鎌倉期6 ~承久の乱~

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(9) 新たな将軍の擁立

 1219年2月13日、後鳥羽上皇の皇子の将軍擁立に向けた交渉のため、二階堂行光が京に向かいます。幕府としては、御家人の中心となれるだけの権威を具えるとともに、実朝のような朝廷と幕府の架け橋にもなれる人材の下向を望んでおりました。同年3月9日、藤原忠綱が返答の使者として鎌倉に到着しますが、忠綱は交換条件とも理解できるメッセージを伝えます。後鳥羽上皇は、寵愛していた伊賀局亀菊が所有する摂津国長江・倉橋両荘の地頭職を停止して欲しいと揺さぶりをかけてきたのです。

 後鳥羽上皇としては寵姫の喜ぶ顔が見たかったのかもしれませんが、何らの落ち度もない御家人の地頭職を没収することは、かつての頼家による再分配政策と同様、幕府の根幹を揺るがすことになります。同月12日、政子の屋敷に北条義時・時房兄弟、泰時、大江広元らが集まって対応を協議した結果、上皇の要求を拒否することを決定しました。

 いきなり鎌倉幕府の存立基盤自体を揺るがすことになる条件を提示してきており、鎌倉とは異質な行動原理に基づいているという印象を受けますが、いかがでしょうか。建武の新政は、まさに後醍醐天皇の近臣や寵姫の政務への介入や恩賞面での不公平感が武士たちを失望させたために数年で頓挫したのです。

同月15日、北条時房が返答の使者として兵を率いて京に向かいます。後鳥羽上皇は、幕府が条件を呑まなかったため、お返しとばかりに皇子の鎌倉下向を拒否しました。ただ、摂関家の子であれば許すとも述べたことから、幕府方は協議の末に九条道家の子の頼経(2歳)を将軍に迎えることを決定し、同年7月19日、頼経一行が鎌倉に到着しました。とはいえ、4代将軍・頼経はまだ2歳の子どもです。そこで、頼経に代わって政子が政務をみる必要が生じ、これ以降、政子は「尼将軍」と呼ばれることになるのです。

 

30 承久の乱

 

(1) 承久の乱の経緯

 3代将軍・実朝の暗殺以来、架け橋の喪失によって朝幕の関係が急速に悪化していきました。1221年4月29日、京から鎌倉に順徳天皇から仲恭天皇への譲位を伝える使者が到着しましたが、従来の例からすれば、譲位はあらかじめ鎌倉に伝えるべきもののはずです。

 同年5月14日、後鳥羽上皇は「流鏑馬」と称して諸国の武士を集め始めます。流鏑馬は、今日においても鎌倉の鶴岡八幡宮で見られるものです。「鎌倉と戦う」と直接に言わなくとも、「流鏑馬」だけでその意が伝わるような状況だったということでしょうか。翌15日、朝廷は諸国の守護・地頭らに対して北条義時追討の宣旨を発しました。いわば相手の支持基盤に対して手を突っ込んだ格好になったわけです。

 かつて朝廷と官職の補任という形で直接に結び付いた義経は追討の対象となりました。官職の補任という形であれ朝廷と直接に結び付くことは、①朝廷に権限を残すことにつながる反面、鎌倉の御家人の統制が困難となる、②京側への鞍替えをちらつかせることによって幕府に対して過度な要求を突きつける輩が現れかねない、③勝手に京側と結びついては徒に国家の分裂を招来しかねない、④これらによって、社会秩序の維持が困難となるといった弊害が想定されます。それゆえ、義経は一種の社会防衛のために排除されるとともに、その後の政治利用につながったと考えることもできるでしょう。

 とはいえ、東国の武士たちは、天照大神の子孫とされる天皇家と敵対することに大きな怖れを抱きました。今回は「平氏が攻めてきたため、やむなく応戦しただけです。」などという詭弁を弄することもできません。御家人らは、京と鎌倉いずれを選ぶのかを決めなければなりません。同月19日、乱勃発の報が鎌倉に届きます。その日のうちに北条義時・時房兄弟、北条泰時、大江広元が政子の屋敷に集まるとともに、御家人らを招集します。政子は「最期の言葉」として、御家人らを前にして頼朝挙兵以来の頼朝からの「御恩」を強調して一同を諭すのです。これに感動した一同は、涙を流して幕府に忠誠を誓ったと伝わります。

 
 

 幕府方につくとして、では、いかに戦うべきか。軍議では足柄・箱根での迎撃作戦に決しかけたのですが、大江広元がこれに反対して京に進撃すべきと主張し、政子もこれに賛成したため進撃に決したと伝わります。ぐずぐずしていると再び迎撃論が盛り返してくるおそれがあったため、とにかく、まずは北条泰時を鎌倉から出発させました。幕府方の編成は以下のとおりです。なお、政界を追放された宇都宮蓮生も、この時は鎌倉で後詰を担当しています。三浦胤義は兄の義村に北条義時討伐を訴えましたが、義村は返事も書かずに書状を義時に届けています。

 ・東海道:北条泰時・時房
      足利義氏、三浦義村、千葉胤綱、毛利季光ら

 ・東山道:武田信光・小笠原長清ら甲斐源氏

 ・北陸道:北条朝時、結城朝広ら

同年6月5日、尾張大井戸の渡しで両軍の戦闘が始まり、幕府軍が大勝しました。その後、美濃国垂井宿で東海道軍と東山道軍が合流して軍議が開かれます。この時、三浦義村の強引な提案を北条泰時が承認することによって各人の持ち場が決まりました。この時、義村は娘婿の毛利季光と最後の攻撃を飾りたかった可能性も指摘されています。

 ・勢多(瀬田):北条時房
 ・供御瀬:武田信光
 ・宇治:北条泰時
 ・芋洗(久御山町):毛利季光
 ・淀(伏見区):三浦義村

 同月13日、幕府軍は宇治川を渡りました。宇治川の戦いでは、宇都宮家の頼業が武名を残しています。翌14日、幕府軍は深草に到着します。三浦義村と毛利季光も北条泰時らと深草で合流し、翌15日に幕府軍が入京し、幕府軍の一方的な勝利に終わりました。

 
 

承久の乱において、武家でありながら京についた者の名前を挙げておきます。

       京               鎌倉

     三浦胤義(弟 西山で自害)   三浦義村(兄)

     菊池氏(肥後)

     大江親広             伊賀光季
  (供御瀬で姿を消し、         (京守護)
   生存を許されている)

   佐々木経高・高重父子(敗死)
 (頼家によって淡路・阿波・
  土佐守護を解任されている)

     土岐光時(弟)         土岐光行(兄)

承久の乱の影響としては、まず、甲斐源氏の武田家は、従来の甲斐国守護に加えて安芸国守護にも任じられ、内藤氏・武藤氏を守護代として安芸に派遣することになりました。安芸は伊勢平氏以来の大国です。

2009年2月14日
武田山山頂から
(広島県)

同じく甲斐源氏の小笠原家は阿波国守護に任じられ、長清の息子の長房の代で三好郡を領して三好氏を称することになったとも伝わります。この三好家が、戦国期において織田信長が現れる前の畿内を制することになるのです。

足利義氏は三河国守護に任じられたため、足利一族が矢作に居館を構えて領国経営を行うことになります。そして、三河に移った足利一族のなかから三河の地名を名乗る者が現れ、後年、その者らが足利体制下において重きをなしていくのです。

2010年1月30日
戦没者忠魂碑
(愛知県岡崎市細川町)

 

佐竹家の義重は美濃国に所領を得ていますが、言うまでもなく、この義重は戦国期の鬼義重とは別人です。佐竹家は頼朝挙兵時に冷淡な態度を示したため鎌倉期は低迷しましたが、室町幕府を開くことになる足利家との縁を得たことによって家運が向上していきます。

厳島神社の佐伯氏は、京に与したことで戦後に北条義時によって解任され、中原親実が後任に任じられています。

 

2009年2月11日
吉田郡山城址
(広島県安芸高田市)

大江広元の四男・季光が、承久の乱の際の軍功によって安芸国吉田荘を得た可能性が指摘されています。季光は父・広元から譲られた相模国毛利荘(厚木市付近)を本拠地としつつ、おそらくは父・広元から譲られていたであろう越後国佐橋荘に加え、安芸国吉田荘も得たことになります。

幕府方の勝利により、九条家や西園寺家など関東と政治的に近い立場にある公卿たちが力を盛り返しました。承久の乱の翌年、西園寺公経は太政大臣にまで昇進しています。

 
 

乱の再発防止のために朝廷を監視する機関として、京に六波羅探題が設置されました。この戦いに勝利した幕府の勢力が西国にも伸長していくことになります。

 同年6月23日、幕府軍の勝利の報が鎌倉に届きました。大江広元は、1185年の平氏討伐の際の先例を調べたうえで処刑状を作成し、京の北条泰時に送付しました。

 後鳥羽上皇:隠岐配流

 順徳:佐渡配流

 土御門:自らの意思で土佐に移る

 承久の乱はこうして幕引きとなりましたが、実は日本人同士で争っている場合ではありませんでした。この頃、モンゴルが契丹を追って朝鮮半島に侵攻しておりました。やがてモンゴルは高麗を降し、三別抄を制圧した後、樺太と北九州から我が国に侵攻してくるのです。

(2) 幕府第1世代の終焉

京に勝利した幕府でしたが、1224年6月13日、執権・義時が死去しました。同月27日、承久の乱の戦後処理にあたっていた北条泰時と時房が鎌倉に戻ります。道中で2人は「伊賀の方の件」を協議しながら進んだとも伝わります。かつて、北条時政の後妻の牧の方が畠山父子を死に追いやった末に謀反の疑いをかけられ、時政が失脚したことがありましたが、それと似たようなことが再び起きました。「北条義時の後妻の伊賀の方が、娘婿の藤原実雅を執権にすることによって、自分と兄の伊賀光宗が実権を握ろうとしており、そのために三浦義村を味方に誘った」との疑いをかけられたのです。

 翌28日、政子は泰時に執権を、時房に連署を命じて実雅の執権就任を封じました。また、翌7月17日には三浦義村の屋敷を訪問して、「政村と泰時のいずれを選ぶのか、今ここではっきりせよ。」と述べました。義村は、政村には叛意はないけれど、光宗は何か企んでいるようなので制止しますと約束し、翌18日には泰時を訪れて釈明しています。

 
 

閏7月1日、政子は(九条)頼経とともに北条泰時の屋敷を訪れ、謀反人を除くことを決定します。同月3日、大江広元を招いて自ら謀反人の処分を決定しました。これにより、執権・泰時と連署・時房という新体制が発足することになりました。

  光宗:信濃配流

  伊賀の方:伊豆北条に幽閉

  実雅:京に送る(その後、越前に配流され、同地で投身自殺)

 この体制のもとで将軍御所が大倉御所から宇都宮辻子に移転し、評定衆が置かれ、さらに『御成敗式目』が制定されることになるのです。大江広元の息子である毛利季光も執権・泰時に重用される運びとなり、また、北条時頼に娘を嫁がせたことで、時頼の執権就任によっていよいよ毛利季光の時代が到来するかのようにも見えました。

 なお、この年の12月2日、西園寺家の北山の別業が落成しています。後年、この地に鹿苑寺金閣という我が国を代表する建築物の1つが建築されることになるのです。

1225年5月29日、政子は病の床につきます。翌6月10日には、官僚トップとして幕府創成期を支えた大江広元が死去しています。翌7月8日、政子は危篤に陥り、同月11日に死去しました。政子は勝長寿院の御堂(現・法華堂跡地)で荼毘に付されました。

2007年12月31日
法華堂跡地
大江広元・毛利季光・島津忠久墓
(神奈川県鎌倉市)