鎌倉期7 ~宝治合戦~

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31 宝治合戦

 

(1) 宝治合戦に至るまでの流れ

1226年1月8日、幕府は頼経の叙位と将軍宣下を朝廷に奏請しています。同月27日、頼経は8歳で第4代将軍に就任しました。源氏の将軍は実朝までの3代で終わりましたが、その後も公家や皇族の将軍が続いていることに注意してください。なお、この年に仙遊寺の主要伽藍が完成し、、「泉湧寺」と改称されています。

1229年には、隨心院が後堀河天皇から門跡の宣旨を賜りました。

 
 

1230年、執権・泰時を不幸が襲います。同年8月、三浦泰村に嫁いでいた泰時の娘が、女児を出産した直後に死去しました。北条と三浦の結びつきを回復するため、泰時の妹が再び泰村に嫁ぎますが、泰時の妹も1236年に死去してしまいました。泰時の最初の妻は三浦義村の娘で、時氏を生んでいましたが、ほどなくして離婚しているため、北条と三浦の姻戚関係が途絶えてしまいました。これが11年後の宝治合戦の伏線となります。

1232年7月11日、『御成敗式目』(51ヶ条)が制定され、北条泰時は「武家法の創始者」となりました。

 
 

1235年春頃、宇都宮蓮生は、藤原定家に対して嵯峨中院の襖障子に色紙を貼りたいと相談します。そこで、定家は天智天皇以降の「古来の人の歌各一首」を書き上げて蓮生に贈りました。これが小倉百人一首の原型となったといいます。

 「小倉」とは、定家が小倉山の時雨亭で百人一首を選んだことに由来します。

 
 

同年、石清水八幡宮と興福寺の間で流血事件が起きたのですが、甲斐国守護の武田信政は事件への関与を疑われて安芸に流された可能性が指摘されています。信政はその後10年あまりを安芸で過ごすことになり、息子の信泰(安芸武田氏祖)・信綱(若狭武田氏祖)も安芸滞在中に生まれています。

1239年11月2日、北条時頼と毛利季光の娘の結婚式が挙行されました。同年12月5日、三浦義村が死去し、泰村が家督を継いでいます。時頼の結婚は、毛利家を介して、泰時の妹の死によって姻戚関係が途絶えていた三浦家との結びつきを回復する狙いもあった可能性が指摘されています。

 
 

1241年8月2日、藤原定家が死去しました。

1242年1月、四条天皇の崩御により、泉湧寺で葬儀が執り行われました。この時に御陵が営まれ、これ以降、多くの天皇・皇后の葬儀が行われるようになったため、泉湧寺は「御寺」と呼ばれるようになりました。

 
 

同年6月15日、執権・泰時が死去しました。後任は、泰時の孫の経時です。

 同年、近江の佐々木信綱が死去し、分割相続が行われました。

・泰綱(三男):近江守護・佐々木家惣領職・佐々木庄小脇本邸・京都六角東洞院の屋敷
        愛知川以南の近江6郡の地頭職

・氏信(四男):坂田郡柏原別邸・京極高辻の館
        愛知川以北の近江6郡の地頭職(大原庄・田中庄を除く)

 六角東洞院の屋敷は、酒の席で畠山重保とトラブルになった平賀朝雅の屋敷で、京極高辻の屋敷は、承久の乱の際、大江親広に襲撃された京守護・伊賀光季の屋敷です。泰綱と氏信が相続において優遇されたのは、母が北条泰時の妹(養女)だからと思われます。これ以来、愛知川以北の佐々木を京屋敷の名前から京極家、同川以南の佐々木も京屋敷の名前から六角家と呼ぶようになりました。そして、この分割相続が、その後の近江の支配権をめぐる両家の抗争の原因ともなりました。

 

他方、長男の佐々木重綱は承久の乱の際には宇治川を徒歩で渡って武名をあげていたのですが、この相続の不平等を幕府に訴え出ています。今日においても、相続をめぐるトラブルは多く発生しております。一般的には、自分の死後に子どもたちを争わせないようにするために、あらかじめ遺言を残しておくことが推奨されていますが、近江の佐々木家の場合は、遺言自体はあったけれど、その内容の公平性が問題になったと理解できます。今日の価値観で考えるならば、北条家の女性を母にもつ三男と四男が不当に多くの財産を相続したとして、長男の重綱の遺留分が侵害されたかどうかが問題となるでしょう(民法第1028条以下)。

1244年4月21日、将軍・頼経の嫡子・頼嗣(6歳)が元服し、執権・経時は、この日の夕方に頼嗣への叙位と将軍宣下を奏請する使者を京に送っています。同月28日、頼嗣は将軍宣下を受けました。『吾妻鏡』は頼経が自らの意思で嫡子に譲ったかのような記載をしていますが、執権権力の強化を狙う執権・経時の圧力による退位と思われます。頼経はすぐに京に戻される予定でしたが、長らく将軍職にあった頼経に親しみを抱く御家人らも多かったため、「大殿」と呼ばれながら鎌倉に留まっています。

 しかし、一方で将軍・頼嗣に代替わりしておきながら、他方で頼経が「大殿」と呼ばれて尊重されている状況は二重権威の問題が生じます。1246年3月23日、経時は執権を弟の時頼に譲り、閏4月1日に死去しました。このタイミングで、北条一門の名越光時が「大殿」・頼経を擁立して時頼を排除しようとしていることが発覚しました。同年5月25日、光時は髻を切って時頼に降伏し、翌6月13日、光時の伊豆配流、頼経の京への追放が決定しました。

 
 

(2) 宝治合戦

 同年7月11日、毛利季光の四男の経光は、頼経を京に送り届けるための路次供奉人として鎌倉を出発しました。このことをしばしご記憶ください。この時、別れ際に三浦光村(泰村弟)が涙を流しながら、「今一度鎌倉に入れたてまつらん」と言ったと伝わります。公式の将軍が存在していながら、非公式の「大殿」も存在しており、しかも、民心は執権権力の強化のために圧力をかけた北条家ではなく、圧力をかけられた末に京に追放されることとなった「大殿」に向いている状況です。このような状況下において、涙を流しながら「もう1度鎌倉に入れて差し上げます」と述べたら、叛意の現れと受け止める者も現れます。

北条家の三浦家に対する警戒心が高まっていた頃、毛利季光は娘婿の時頼の執権就任によって執権外戚の地位を得ておりました。確かに、季光の妻は三浦義村の娘ですが、北条と三浦の間に何かが起きた場合、時頼側に参じる覚悟を抱いており、また、北条側においても、毛利季光が三浦に与するとは思っていませんでした。1247年1月3日、将軍・頼嗣の御行始は、執権・北条時頼邸に始まり、次いで毛利季光邸に入っています。毛利季光の時代の到来を示す事実はいくつもありました。

 
 

 同年4月、安達景盛が高野山から鎌倉に下向して執権・時頼と面会しています。この時、息子の義景と孫の泰盛に対して、三浦一族への「対応」を考えるよう強く戒めています。翌5月21日には、鶴岡八幡宮の鳥居の前に何者かによって「三浦一族への誅罰が加えられるべきである」と記載された立札が立てられました。北条氏側からの三浦泰村に対する挑発の可能性も指摘されています。

 6月1日、北条時頼の意を受けて、京極屋敷を相続したばかりの佐々木氏信が三浦邸を訪れ、泰村の様子をうかがっています。同月3日、三浦泰村は、時頼に対して野心がまったくない旨の書簡を書き送りました。さらに同月5日、時頼においても、三浦家を討伐するつもりはないから、武装解除するよう返書を送りました。

 和平交渉の進展により衝突は避けられるかにも思えましたが、これに危機感を抱いたのが安達景盛です。景盛は義景・泰盛らを呼び、三浦家との即時開戦を命じてしまうのです。安達家が甘縄の自邸を出陣すると、これを知った鎌倉周辺の御家人らの多くも安達に従って三浦一族討伐のため出陣しました。これが宝治合戦です。

敗れた三浦一族は法華堂に集まり、頼朝の御影の前で約500人が自害しました。頼朝挙兵の際、頼朝を援けるために石橋山に向かった三浦本宗家も滅ぼされ、これ以降、北条得宗家中心の幕政運営が続いていくことになります。「得宗」とは、2代執権・義時の法名で、それがこの時代には北条家惣領の意味として用いられていました。三浦一族の長尾景茂も三浦家に与した末に法華堂で自害し、長尾一族は離散した後に上杉家を頼ることになります。

2007年12月31日
法華堂跡地
(神奈川県鎌倉市)

2009年3月10日
伝・佐原義連墓
(福島県喜多方市)

三浦一族でありながら北条時頼に与した佐原光盛・盛時・時連らは得宗被官となり、盛時が三浦介を安堵されて三浦宗家を継ぐことになります。この系統から会津の蘆名家が興ります。

悲惨な最期を遂げたのは三浦一族だけではありませんでした。毛利季光は、当初は予定どおり娘婿の北条時頼に味方するために将軍御所に向かおうとしたのですが、三浦義村の娘である季光の妻に引留められ、「武士としてとるべき態度か。」と非難されました。妻の言葉で決断が鈍った季光は、一転して妻の実家である三浦家の救援に向かったと伝わります。その結果、季光の長男・広光、次男・親光、三男・泰光らの系統も含めて毛利一族は全滅し、ただ前将軍・頼経を京に送り届けたまま鎌倉を留守にしていた四男・経光だけが生き残ったのです。経光は頼経の路次供奉人の任務を終えた後、鎌倉ではなく越後国佐橋荘に行っていたのかもしれません。

 当時の毛利季光は執権外戚の立場にあり、将来が約束されていたともいえます。また、本人も有事の際は時頼に味方するつもりでおりました。一般に、歴史的評価は当時の価値観に即して下されるべきですが、それを承知であえて現代の価値観に立脚して申し上げれば、土壇場での妻の浅慮と夫の迷いが毛利一族全体を不幸にしてしまったということになるでしょう。三浦家と姻戚関係にあった関政泰や千葉秀胤らの一族も滅ぼされました。常陸の関政泰の本拠地は近隣御家人らの襲撃を受け、同地に残っていた一族郎従らは放火を受けた末に虐殺され、悲しみの叫び声が一帯に響き渡ったと伝わります。毛利荘でもこれと同様のことが起きていたと考えるのが自然でしょう。

 

2009年9月23日
佐橋神社
(新潟県柏崎市)

これから毛利の時代が始まろうとしていたまさにその矢先に、毛利家は経光を残して全滅したのです。ただ、季光の父は幕府草創期に御家人序列第1位にまで昇りつめた大江広元です。また、広元の嫡流の長井泰秀は依然として幕府の中枢に身をおいておりました。それゆえ、経光は反乱に与した者の息子でありながら、越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職を安堵され、毛利家の存続を許されたのです。

 毛利経光は本拠地を相模国毛利荘(厚木市)から越後国佐橋荘(柏崎市)に移すとともに、安芸国吉田荘(安芸高田市)には代官を派遣して支配することにしました。ただ、本拠地を佐橋荘に移した後も、「毛利」の名を捨てておりません。武家の都・鎌倉に近い相模国毛利荘には、名乗り続けるだけのブランド力があったのかもしれません。毛利家は鎌倉後期は長井家を惣領と仰ぎ、その庇護のもとで生存を図ることになるのです。毛利家は後に佐橋荘を南北に分割相続した上で、南条毛利家の本拠地を安芸国に移すことになるのですが、長井泰重(泰秀の弟)の系統は六波羅探題評定衆・備後国守護として西国に進出し、この長井一族が安芸毛利家の領国経営を助けることになります。

 宝治合戦後の6月下旬、結城朝光が鎌倉に赴き、執権・時頼と面会します。この時、「自分が鎌倉にいたら三浦泰村をたやすく討たせなかった。」と述べたと伝わります。頼朝の挙兵を当初から支え続けた三浦家の滅亡を、朝光はどう受け止めていたでしょうか。

(3) 足利家の危機

頼朝の挙兵の際、新田義重は去就を明らかにしませんでしたが、足利義氏は頼朝のもとに馳せ参じました。それゆえ、同族でありながら、鎌倉期を通じて足利家は重用されましたが、新田家は冷遇されました。しかし、その足利家にも危機が訪れます。宝治合戦後、北条家は将軍権力の強化のために将軍・頼嗣を追放して皇族を迎えようとしたのですが、これに反発する勢力も存在しました。そして、反北条の動きに関与した疑いをかけられた足利泰氏は、罪を詫びるとともに出家しました。

 
 

泰氏は下総国埴生荘の没収という処分のみで何とか踏みとどまりますが、幕府における立場を失いました。また、足利家には代々北条家の女性が嫁いできたのですが、泰氏の息子の頼氏には得宗家の女性が嫁ぐことはありませんでした。泰氏の庶子・家氏は、この足利家の危機をよく支え切り、祖父・義氏から奥州・斯波郡を与えられ、斯波氏を称することになるのです。

(4) 上杉家の興り

1252年2月、執権・時頼は、将軍・頼嗣を廃して御嵯峨上皇の皇子である宗尊親王を将軍として鎌倉にお迎えすることを決定しました。同月20日、この決定に反対することが予想された頼嗣の祖父の九条道家が死去しています。

2008年3月19日
弾正屋敷跡
(京都府綾部市)

1255年 完成(九条道家)

 同年3月19日、宗尊親王一行は京を発ち、翌4月2日に第6代将軍として鎌倉に到着しました。藤原一族の勧修寺重房も親王のお供として鎌倉に下向しており、この時に公家から武家に転向しています。重房は親王を支えた功により丹波国上杉荘(綾部市上杉町)を賜り、初めて上杉を称することになります。

 また、上杉重房には源資国という重臣がいたのですが、資国は丹波国大田郷(亀岡市)を領して太田氏を称します。以後、上杉と太田という親王の2人の側近が、関東で勢力を伸長することになるのです。

(5) その他

宗尊親王の下向は、鎌倉に京の雅が浸透していくきっかけともなりました。他方、廃された前将軍・頼嗣は京に追放されました。鎌倉幕府の支配体制のもとでは、幕府内における権力闘争は起きていますが、かつてのような大規模な軍事衝突は起きておりません。文化は平時において華開くということができましょう。江戸幕府のもとでも、文化が発達するとともに江戸の人口が増え、庶民の識字率も極めて高水準となっていました。そして、江戸期の社会的な成熟があったからこそ、明治以降の急速な近代化が可能となったのです。

 宗尊親王が鎌倉に下向したこの年の8月、長谷高徳院の大仏が木造から金銅像に造り変えられ、現在に至るまで鎌倉の名所となっています。オバマ前大統領の著書によると、前大統領が幼少の頃、お母様に連れられて鎌倉の大仏をご覧になったそうです。

 
 

翌1253年には、建長寺が完成して鎌倉五山の第1位とされました。

他方、功臣の死去も続いています。翌1254年2月24日、結城朝光が死去しています。称名寺に朝光の墓があります。

 
 

さらに、同年11月21日には足利義氏も死去しています。頼朝の創業を支えた面々は、これでほぼこの世を去ったといえましょう。将軍宣下から60年を経て、もはや河内源氏の将軍は存在せず、頼朝の挙兵を支えた伊豆北条氏が執権・連署という立場から実権を掌握する時代に移っていたのです。

翌1255年、湛海律師が宋から帰国し、泉湧寺に聖観音像を持ち帰りました。聖観音像には玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って作らせたという伝承があり、「楊貴妃観音」とも呼ばれています。

 

翌1256年、鎌倉ではしかが大流行します。はしかに加えて赤痢まで併発した執権・時頼は、同年11月22日、意識を回復した際に、6歳の息子の時宗が成長するまでの中継ぎという条件で北条長時に執権を譲りました。同日、時宗は父・時頼から家督を譲られています。翌23日、時頼は最明寺で出家しました。今日においては、最明寺の塔頭の1つであった明月院が残っています。明月院は、紫陽花が美しい寺として有名です。

一時は出家してこの世を去る準備までしていた時頼でしたが、その後、全快して自他ともに驚くことになります。翌1257年元旦、将軍の御行始の行先は、現執権の長時の屋敷ではなく、時頼がいる最明寺でした。病状が重かった頃に執権を長時に譲っていましたが、予想に反して全快してしまった時頼は、そのまま実権を保有し続けるのです。ここに、執権の地位と権力の所在が分離し、権力の源泉は執権職ではなく北条得宗家にあるという支配の実態が明らかとなったのです。これを講学上、「得宗専制」と呼びます。

 「専制」という言葉を聞くとネガティブなイメージを抱くかもしれませんが、現代人の立場から後付けで申し上げれば、当時の我が国には強力なリーダーシップを必要としていた面もあったのではないでしょうか。北条時頼が明月院のあたりで病に苦しんでいた頃、朝鮮半島ではまさに高麗がモンゴルに降伏しようとしていたのです。ただ、対外的危機が迫っていることを時頼らがどの程度認識していたか、その点に関する史料は私はまだ見たことがありません。

 
 

1260年2月5日、近衛兼経の娘の宰子の一行が鎌倉に到着します。時宗の最初の仕事は、将軍・宗尊と宰子の結婚式を取り仕切ることでした。時頼は、宰子を自らの養子としたうえで宗尊親王と結婚させることにより、将軍と北条家の間の姻戚関係を維持しようとしました。宗尊親王の将軍就任までの経緯を踏まえれば、親王が幕政に口出しをすることは予定されておらず、北条家の「傀儡」と考えておけば良いでしょう。

同年、日蓮が『立正安国論』を北条時頼に建白しています。

 翌1261年4月23日、時宗は安達義景の娘の堀内殿と結婚しました。同年6月22日、三浦義村の遺子である律師良賢が謀反の疑いで逮捕されています。宝治合戦から既に14年が経過しておりますが、鎌倉にはまだ三浦残党の動きがあったことがうかがえます。

 翌1262年11月28日、浄土真宗を開いた親鸞が死去しています。戦国期になると、浄土真宗は織田信長によって徹底的に弾圧されることになります。信長の目には、信仰を語っていても世俗の政治勢力と映ったからです。

 
 

翌1263年11月23日、北条時頼が最明寺において、今度は本当に死去しました。この時、時頼は見舞いをすべて断ったうえで、側近のみを病室に入れています。そして、この時に入室を許された者のなかに「南部実光」の名が見えます。南部氏には、頼朝の奥州合戦の恩賞として糠部に所領を得たという伝承がありますが、実際にはこの実光の頃に糠部を得たのではないかという指摘もあります。そのような伝承が生じた原因としては、織豊政権に対して南部家による糠部支配の正当性をアピールする必要性があったという指摘がありますが、この話は戦国期にもう1度ご紹介します。

翌1264年7月、北条長時が執権を辞任して翌8月21日に死去しました。これに伴い、北条政村が執権に就任します。同年10月25日、越訴奉行が新設され、金沢実時と安達泰盛が就任しています。越訴奉行は、訴訟遅延や再審要求の増加を踏まえ、再審関係のみを扱う部署として新設されました。今日においても、争点整理を通じた訴訟の効率化や迅速化は重要なテーマとなっており、民事裁判において、円テーブルで裁判官らと打ち合わせをしたことのある方もおられるかもしれません。あれも、事件の内容を整理することが訴訟の促進につながるから行っているのです。

 なお、同年にモンゴルがフビライの命によりアイヌ討伐のためにアムール川下流地方に侵攻しています。

 
 

1266年6月20日、時宗の屋敷に北条政村・実時、安達泰盛らが集まり、将軍・宗尊の解任と京への追放が決定しました。将軍・宗尊の正室と将軍護持僧・良基の密通が発覚したためです。同月23日、宰子が将軍との夫婦喧嘩の末に時宗の屋敷に逃げ込んできました。下向以来、何かと幕臣との間に摩擦を生じていた宗尊を、密通を口実として追放したかったというのが実態ではないかという指摘もあります。同年7月、時宗は宗尊を廃して3歳の惟康を将軍に擁立しました。宗尊は将軍御所から女房輿で京に送り返されています。

 なお、鎌倉幕府の立場から記述された『吾妻鏡』がこの月で途絶えております。そして翌8月、いよいよモンゴルのフビライが第1回招諭使を日本に派遣するのです。