南北朝期9 ~永享の乱~

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43 永享の乱

 

(1) 公方・持氏の野心

翌1434年3月18日、公方・持氏は鶴岡八幡宮に血書願文を納めています。将軍・義教討伐の決意の現れでしょうか。

 同年5月、明の牒使を乗せた船が兵庫に入港しました。翌6月5日、将軍・義教は明の使者と面会し、義持の代で途絶えた明との交易の再開を決定しています。三宝院満済の提案により、この面会は義満の頃の先例を踏襲しつつも華美を抑えた形式で行われています。満済は明との交易を再開するための理論的根拠も幕府に提供しています。なお、京ではこの頃に延暦寺と公方・持氏が結託しているという風説が流れています。

同年10月、駿河の今川家から幕府に対して、公方・持氏の野心は既に明白である旨の報告がありました。今川家の認識によると、持氏の野心は以前と何ら変わっていないが、それを関東管領・上杉憲実が抑えているとのことでした。この頃の幕府は憲実を通じて持氏の行動を把握しようとしています。その頃、甲斐では跡部家らが幕府に対して武田信重の守護としての入国を請願しています。甲斐では上杉禅秀の乱以降、守護不在の混乱が続いており、武田信重も守護としての入国を固辞し続けてきましたが、ここにきてようやく入国の決意を固めています。甲斐は鎌倉府の管轄を離れて幕府の支配に服することとなりました。甲斐の武田家と駿河の今川家は、後年、相模の北条家とともに「甲相駿三国同盟」とも呼ばれる姻戚関係で結ばれることになります。

 翌1435年1月、公方・持氏は幕府と結んで鎌倉府討伐を申し出ていた篠川御所・満直の討伐を命じています。篠川満直や山入祐義ら京都御扶持衆は、持氏の動静を幕府に伝え続けることになります。

 
 

同年3月、越前では羽賀寺が焼失しましたが、津軽の安藤康季が後花園天皇の勅を引受けて再建に尽力することになります。康季は「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の名で再建を開始しますが、これには日本海交易による安藤家の富の力を示す出来事という指摘もあります。

同年6月13日、幕府の非公式の最高政治顧問として、聖俗双方に多大な影響力を発揮してきた満済が死去しています。翌7月4日には、明徳の乱で凋落した山名家を再び幕府の重鎮の地位にまで復帰させた山名時熙も死去しています。同年9月26日、将軍・義教は、信濃守護の小笠原政康に対して、山入祐義への支援を命じています。既に幕府と鎌倉府の軍事衝突が不可避という情勢になっています。

 
 

翌1436年、信濃で幕府を後ろ盾とする守護・小笠原政康と公方・持氏の支援を受けた村上頼清が所領をめぐり対立しました。関東管領・上杉憲実は、公方は鎌倉府の管轄外の地域に対して口出しすべきでないと懸命に制止しましたが、持氏の村上支援を覆すことはできませんでした。この時、憲実としては「管轄外」を理由として制止したのであり、直接に「京の味方」であると表明したわけではありません。しかし、京では「上杉憲実は京の味方である」と受け止められ、このような京世論の高まりがさらに持氏と憲実の関係を悪化させていくことになりました。また、将軍・義教においても、憲実の意図に反する形で形成された世論を利用していきます。今日においても、ある人物の言動が本人の意図しない形で受け止められ、それによって形成された「世論」を錦の御旗として何かを始めようとする人物が現れるというパターンはしばしば見られます。

翌1437年2月、再び赤松満祐が狙われました。満祐は、義持の死去直前に播磨守護を剥奪され、激怒して帰国したことがあります。将軍・義教は満祐の分国のうち備前のみを残したうえで播磨・美作を借り上げて幕府の直轄領として赤松貞村に管理させようとしましたが、満祐はこれを拒否しました。義教は自ら満祐の屋敷に赴いて和解しましたが、この和解は鎌倉府との対決が迫っている状況下での一時しのぎのものにすぎなかった可能性も指摘されています。

 
 

同年夏頃、公方・持氏は小笠原討伐のために信濃に出兵しようとしましたが、上杉憲実は自らの兵を動員して持氏の軍勢の信濃入国を阻止しています。同月7日、持氏と憲実の間で話し合いがもたれ、憲実は鎌倉を退去して藤沢に移ることとなりました。信濃の抗争は小笠原家が勝利を収めたため、持氏は信濃でも義教に敗れたといえましょう。翌7月25日、憲実は嫡子を密かに上野に向かわせており、上杉家の危機が迫っていることを感じていたのかもしれません。憲実はこの騒動の過程で関東管領職を辞任しており、持氏からの復帰要請も拒み続けました。

同じ頃、安芸では武田信繁が軍勢を率いて大和に向かっています。同年1月、将軍・義教が大和の越智維通の討伐を諸将に命じていたからです。義教の弟・義昭は、兄に背いて旧南朝勢力と結んで大和に出奔しています。この大和行きは安芸武田家にとっては犠牲も伴いましたが、大きな転機ともなりました。なお、備後ではこの頃に山名家の持熙が持豊に背いて挙兵しています。持豊は備後に攻め入って持熙を討取っています。

 
 

 翌1438年6月、公方・持氏の嫡子・賢王丸の元服式が鶴岡八幡宮で執り行われました。しかし、持氏が関東管領・上杉憲実を暗殺するとの風聞が流れたため、憲実は元服式には出席していません。この時、憲実は慣例に従い将軍の通字である「義」以外の一字を与えられるよう進言しましたが、持氏はこれを拒否して賢王丸に「義久」と名乗らせています。これも持氏の将軍職への野心の現れと理解されています。

(2) 永享の乱

翌7月晦日付で、駿河の今川範忠が幕府から出陣命令を受けています。範忠は足柄峠を越えて相模に進み、持氏の軍勢と戦うことになります。持氏が息子の名前に「義」を使用したことは野心の現れと理解されましたが、後に駿河の今川家は幕府から特別に「義」を使用することを認められています。将軍の名前の下の字を賜って自らの名前の上の字に用いることで、将軍家の支配に服する姿勢を示すことであれば多く行われてきましたが、将軍の名前の上の字を賜るというのは特別なことです。

 翌8月14日、上野では上杉憲実が平井城(藤岡市)に帰国していますが、翌15日、公方・持氏が一色直兼・持家らに憲実討伐を命じたため、憲実は幕府に援軍を求めました。幕府は武田信重を甲斐守護として帰国させるとともに、信濃守護・小笠原政康にも憲実を援けて公方・持氏と戦うよう命じています。越後からは守護代・長尾邦景の軍勢も憲実の救援のために関東に向かっています。

 同月16日、公方・持氏は、かつて父・満兼が大内義弘に呼応して軍勢を進めた高安寺に出陣しています。他方、幕府も関東・奥州の諸将に対して公方・持氏の討伐を命じています。将軍・義教と公方・持氏の対立は、関東管領・山内上杉家の融和の努力によっても解消されず、結局は武力衝突に発展することとなりました。ここに、永享の乱が勃発したのです。

 
 

同月28日、将軍・義教は後花園天皇から公方・持氏討伐の綸旨を得て、上杉禅秀の次男・持房を大将として、越前の朝倉孝景や美濃の土岐持益らを出陣させました。この頃、畿内では山名持豊ら幕府軍が筒井順弘を援けて、大覚寺義昭を迎えた越智・箸尾家らが籠る大和多武峯を攻略しています。安芸の毛利熙元も幕府軍に加わって転戦しています。

 翌9月29日、千葉胤直が幕府側に加わるとともに、翌10月3日には鎌倉の留守を預かっていた三浦時高も持氏に背いてしまいました。かつて融和の使者として京に赴いた二階堂盛秀も、この乱の際に持氏を見限っています。同月6日には上杉憲実も上野を出陣し、同月19日には分倍河原に張陣しています。翌11月1日、三浦時高は鎌倉に火を放ち、同月3日、公方・持氏は憲実によって捕えられました。同月17日、持氏は鎌倉の永安寺に幽閉されています。

 翌12月5日、幕府は上杉憲実に対して、持氏を自害させるよう求めました。憲実はかつての上司である持氏の助命を嘆願しますが、認められませんでした。乱後、幕府は持氏時代からの鎌倉五山の住持を更迭していますが、これには京の将軍自ら関東を支配することを宣言する意味合いがあったという見方もあります。なお、後任人事を義教に推挙したのは上杉憲実だったといわれています。

 この年はついに幕府と鎌倉府の軍事衝突に発展した年でしたが、京では『新続古今集』が完成しています。この時、従来の「序文は撰者が執筆する」という慣例が破られ、一条兼良が序文の執筆を命じられています。

 

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翌1439年閏1月、相国寺住持・柏心周操が、持氏の助命を願っている上杉憲実を説得するため京から鎌倉に下向しています。同月、憲実は足利学校に五経を寄進しました。五経とは、『周易』(しゅうえき)・『尚書』(しょうじょ)・『毛詩』(もうし)・『礼記』(らいき)及び『春秋』(しゅんじゅう)のことで、鎌倉中期に金沢実時が金沢郷六浦に建てた図書館から憲実が持ち出した本を、足利学校の再興のために寄進したと考えられています。この頃の憲実は、直接の主君である持氏に対する忠誠心と、関東管領任命権者の義教に対する忠誠心の間で揺れ動いていた可能性も指摘されています。憲実は持氏の死後、持氏の墓所の長春院で自害を試みましたが、家臣に阻まれています。後に憲実は足利学校の講義内容と修学者について、儒学以外は禁止すると述べています。

 翌2月10日、上杉憲実は千葉胤直らに永安寺を攻めさせ、持氏を自害させました。持氏の死により、4代80年続いた鎌倉府は一旦滅亡したことになります。篠川満直とは異なり、公方側に与し続けた稲村満貞もこの時に自害しています。さらに、同月28日には持氏の嫡子の「義」久も報国寺で自害しています。永享の乱の後、鎌倉府は再興されることになりますが、その権限は従来よりもはるかに縮小され、関東にも幕府が直接に関与することとなりました。ここに、源頼朝以来250年続いた「武家の都」は終焉を迎えたのです。義教は同年7月頃までには、自らの子息を公方として下向させることを決めていたようです。将軍・義教は持氏を誅殺したことで自信を深めたのか、より一層専制の度合を強めていきますが、そのことが後に己の命を奪うことになるのです。

2009年3月13日
結城城址
(茨城県結城市)

下総の結城氏朝は、永享の乱において公方・持氏に与したため、祖父・基光以来の下総守護職を本家筋の小山持政に奪われてしまいました。このことが、翌年の結城合戦につながります。

将軍・義教は永享の乱の後、駿河の今川範忠に対して、今後は「今川」の苗字は惣領家にのみ名乗ることを許すという異例の待遇を与えています。今川家は京と鎌倉の中間において、持氏の動静を京に報告したり、富士遊覧の際には接待も務めるなど、優れた功績を残してきました。「今川」の名が惣領家に限定されたことから、惣領家以外の今川一族は新たな名を名乗る必要が生じ、「堀越」などの家が新たに生じました。

 
 

同年11月20日頃、上杉憲実は上杉憲顕が創建した伊豆の国清寺に入りました。憲実の出家により、この時期の関東には公方も関東管領も存在しなかったことになります。その政治空白のもとで、持氏の遺臣たちが公方家の再興に向けて動き出すことになります。