南北朝期7 ~華夷秩序への編入~

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41 華夷秩序

 

(1) 伊達政宗の乱

翌1402年5月、伊達政宗が水面下で京と結んだ上で、再び鎌倉府に背いて挙兵しました。同月20日、公方・満兼は、上杉朝宗の息子の氏憲(禅秀)を大将として伊達政宗討伐軍を派遣することを決定し、翌21日、氏憲は鎌倉を出陣しました。京と鎌倉の対立を背景として、伊達家を中心とする反鎌倉府勢力と、上杉家や白河家を中心とする親鎌倉府勢力が衝突したことになります。

この頃、京では和学の鼻祖といわれる一条兼良が生まれています。

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同年9月、伊達政宗の反乱は鎮圧され、政宗は会津山中に逃れました。伊達家による執拗な抵抗の背景には、奥州自決主義があったとされ、また、京の幕府の水面下での支持をとりつけていたからこそ抵抗を続けることができました。京の幕府は、潜在的な最大の脅威となりつつある鎌倉府に奥州支配権を認める一方で、京都後扶持衆による反鎌倉府的行動を奨励して鎌倉府を牽制していたようです。伊達家の討伐は、当時としては源頼朝による奥州征伐を想起させるものだったようです。奥州藤原氏と同様、伊達家も藤原氏の流れをくむとされています。

 

(2) 日本国王・足利義満

奥州で伊達政宗が降伏した頃、京では外交上重要な動きがありました。同年8月、遣明使が明の使節とともに帰国し、翌9月5日、義満は北山第で明の使節と面会しました。明からの国書は、明は自国を中国と認識し、日本はその属国の1つであるとしたうえで、「日本国王」の義満の「忠誠」を称賛しています。前年5月に義満は使者を明に派遣して修交を求めておりました。この頃から本格化した明との勘合貿易は義満の最大の収入源となりましたが、義満は明の皇帝から「日本国王」に任じていただいたわけですから、大陸からの独立性を志向してきた我が国は、一時的に華夷秩序に組み込まれたことになります。とはいえ、菅原道真による遣唐使廃止の建議以来、約500年ぶりに中国との正式な国交が回復しました。

(3) 大内家の処遇

翌1403年4月、明徳の乱で幕府に背いた山名氏清の息子の満氏が、渋川満頼の後任として安芸守護に任じられました。備後では山名時熙が大内家の牽制役として守護に復しています。幕府は満氏に対して、備後守護・時熙の勢力を背景として、これまで大内家が安芸で続けてきた守護類似の越権行為を正すよう厳命しました。

 これまで大内家は、安芸において所領の安堵や新恩給付を幕府に提案することによって安芸の勢力に私恩を売ってきました。このような大内家による従来からの秩序が否定され、山名家による所領の整理が行われることに対する不安感、つまり、納得のいかない形で所領が奪われることへの不安感が生じ、平賀弘章らを中心として満氏の受け入れを拒否する機運が高まっていくことになります。

 
 

ところが、同年5月、幕府から大内盛見の追討を命じられていた道通が敗死してしまいました。幕府は応永の乱で背いた義弘の死後、弟の弘茂と道通を起用して盛見を討伐しようとしましたが、いずれも返り討ちにされたことで盛見を認めざるを得なくなってきます。幕府は大内盛見を周防・長門及び豊前守護に任じることにしました。盛見は、追討対象から一転して北九州鎮圧のための尖兵として利用されることとなったのです。盛見はしばしば朝鮮半島に使者を派遣して大陸文化を吸収し、後の大内文化の素地をつくることになります。なお、同年12月、安芸の山名満氏の代官・小林清重が、平賀弘章らを懲らしめるために平賀家の本拠地である高屋の御園生城を攻撃しています。この時、弘章の3人の息子が討死しました。

この年、京では後の6代将軍・義教(義円)が、天台宗青蓮院門跡に入室しています。

 
 

翌1404年、幕府は6月26日付で山名満氏に対して、安芸の領主たちに8月5日までに所領に関する主張の根拠となる書面を提出させるよう命じています。安芸の小林清重は、この幕命を毛利一族の福原広世に伝えており、両者の緊密な連携が窺える反面、安芸の領主たちの多くは、所領喪失への不安感からこのような幕府の動きに反発しています。同年8月、小林清重は幕命に反発する安芸の領主たちと再び合戦をしており、この時も福原広世は幕府方に与しています。

 同年9月23日、幕府による所領整理に反発する安芸の領主たち33名により一揆契約が締結され、従来の所領を守るために一致団結して幕府権力に対抗することが約されています。安芸の領主層のほとんどがこの契約に加わっていたようです。例外は、吉川家や小早川家、そして、毛利一族でありながら幕府方にとどまった福原家などです。かつて安芸守護を務め、この頃は分郡守護というポストにあった武田家の信守は、長らく体制側にあったためか一揆契約には参加していませんが、領主層の所領保全のための戦いに一定の理解を示していました。幕府においても、この一揆契約は驚きをもって受け止められたようで、幕府は石見・備後の勢力に安芸への出陣を命じています。武田家も、幕府による追討命令の後に幕府に与する立場を明確にしています。

1406年夏頃、幕府は安芸の国人一揆の討伐のため、京から軍勢を出陣させています。この時の幕府は、軍事力を用いつつも一揆側との妥協の余地も残しています。幕府側の代表は山名時熙、一揆側の代表は平賀弘章と毛利光房です。この時、毛利一族でありながら幕府側に与していた福原広世が、両者の間を仲介していた可能性が指摘されています。同年閏6月5日、一揆側は幕府に対して厳しい内容の起請文を提出しましたが、ここでも福原広世が光房らに対して起請文の提出を働きかけていた可能性が指摘されています。幕府側の時熙は、広世に対して、起請文提出に至るまでの苦労をお察しすると述べています。

 起請文の提出により幕府による追討は解除され、一揆勢力は赦免されました。山名満氏が守護を罷免されたとはいえ後任は山名家の熙重で、しかも、幕府による所領整理には従うという起請文を提出させられたと思われますから、幕府の当初の方針は揺るがなかったことになります。ただ、一揆をきっかけとして地域における領主層の横のつながりが形成されたことの歴史的意義は大きいという指摘もあります。毛利光房は、一揆解体後、他の領主たちに先んじて幕府に接近を図っていますが、これは幕府との関係を密にすることによって、幕府を後ろ盾として惣領としての地位を安定させるためだった可能性が指摘されています。

 
 

翌1407年10月、下野では宇都宮満綱が嗣子を得られないまま死去しました。そこで、一族の武茂綱家の息子・持綱が養子に入って宇都宮家を継ぐことになりました。また、常陸でもこの年に佐竹義盛が嗣子を得られないまま死去しています。そこで、関東管領・上杉憲定の次男・義憲が養子に入って佐竹家を継ぐことになりました。この入嗣は江戸通高らが協議のうえで決定したようですが、山入与義らが山内上杉家からの入嗣に反対して長倉城で挙兵しました。この反乱自体は公方の討伐を受けて鎮圧されましたが、ここに山入家と佐竹宗家の抗争が始まったことになります。

(4) 華夷秩序からの離脱

翌1408年3月8日、義満は後小松天皇を北山第に招いています。同じ頃、青蓮院の義円は得度しています。翌4月25日、義満は息子・義嗣の元服式を宮中で「親王元服」と同等の形式で執り行っています。しかし、義満はこの頃から気分がすぐれなかったようです。同月28日、見舞いに来た人々とは対面もしていません。翌5月1日、義満の病状が悪化し、同月6日に死去しました。朝廷から幕府に対して、「太上天皇」の尊号宣下の内意が伝えられましたが、幕府は斯波義将らの強い反対によってこれを辞退しています。

 同月7日、義満の遺体は北山第から等持院に移され、同月10日、荼毘に付されました。遺骨は相国寺鹿苑院に移されています。義満の外交路線には当時から批判があったようで、4代将軍・義持は父・義満の対明卑屈外交を嫌い、父の遺言と称して明との交通を断っています。なお、同年8月27日、義持は三宝院満済を武家護持僧に任命しています。