定禅の傘下に入って北朝方として戦うことになります。

なお、近江国は東国と京の中間にあり、交通の要所であるとともに、東西両勢力の狭間に位置しています。1600年の天下分け目の関ヶ原の戦いも、近江国の東隣の地域で戦闘が行われました。この地の人々は両勢力の狭間にあって、しばしば東国が強くなれば東国に与し、京が強くなれば京に与することによって自らの立場を守っています。この変わり身の早さが「近江商人」の気質を育んだという話もあります。

 

(6) 新田義貞の鎌倉攻め

六波羅の北条仲時が近江に逃れていた頃、東の上野国では新田義貞が生品神社で挙兵しています。草創期から幕府を支えてきた下野の小山家から秀朝が義貞の鎌倉攻めに参陣しているほか、波木井南部家からも政長が奥州から新田の軍勢に馳せ参じています。南部三兄弟としては、従兄弟の武行との間の土地紛争を解決するためには、中央政界を正す必要がありました。ただ、討幕に加わるということと、戦後に誰と結びつくかということは別問題です。保元の乱の後も、勝者同士の権力闘争として平治の乱が起きました。この時に南部三兄弟が鎌倉攻めを通じて新田家との結びつきを強めたことが、後の南北朝期に響いてくるのです。

 新田家は鎌倉期を通じて同族の足利家よりも低い立場におかれてきました。それゆえ、義貞の挙兵の当初は、軍勢はそれほど多くはありませんでした。しかし、同月9日、足利高氏の嫡男・義詮とともに足利勢200騎が合流すると、鎌倉に近づくにつれて軍勢は膨れあがっていきました。

 翌10日、楠木正成らを攻めていた大仏高直・長崎高資らの幕府軍は、六波羅探題の陥落を知って慌てて兵を退き、奈良の興福寺に立て籠りました。そして、千早城攻めに参加していた南部武行も、奥州に戻る途中、足利一族の拠点である三河国矢作で仁木・細川家によって捕えられています。幕府を後ろ盾として南部三兄弟との土地紛争を有利に展開していた武行は、その恩義から幕府方として戦っていたのです。

巨福呂坂

翌11日、鎌倉を目指していた新田勢は、小手指原(所沢市付近)で幕府の軍勢を破り、同月16日には、前日に合流した三浦党の大多和義勝の軍勢を先陣とする新田勢が、分倍河原で幕府軍に大勝しました。そして、鎌倉に迫った新田勢は、巨福呂坂・化粧坂及び極楽寺坂の3手に分かれて鎌倉突入を図りますが、鎌倉は千葉常胤が本拠地にするよう勧めた天然の要害の地です。南は相模湾に面し、他の三方は山に囲まれていて、細長い切通しを通らなければ鎌倉には入れません。

鎌倉を攻めあぐねた新田義貞は、同月21日未明、潮の引いた稲村ケ崎から由比ヶ浜を経て鎌倉に突入し、抵抗する幕府軍を内と外から挟撃しました。これによって幕府軍は崩され、北条高時は東勝寺で一族870人あまりとともに自害しました。幼い頃に喝食として東勝寺に入っていた足利直冬が、鎌倉幕府の滅亡の瞬間を間近で見ていた可能性も指摘されています。武士たちの所領獲得欲求に加え、渡良瀬川を挟んで向かい合う河内源氏支流の足利・新田両家の決起が、全国の武士たちを討幕に向かわせることとなりました。かくして、天皇家との外戚関係を通じて権力を獲得・維持する王朝型支配を転換させた史上初の武家政権としての鎌倉幕府は滅亡しました。

2008年6月15日
腹切りやぐら
(神奈川県鎌倉市)

新田義貞の鎌倉攻めには「龍神伝説」というお話もありますが、後世の人間が事実を踏まえたうえで遡って逸話を創作しがちなことは既に和田義盛らの安房渡航のお話のなかで触れております。それゆえ、大変有名な話ではありますが、このページでは割愛いたします。後世の人間が自らの支配の正当性を主張したり、家臣らの士気や結束を高めるためには、自らの先祖や自家とつながりのある人物には偉大であってもらわないと不都合なのです。それゆえ、前九年の役で苦戦しながらも清原氏の協力によってようやく鎮圧した源頼義や義家らも、「当時から偉大であった」という話にされるのです。

なお、この鎌倉攻めの際、相良一族の永留頼常が討死していますが、戦後の論功行賞によって相良家は日向都城を得ています。これが、南北朝期の相良家の日向侵攻のきっかけとなりました。

 
 

同月23日、後醍醐天皇は、名和長年らを先陣として船上山を発ち、京に向かいます。そして、同月25日、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇とその元号である「正慶」を廃して、一切を自らが天皇の地位を追われる前の状態に復すると宣言しました。つまり、自らの退位の時点以降に起きたことは、なかったことにするということです。この日、九州では少弐・大友・島津といった九州の3極が鎮西探題を攻略し、北条英時を自害に追い込んでいます。翌6月上旬、興福寺に立て籠っていた大仏ら旧幕府軍も降伏し、同人は後日処刑されています。

鎌倉幕府は滅亡しましたが、討幕に参加した人物らの思惑は一致しておりませんでした。後醍醐天皇は王政復古・天皇親政を志向していましたが、その皇子である護良親王は皇族でありながら自ら幕府を開府したかったようです。臣下の足利高氏も武家の立場から開府を志向し、他方で村上源氏の北畠親房にも王朝型支配のプランがあったようです。まさに「同床異夢」だったわけです。

 

それゆえ、幕府が滅亡した後に、足利高氏が討幕に参加した各地の武士たちに所領の安堵状を発給したことに対して、護良親王が強く反発しています。頼朝は富士川の戦いの後に、大磯で御家人との間で本領安堵・新恩給付を通じた封建的主従関係を結びました。高氏が安堵状を発給したことは、事実上の将軍としての振舞いとも理解でき、自ら幕府を開府したかった護良親王にとっては受け入れられません。

討幕に参加した要人たちの目指していた方向性が異なることに加え、武家同士の対立・牽制という側面もありました。西では足利高氏が六波羅探題を攻略し、東では新田義貞が鎌倉を攻略したわけですから、渡良瀬川を挟んで向かい合う両家がもっと戦勝を祝い合っても良いようにも思われます。しかし、新田義貞の鎌倉占領後、足利一族の細川和氏・頼春・師氏三兄弟は、大軍を率いて鎌倉に下向しており、これにより義貞は追われるようにして鎌倉を出ているのです。幕府を倒した後の主導権争いが既に始まっていたということでしょう。

2018年9月23日
渡良瀬橋
(栃木県足利市)

 大江広元の建議によって、鎌倉幕府は守護・地頭という新たな支配体制を全国展開しました。これにより、従来型の国司制度は有名無実化が進みましたが、後醍醐天皇は国司制度と守護制度を並置したうえで、公家を国司に、武家を守護・地頭に任じました。武家は従前どおり治安維持に関する任務を分担しますが、国司の決裁が必要です。つまり、鎌倉幕府が王朝から吸い上げた実権が、一定範囲で再び王朝に戻された格好となりました。

 ただ、討幕の檄に応じて馳せ参じたにもかかわらず、従来よりも権限を縮小されるというのはおかしな話です。しかも、公家が国司に任じられて政務を行うとされましたが、鎌倉幕府の開府以来、約150年もの長きにわたり公家は政務から離れてしまっています。武家の父祖以来の所領に関する誤判は極めて深刻な事態を生じさせる可能性がありますが、現場の実情を知らない公家が政務を適切に処理し切れるでしょうか。後醍醐天皇の近臣や寵姫らが政務に口出ししたことで、政務の公正さや恩賞の公平性に対する信頼も揺らぐことになります。

 さらに、後醍醐天皇は、後述のとおり、綸旨によらない所領の安堵を禁じてしまいます。つまり、誰にどの土地の権利を認めるかは天皇が決めるということです。幕府滅亡後に、武家らの関心がどこにあるかを理解したうえで速やかに安堵状を発給した高氏とは対照的です。これでは、自分たちの土地が「安堵」してもらえるのか、武家としては「不安」しかないでしょう。この政策自体は激しい批判によってすぐに撤回され、北条家に与した者以外の所領は安堵されることとなりました。しかし、武家にとっての核心的利益に安易にメスを入れた挙句の朝令暮改では、政権の将来に大いに不安を抱くでしょう。

 後醍醐天皇としては、「朕が新儀は未来の先例たるべし」と意気込んで、天皇親政の意欲に満ち溢れていたようですが、新政権の力の源泉がどこにあるのかについての認識を欠いていたことが建武の新政の挫折の原因であったというのが当事務所の立場です。天皇は討幕には成功しましたが、王政復古は数年のうちに挫折し、やがて河内源氏支流の足利家による第2の武家政権が成立することになるのです。

室町初期は足利家に擁立された北朝の天皇と後醍醐天皇の系統の南朝の天皇が並立する異常事態となり、その双方に武家が与して血みどろの抗争が続いていきます。また、これと並行して室町幕府の足利尊氏と弟・直義による二重権力構造の問題も顕在化したため、北朝内部でも分裂が生じます。さらに、鎌倉幕府滅亡後も東国の政務を処理するための出先機関として鎌倉府がおかれ続けたのですが、京の室町将軍と鎌倉府の鎌倉公方との間にも対立が生じました。前述のとおり、統治機構内部においては、国司と守護・地頭という二重構造も内包しています。

室町「幕府」とは言いますが、対立軸に事欠かない状況下において各地で戦闘が続いていき、やがて守護による将軍暗殺というこれ以上ない下克上が起きたり、京を舞台とした応仁の乱が勃発したことによって中央政界が混迷の度を深めていき、室町幕府の統制力や権威が弱まっていきます。そして、秩序が崩壊した戦国時代に突入していくことになるのです。

2009年12月28日
鞆の浦
(広島県)