鎌倉期8 ~元寇~

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32 元寇

(1) 文永の役

ア 外交権の所在

 1268年1月、初めてモンゴルから我が国に国書が届きました。高麗の使者・潘阜(はんぷ)が大宰府に到着したのです。当時のモンゴルは、騎馬民族の機動力を活かして中東から東アジアにかけて広大な領域を支配しておりました。モンゴルではどう理解されているかはわかりませんが、今日の我が国の研究者は、「降伏すればこれを受け入れたうえで富を収奪し、歯向かえば皆殺しにする」というのが当時のモンゴルの手法であったと理解しているようです。

 そして、一般の日本国民においても、「鎌倉時代に我が国はモンゴルに攻め込まれた」という認識が広く浸透しております。確かにそれはその通りなのですが、我が国だけでなく広く東アジアのなかで考えてみますと、南宋の攻略に手を焼いていたモンゴルが、南宋を降すために我が国を南宋包囲網のなかに組み込みたかったのではないかという指摘もあります。つまり、南宋攻略の一環としての日本侵攻という位置づけです。

 国書を受け取った我が国では、2つの論点が生じたと理解することができます。1点目は、モンゴルと交渉するための外交権は朝廷と幕府のいずれにあるのか、2点目は、外交権が朝廷にあるとして、我が国はモンゴルに対して返書を送るべきかどうかです。1点目については、同年2月7日に幕府が国書を朝廷に提出しており、外交権が朝廷にあるということについての幕府の自認があったわけですから、特に問題は生じませんでした。2点目については、同月19日、朝議において「返牒せず」と決定しました。

 武家政権はその成立以来、従来の王朝型支配体制から権限を吸い上げてきておりました。それゆえ、対外的な問題について朝廷と幕府のいずれが対応すべきなのかが問われたわけですが、当時の我が国としては、外交権は朝廷にあるという理解を前提としたうえで、モンゴルからの「おとなしく言うことを聞け」というメッセージに対して無視を決め込んだわけです。ただ、同時に幕府は西国の守護らに対して警戒するよう命じています。同年3月5日には、北条時宗が北条政村と交代する形で執権に就任しました。これ以降、時宗が執権の立場から「未曽有の国難」と向き合うことになります。

イ 日蓮の佐渡配流

日蓮宗を開いた日蓮は、既に幕府に対して『立正安国論』を提出して幕政改革を提案しておりましたが、日蓮の主張は幕府には採用されておりませんでした。『立正安国論』のなかで、自説を採用しなければ「他国侵逼」、つまり外国が攻め込んでくると予言していた日蓮は、モンゴルから国書が届いたことを幕政改革の好機と捉え、再び幕政を法華経によって正すべきだと主張しましたが、幕府には採用されませんでした。

ウ 数次にわたる招諭使の来日

 1269年2月16日、第2回招諭使が対馬に到着しました。前回と異なり、朝廷は「返牒すべし」と決定しましたが、その直後に幕府から「返牒せず」の方針が指示され、これに従っております。後嵯峨上皇は幕府の後押しで天皇に即位した経緯があったため、幕府に従順だったともいわれています。

 外交権の所在については「朝廷にある」という理解で争いがなかったはずですが、幕府からの指示には従っていることからすれば、今日における行政指導的なイメージに近いでしょうか。一般国民に対してなのか、朝廷に対してなのかの違いはあっても、事実上の影響力の行使を通じて、相手方に対して「任意の行動」を促しているという意味では似通っています。ただし、一般国民による「任意の行動」の結果は、たとえ影響力の行使の結果としての行動であっても、行動した者の自己責任とされる可能性がある点には注意が必要です。

 同年9月17日、第3回招諭使が対馬に到着しました。朝廷は前回と同様、「返牒すべし」という立場に転じていたのですが、今回も幕府が「返牒せず」の方針を示して従わせています。理由は、「牒状の無礼」です。1270年1月27日、六波羅探題北方の北条時茂が死去しました。これ以降2年近くの間、六波羅は南方の北条時輔のみという状態が続き、返牒をめぐる朝幕の対立の板挟みとなっていきます。

 

 同年7月、毛利経光は越後国佐橋荘の地頭職を長男・基親と四男・時親に分割譲渡しました。この相続において時親が優遇されているのは、時親の妻の実家の長崎家に配慮した可能性が指摘されています。宝治合戦の後も毛利家の存続を認めてもらったという経緯もありますから、毛利家としては北条家に足を向けて寝られなかったということでしょうか。

 ・基親:惣領職・北条地頭職

 ・時親:南条及び安芸国吉田荘地頭職

 南条毛利時親の妻は北条得宗家御内奉公人の長崎泰綱の娘・亀谷局で、この頃には一般の御家人よりも北条得宗家と結びついた御内人の立場が強くなっておりました。時親は六波羅探題評定衆を務めたほか、河内国加賀田郷(河内長野市)にも土地を与えられていて、これは宝治合戦で転落した家の人物としてはかなりの出世といえます。北条毛利基親は北条城址の南麓に居館を構え、南北朝期には北条城を築城しています。

この頃、朝鮮半島では三別抄がモンゴルに対する抵抗を続けていました。三別抄はモンゴルに押されつつも、慶尚南道や全羅南道の沿岸を襲撃して、モンゴルが日本遠征のために準備していた軍艦を焼き払ったり、兵糧を奪ったりしています。ただ、三別抄が我が国に援助要請をしてきても、当時の朝廷には対外問題を正確に分析する能力が備わっておらず、満足のいく回答をすることができなかったともいわれています。朝鮮の三別抄の抵抗活動によって、結果的に我が国はモンゴルの襲来を数年先に引き延ばしてもらえました。

 
 

1271年9月12日、『立正安国論』によって幕政を諫めた日蓮が龍口寺で斬首されかけたのですが、その時に江の島から光るものが飛来してきたため処刑がとりやめになり、佐渡に流されたという逸話もあります。

 同月13日、幕府はモンゴルに備えさせるために、九州に所領を有する御家人に対して九州下向を命じました。同月15日、第5回招諭使が今津に到着しました。朝廷は和親返牒の立場でしたが、幕府の「返牒せず」の方針に従っています。ただ、これまでとは異なり、今回の使節は強硬に上京を主張するとともに、11月を期限として我が国からの返書を求めてきており、期限を徒過すれば武力行使する旨も伝えてきております。時宗は、単なる脅しではなく本当にモンゴルが攻め寄せてくることを確信し、本格的に防御の準備を進めることになります。

 同年11月27日、六波羅探題北方に任じられた北条義宗が鎌倉を発ち京に向かいます。その目的としては、朝廷の和親返牒方針に同調しがちだった北条時輔を監督する狙いがあった可能性があるとの指摘もあります。なお、この年、モンゴルは国号を「蒙古」から「大元」に改めています。1272年2月11日、かねて謀反の噂のあった北条一門の名越時章・教時兄弟が誅殺されました。また、同月15日には、六波羅探題南方の北条時輔も北方の北条義宗によって誅殺されました。時輔は、朝廷の和親返牒派と結んでモンゴルとの融和路線を模索していたともいわれています。あるいは、時輔と名越兄弟の間に何か謀議があったでしょうか。この二月騒動によって反対派を排除して国論を統一し、対モンゴル政策を強力に推進できる環境を整えたわけです。

 
 

 さらに、同月17日には後嵯峨上皇が治天の君の決定を幕府に委ねたまま死去してしまいました。これ以降、後深草(持明院統)と亀山(大覚寺統)の間で皇位継承をめぐる争いが続いていきます。そして、この争いが後醍醐天皇の討幕運動に影響を与えた可能性が指摘されています。

 同年5月、文永の役の前の最後の使者となる第6回招諭使が大宰府に到着しましたが、これまでと同様、満足のいく回答を得られないまま翌1273年3月頃に帰国の途についています。この時、使者は本来の任務を遂行しつつも日本の国情や防備を探っており、使節名目の情報収集活動という側面もあったようです。この情報収集により、モンゴルは我が国の地理を理解したうえで攻め込むことができたのです。なお、日本側はこの最後の招諭使に対して、「今後、同様の使者をよこした場合は処刑する」と伝えています。

エ 日本遠征の決定

同年5月、我が国に臣従の意思がないとの報告を受けたフビライ・ハンは、日本遠征を決定しました。また、フビライ・ハンは同年9月にはアイヌ出兵も命じています。元が九州に襲来したことはよく知られていますが、樺太からも侵攻しつつあったことはあまり知られていません。この年、時宗は建長寺に国家安泰の願文を捧げています。

 
 

オ 元軍の襲来

 遠征を決定したフビライ・ハンは、1274年1月、降伏させた高麗の元宗に高麗の負担で遠征のための戦艦を建造することを命じています。被征服地の富は収奪され、人員その他の資源も真先に動員され、戦場ではえてして最もリスクの高い最前線に配置されるのです。ただ、高麗人からすれば、祖国を守るための戦争であればともかく、征服者の戦争のために駆り出されても、高いレベルで士気を維持することは困難でしょう。戦艦の建造を命じられても、あちこちに手抜きがあったことが予想されます。いわゆる「神風」によって元の戦艦が軒並み大きな被害を受けた背景には、高麗によって建造された戦艦の仕上がりが粗悪だった可能性が指摘されています。

 同年4月8日、鎌倉に呼び出された日蓮は、平頼綱から元寇への対処について、これまでとはうって変わって丁寧に質問されています。幕府は日蓮を佐渡に配流したはずなのですが、「未曽有の国難」に直面した幕府としては、やれることはすべてやっておこうということでしょうか。同年5月、元の都の北京で、高麗の諶(元宗の子)とクツルガイミシ(フビライの皇女)の結婚式が挙行されました。高麗としては、この婚姻によって少しでも元からの圧力を緩和させたいと考えていましたが、元の対応は特に変わっておりません。

その頃、甲斐源氏で日蓮宗信者の南部実長は、佐渡配流を終えて鎌倉に戻っていた日蓮を波木井に迎えています。波木井南部家は、南部光行の三男・実長が父から波木井三郷(身延町波木井)を譲られたところから始まると伝わります。日蓮はこれをきっかけとして約8年間身延山に留まることになります。

 同年6月中旬、高麗の元宗が死去したため、再び日本遠征が延期されました。我が国としては、さらに準備の余裕が生まれたことになります。同年8月、高麗で諶王が即位しました。この時から大元皇帝に対する従属の表れとして、従来の「宗」ではなく「王」を称しています。我が国においても、後の室町幕府の第3代将軍・足利義満が貿易の利益のために「日本国王」に封じられていますが、現代の保守系日本人からはすこぶる評判が悪いです。

 

2009年2月9日
小茂田浜海浜公園
(長崎県対馬市)

同年10月3日、元・高麗連合軍が日本遠征のため出陣しました。これまで軍勢の人数などの数字は信憑性の問題から意識的にお出ししてこなかったのですが、ここでは弘安の役との比較という意味で人数もご紹介します。

 ・元軍:約20,000人
 ・高麗軍:約6,000人

 ・総大将:忻都(モンゴル人)
 ・副将:洪茶丘(高麗人)
      劉復亨(漢人)

同月5日の午後4時頃、小茂田浜に元軍の戦艦が姿を見せました。報告を受けた対馬守護代・宗助国はその日の夜のうちに海岸へ向かい、翌朝に使者を遣わして来航の理由を尋ねました。しかし、元軍からの返答はなく、いきなり船上から矢を放たれるとともに続々と将兵が上陸してきました。宗助国はわずかな手勢で迎撃するも敗死しました。

同月14日、元軍は壱岐勝本町に押し寄せました。壱岐守護代・平景隆がこれを迎撃するもやはり敗死しました。この戦いの際、日本軍は古来からの戦場の作法にのっとって名乗りから始めましたが、元軍はいきなり鐘や銅鑼を打ち鳴らして押し寄せてこの者を殺害してしまったと伝わります。景隆の妻も息子と景隆の老母を殺害した後に自害しています。日本軍の全滅後、壱岐島全域で非戦闘員も含めた虐殺が行われました。

2009年2月9日
小茂田浜
(長崎県対馬市)

2009年2月8日
松浦党発祥の地
(長崎県松浦市)

 同月17日、元軍は肥前鷹島に上陸し、松浦党の軍勢と戦闘になっています。ここでも日本軍を破った元軍は虐殺を行い、老婆2人しか生き残らなかったとも伝わります。

 同月19日、元軍は鷹島から波戸岬沖を東航して博多湾へ侵攻しました。このあたりの移動の際は、招諭使がもたらした情報を活用しています。この時、元軍の一部が今津に上陸し、陸路を海岸沿いに今宿・姪浜方面に向かい、途中で肥後の菊池武房らと赤坂で戦闘になっています。

翌20日、高麗軍の主力が百道海岸への上陸作戦を敢行します。少弐景資は赤坂の菊池武房に出撃を命じます。武房は百道海岸に向かおうとしましたが、元軍の別動隊に阻まれ、この間に元軍の主力は百道浜への上陸に成功しました。そして、別動隊と合流のうえで、塩屋・鵜飼方面に進撃していきます。竹崎季長が奮戦したのはこの時のことです。

2009年2月6日
中洲川端駅(福岡県)

 

さらに、元軍の主力も小戸岬沖を通過して博多沖の浜と箱崎浦に上陸しました。沖の浜では少弐景資が迎撃するも敗退、箱崎浦から香椎あたりでは島津・大友らの軍勢が戦っています。元軍は博多でも虐殺を行い、櫛田神社もこの時に焼失しました。幕府の鎮西探題が事態を甘く見ており、非戦闘員を博多からよそに移していなかったために、被害が拡大してしまったのです。日本軍は博多から大宰府に撤退し、水城に張陣して元軍の攻撃に備えることとしました。

 この日の戦闘後、元軍は陸で野営するのではなく全軍が船に引揚げました。船上での軍議では、高麗人の金方慶が「博多に留まって、明日大宰府を攻撃すべき」と主張したのに対して、同じく高麗人の洪茶丘は「これ以上戦っても決定的な勝利は望めないため、不利な持久戦となる前に撤退すべき」と主張しました。

 モンゴル人の忻都が洪の意見を採用したため、元軍は撤退することになりました。このような理解を前提とすれば、文永の役に関しては、たとえ「神風」が吹かなかったとしても「元軍を撤退させることに成功した」という意味で日本の勝利といえるのではないでしょうか。元軍としては、予想以上に激しい抵抗を受けたため、次回は十分な兵力を伴って必勝を期するといったところでしょうか。

 ところが、元軍が博多湾を出たところでいわゆる「神風」が吹き、元軍の戦艦は大打撃を受けたとされています。翌21日の朝、日本軍が見たのは「神風」によって壊滅した元軍の姿でした。すかさず大友頼泰の軍勢がこれを追撃しました。こうして文永の役は、辛くも日本軍の勝利で終わりました。

2013年7月16日
大友頼泰墓(大分県大分市)

 

なお、文永の役があったこの年、京では亀山天皇が後宇多天皇に譲位して院政に移行しています。時宗は持明院統と大覚寺統の妥協策として、煕仁親王を皇太子としたうえで、両統を交代で即位させることに決めました。

(2) 弘安の役

ア 第7回招諭使を処刑

 
 

 翌1275年2月9日、フビライ・ハンは再度の日本遠征計画に着手します。文永の役の司令官たちが、自分たちに都合の良い情報をあげたため、フビライ・ハンの認識としては、「戦意を喪失している日本を降伏させる」つもりだったようです。現代の組織においても、正確な情報が上層部まで上がってくる体制をいかに構築するかが重要なテーマとなっております。

 同年4月15日、第7回招諭使が長門室津に到着しました。しかし、前回の招諭使に対して、「今後、同様の使者をよこした場合は処刑する」と伝えてあります。長門守護・二階堂行忠の取調べの後、従者40名を長門に残して使節5名は鎌倉に連行されることになりました。この時、京の公家が幕府の対外政策に横槍を入れてくることを警戒し、一行は京を避けて鎌倉に向かっています。

 幕府は周防・安芸、さらには備後の御家人も長門国の警備のために動員していますが、動員された将兵らとは逆方向に進んだのが肥後国の竹崎季長です。同年6月3日、季長は恩賞に関する訴訟のために鎌倉に向けて出発し、同年8月13日に鎌倉に到着しています。季長は御恩奉行の安達泰盛との面会を許され、文永の役の軍功によって肥後国海東郷と駿馬1頭が与えられました。

 これによって、季長は初めて地頭の身分を得たわけですが、季長の場合はまだ良いケースで、幕府は防衛のために戦った御家人たちに対して十分な恩賞を用意することができませんでした。なぜなら、文永の役は侵略戦争ではなく自衛戦争だったため、元軍の撃退に成功しても新たな国土は何ら得られていないからです。後三年の役を「私戦」と認定された源義家のように、幕府も自らの領地を削ることで恩賞を捻出しました。また、何か粗相があれば御家人から所領を取りあげて、これを恩賞に充てることも可能です。しかし、これらには自ずから限界があります。

 

2009年2月8日
名護屋城天守台跡地から
(佐賀県唐津市)

 約300年後、今度は我が国の豊臣秀吉が朝鮮出兵を行うことになるのですが、それを「晩年の秀吉が無謀なことを考えた」という個人の能力や資質の問題だけで説明し切ることは困難で、配下の武士たちに十分な恩賞を与え続けるためには領土を拡張し続けなければならないという武家政権に内在する要因があったという指摘もなされています。つまり、パイを拡大し続けないと、果実を分配できなくなるのです。奥州藤原氏を討伐した奥州合戦の際は、奥州が鎌倉の御家人たちのフロンティアとなったため、恩賞に対する不満は生じておりません。

 同じ頃、第7回招諭使も鎌倉に到着し、時宗の前で国書を差し出してフビライ・ハンを讃えるとともに、元との国交がいかに両国の利益となるかを堂々と力説しました。しかし、前回の招諭使に「処刑する」と伝えてあるわけですから、翌9月7日、使節を龍口寺で処刑することによって我が国の決意が不動のものであることを内外に示したのです。これによって、元軍の再来が必至の情勢となりました

イ 国論の統一

 ただ、国内には新たな路線対立が生じておりました。当時は北条時宗が執権として、得宗家御内人と御家人のバランスの上にたって「未曽有の国難」に対処していました。そして、御内人と御家人、江戸時代的に言えば、譜代と外様の緊張関係におおむね対応する形で、高麗遠征派と専守防衛派の路線対立が生じたのです。

 1275年11月の時点では、高麗遠征派が優勢だったのですが、翌年10月23日、高麗遠征派の金沢実時が死去すると、再び専守防衛派が勢いを盛り返し、同年12月には高麗遠征派の北条義宗も六波羅探題を罷免されています。

 
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『三国志演義』においても、赤壁の戦いの前哨戦において、呉の孫権は開戦か降伏かの選択だけではなく、国論を統一したうえでいかにして家臣たちを一致団結させるかに心を砕いています。また、北伐の頃の諸葛亮も、北伐反対派の離間の計によって祁山の前線から成都に帰還させられています。国論の統一に問題があると、弾は前からだけではなく後ろからも飛んできます。

ウ 入念な事前準備

 1276年3月、幕府は高麗遠征の準備として、博多湾沿岸に石築地を築造することを命じていますが、既に幕府内では専守防衛論が相当に勢力を盛り返しております。石築地の築造には、菊池・阿蘇・相良といった九州の御家人らが従事しています。幕府が元軍の再来に備えているさなか、この年に踊念仏で有名な一遍が大隅・豊後を皮切りに遊行上人としての生活に入っています。

 1279年2月、ついに南宋が滅ぼされました。文永の役については、我が国を南宋包囲網に組み込む目的という理解もあり得ますが、南宋の滅亡により、弘安の役に関しては、我が国自体が侵略の標的となったという理解で良いでしょう。同年7月、時宗は再びフビライ・ハンの使者を博多で処刑しています。翌1280年5月頃には、九州の武士らがたびたび高麗の南岸を襲っていますが、これはもっぱら情報収集目的だったようです。

2009年2月10日
リアス式海岸(長崎県対馬市)

エ 元軍の再来

 1281年5月3日、元軍(東路軍)が日本に向けて出陣しました。前回とは異なり、既に南宋は滅ぼされていますから、高麗軍に加えて旧南宋軍も投降直後の日本遠征で最前線に送り出されています。文永の役の際にご紹介した数字は総勢26,000人でしたが、今回は総勢140,000人ということになっています。今回は元軍も本気を出してきたというところでしょうか。

 ・高麗軍を主力とする40,000人
 ・旧南宋軍を主力とする100,000人

 同年5月21日、元軍が対馬沖に姿を見せました。同月26日、壱岐島で東路軍と壱岐守護代・少弐資時(鎮西奉行・経資の息子 文永の役で討死した平景隆の後任)の間で戦闘になり、壱岐の日本軍は全滅したものと思われます。

同年6月6日、東路軍は博多湾に向かいましたが、元軍は前回とは異なる風景に驚きます。香椎から今津大原にあけて約20kmにわたり石築地が築かれていたのです。これを見た元軍は作戦を変更して、軍を二手に分けて、一隊をまだ石築地が築かれていなかった志賀島から筑前内陸部へ侵攻させ、もう一隊を長門の西部海岸から上陸させることにしました。関門海峡を遮断すれば、九州の鎮西探題の軍勢を孤立させることができます。

2009年2月9日
金印公園(福岡県福岡市)

2009年2月9日
金印
(福岡県福岡市 金印公園内)

 志賀島上陸作戦では、豊後守護・大友頼泰と安達盛宗が率いる関東勢が元軍を破りました。元軍は陸での敗戦と船中に蔓延した疫病によって戦意を喪失し、志賀島沖から撤退して後続の江南軍と合流したうえで態勢を立て直すことにしました。日本軍もこれを追撃して壱岐島の瀬戸浦沖で海戦が繰り広げられています。

 長門西部海岸上陸作戦では、周防の多々良弘貞の軍勢も関門海峡を渡って小倉に張陣し、肥後の菊池家や豊後の大友家の軍勢と合流して元軍を迎撃しています。この時、人吉の相良家も菊池武房に従って軍功をあげた可能性が指摘されています。

同年7月30日、合流後の東路軍・江南軍は、肥前鷹島沖に集結しました。しかし、これから我が国に対する本格的な攻撃が始まろうとしていたこの日の夜、暴風雨によって元軍の戦艦の大半が転覆・沈没したのです。これが弘安の役です。この頃の時宗は、重圧によるものか、強度の神経症になっていたようです。ユーラシア大陸と陸続きであるため、絶えず中華圏からの侵略や影響にさらされ続けた朝鮮半島と、海を隔てていたために独立を維持できた日本。地理的条件が国家の運命を決定づけたとも理解できます。

 
 

それに先立つ同年6月18日、京では亀山上皇を中心として戦勝祈願のための祈祷が始まっていました。京の公家や神社は、祈祷によって神仏が龍神・雷神・鬼神に変わって元軍と戦ってくれると本気で信じていたようです。それゆえ、神風が吹いたことも自分たちの祈祷の「成果」だと喧伝しました。他方、実際に戦場で戦った武士たちは、当然に自らの武功を主張しています。

 「タタールのくびき」の極東版という展開にならなかったことは大多数の日本人にとっては喜ばしいことのはずですが、法華経によって幕政改革をしなければ他国が攻めてくると「予言」していた日蓮は、元軍が敗北した事実をどう理解したのでしょうか。日蓮は、弘安の役以降、弟子たちに対して「今後、蒙古襲来のことは一切言及してはならない」と緘口令をしいています。

 翌1282年9月、寒さが身に染みるようになった日蓮は、身延山を下山します。南部実長は、長男・実継に日蓮を武蔵国池上の池上宗仲邸まで送らせます。翌10月13日、日蓮は池上宗仲邸で死去しています。同月25日、日蓮の遺骨が遺言どおり身延に送られ、同地に葬られました。そして、南部実長が日蓮を身延山に招いたことがきっかけとなって、身延山久遠寺が建立されることになりました。

 
 

同年12月8日、時宗は元寇の敵味方の死者の供養のため、円覚寺を建立しました。神風から約3年後の1284年4月4日、時宗自身も急死して円覚寺に葬られています。

やはり、神風特攻隊についても一言触れざるを得ません。弘安の役で元軍の戦艦が暴風雨によって転覆・沈没したことは歴史的・客観的事実です。しかし、後世の人間がこの事実を基にして、「日本は神によって護られている」と考えることは主観的な政治思想です。どこまでが客観的に確定された事実で、どこからが主観的な思想なのか、両者の峻別が重要であると感じたことが、私が本ページを作成した動機の1つとなっています。もちろん、頭の中で両者を峻別したうえで、なお政治思想を主張することは当人の政治的表現の自由です(憲法第21条第1項)。なお、元軍は北九州では敗れましたが、樺太方面への侵攻はその後も続いています。