鎌倉期5 ~頼朝の死~

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特定商取引法に基づく表記

28 頼朝の最晩年

 

(1) 曾我五郎・十郎の仇討ち

1193年5月

  同月30日、事件の報が鎌倉に届きます。未確認情報として「頼朝が討たれた」という情報も流れたことから、政子は大いに衝撃を受けたのですが、この時、頼朝の弟の範頼は失言を犯しました。「私がついていますから、後のことは心配には及びません。」と述べたのですが、受け止め方如何によっては、「たとえ頼朝が暗殺されても、弟の私がいるから大丈夫ですよ。」という意味とも理解できる発言です。かつて、官職の補任という形で京と直接に結び付いた御家人は複数いたにもかかわらず、頼朝の弟の義経だけは赦されずに追討の対象とされました。この失言によって不信を買った範頼は、同年8月17日、伊豆に追放されました。

なお、常陸守護の八田知家は、事件による動揺に乗じて常陸平氏の所領を奪うとともに、小田(茨城県つくば市)に屋敷を構えて小田氏を称しています。この時、常陸平氏嫡流の地位も吉田流馬場資幹に移り、この系統が常陸大掾氏を名乗ることになります。

2009年3月13日
小田城址
(茨城県)

 

(2) 甲斐源氏の粛清

1193年11月、安田義資が女性問題を理由として処刑され、義資の父・義定も所領を没収されました。そして、翌1194年8月、父・義定も謀反を企てたとして処刑されました。これにより、駿河・遠江は後に執権となる北条氏の所領となりました。強すぎるがゆえに、秩序維持のために狙われたという色彩が強かったという指摘もあります。

なお、この頃に安田氏の傘下にあった相良頼景が肥後多良木村に下向しています。相良家は藤原南家・武智麻呂の流れをくむと伝わり、本貫地の相良は御前崎とともに海上交通の要地でした。遠江から肥後に移った相良家は、人吉盆地で勢力を蓄えることになります。

 

(3) 大姫の死

1194年7月下旬、大姫の容体が悪化しました。頼朝は翌8月8日、娘の恢復を願って日向薬師(伊勢原市)に参詣しています。閏8月1日、頼朝一家は三浦三崎に旅行して大姫を元気づけようとしています。その後、大姫がやや持ち直したことを受け、母の政子は気分転換のために一条高能に娘を嫁がせることを考えますが、大姫はこれを拒否しました。

 頼朝が日向薬師に参詣した日、大江広元が毛利荘(厚木市付近)で頼朝一行に弁当を振舞っています。なぜこの場所に広元がいたのでしょうか。この時点で大江家が毛利荘の地頭職に任じられていたと考えれば説明が可能です。毛利荘は広元から息子の季光に継承され、季光は毛利姓を称することになります。戦国時代、この毛利家が東では上杉謙信に仕え、西では中国地方の覇者となるのです。なお、同年12月26日、永福寺開堂供養が執り行われています。

翌1195年2月14日、頼朝は東大寺再建供養に列するため、家族を連れて京に向かいます。大姫を後鳥羽天皇に嫁がせて外戚化を図るとともに、大姫の病状の好転を期待する意味もあったのではないかという指摘があります。3月4日、六波羅に入った頼朝は、同月9日、河内源氏の八幡太郎義家が社前で元服したという石清水八幡宮を参詣した後、同月12日に東大寺再建供養に列しています。

 
 

同月14日に京に戻った頼朝は、同月16日、宣陽門院勤子(せんようもんいんきんし)内親王や源通親と面会した後、同月27日に参内しました。京滞在中、政子や大姫らは非公式に清水寺などを巡っています。

 同年6月25日、京を発った頼朝一行は、翌7月8日に鎌倉に戻りましたが、10月になると大姫の容体が再び悪化します。1197年7月14日、大姫は死去しました。現代人としては、頼朝が大姫を死去の2年前に京に連れ出したのは、もっぱら親心にでたものと理解したいところではあります。

(4) 九州御家人の組織化

2013年7月16日
大友頼泰墓
(大分県大分市)

1195年5月、頼朝は九州の勢力の包摂のために派遣していた天野遠景に代わり、中原親能と武藤資頼を鎮西守護人に任じて、引続き九州の組織化にあたらせています。中原親能の猶子・能直は、頼朝から豊後国を与えられて大友氏祖となりました。

武藤資頼は、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の末裔とされ、太宰少弐に任じられて少弐氏祖となりました。大友・少弐両家が島津家とともに九州において武士たちを頼朝を頂点とする幕府の支配体制に組み込んでいったのです。後年、室町幕府の統制力が弱まって戦国期に突入した後も、九州においては基本的にはこの3極を軸として三つ巴の戦いが繰り広げられることになります。

 

2010年4月3日
法華堂跡地・源頼朝墓
(神奈川県鎌倉市)

(5) 頼朝の死

1198年12月17日、頼朝は相模川の橋供養からの帰途、落馬します。そして、翌1199年1月13日に死去しました。

29 源氏の将軍の断絶

 

頼朝の死により、息子の頼家が2代将軍に就任することになりました。頼家を補佐する者としては、北条時政・義時父子、大江広元、三善康信、比企能員らがおりました。いずれも亡き頼朝に非常に近かった人物ですが、頼家にとっては有難迷惑な存在だったかもしれません。今日においても、創業時から初代を支えてきた古株の役員と2代目の若社長の対立、あるいは、古株と新参者の派閥争いといった現象はしばしば起きるものです。

 北条政子は、「自分も頼朝の後を追ったら子どもたちは1度に2人の親を失うことになる。」と考えて生きることを選んだという話も伝わります。しかし、皮肉なことに、自らの子どもたちのために生きる道を選んだはずの政子は、大姫に続き、さらに息子2人と次女の死を見届けることになるのです。

(1) 乙姫の死

 1199年3月2日、頼朝の49日法要が執り行われましたが、その3日後に頼朝の次女の乙姫が危篤に陥りました。政子は鎌倉中の寺社に祈りを捧げるとともに、名医として有名な丹波時長に「鎌倉に来なかったら後鳥羽に申し上げる。」とまで伝えて、半ば強制的に鎌倉に呼び寄せています。

 同年5月7日、畠山重忠の屋敷に入った時忠は懸命に治療を行い、その甲斐あってか乙姫は一時的に食事を少しとれる程度にまで回復しました。しかし、6月中旬になると乙姫の目の上が腫れてきて、時長も驚いて匙を投げるしかありませんでした。同月30日、乙姫は死去しました。現代医学に通じた方であれば、何か思いあたるものがおありでしょうか。

 
 

(2) 2代将軍・頼家の資質

ア 梶原景時の死

 乙姫の病状が悪化していた同年4月12日、政子は頼家の訴訟親裁を禁じるとともに、北条時政・義時ら13人の合議により訴訟を処理するよう頼家に伝えました。頼家の判断能力を信用できなかったのでしょう。この時に頼家の意思に反して成立した合議制が後の評定衆の原型となりました。しかし、頼家は自らの気に入った5人を側近とするとともに、この5人と敵対した者は処罰する、将軍との面会も原則としてこの5人に限り認めるという特別扱いをしようとしました。あるいは、頼朝を支え続けてきた古参の御家人らの武勇伝が鬱陶しかったのでしょうか。

 さらに、頼家は部下の妾を奪おうともしています。頼家は安達景盛を三河に遣わし、その留守の間に景盛の妾を奪取した上で、側近5人以外の者が屋敷に参じることを禁じてしまいました。三河から戻った景盛が幕府に訴え出ると、頼家は景盛討伐の準備を進めて鎌倉が大騒ぎになりました。同年8月19日、政子はこの件について頼家を強く諫めています。娘を失ったばかりの政子の心労はいかほどだったでしょうか。

 同年10月25日、結城朝光は、同僚たちに対して先代・頼朝のために各人が1万遍「南無阿弥陀仏」と唱えることを勧めたのですが、その話のなかで「二君に仕えず」という発言をしてしまいました。この発言は武士としての一般的な倫理観について述べたものとも理解できますが、頼家の資質に疑問符がつきつつある状況下においては、叛意の現れという受け止め方もあり得るところです。そう受け止めたのは梶原景時でした。

 かつて景時は義経について、「軽挙によって秩序を乱す」と頼朝に讒言することによって義経の政治的立場を極度に悪化させています。また、畠山重忠が部下の不手際によって処分された後にも、重忠に叛意ありと讒言しており、結城朝光が重忠を強く擁護していなければ重忠もどうなっていたかわかりません。そして、今度は結城朝光の発言を問題視して讒言に及んだのです。

 ここで朝光を救ったのは政子の妹の阿波局でした。阿波局は、景時の讒言によって処罰されそうになっていることを朝光に伝えました。朝光は直ちに御家人らと相談のうえで66名の連名で景時糾弾状を作成し、同年10月28日、和田義盛・三浦義村によって大江広元に提出されました。

 広元は糾弾状の取次に乗り気でなかったようですが、翌11月10日、和田義盛に詰め寄られたこともあり、同月12日、頼家に取次いだのです。翌13日、景時は弁明も陳謝もしないまま親族を連れて所領の相模国一の宮に引揚げてしまいました。12月18日、景時の鎌倉追放が決定します。

 翌1200年1月20日、武力抵抗の姿勢を見せる景時の追討が決定し、景時はその日のうちに駿河国清見関で一族とともに討たれました。頼朝が挙兵直後の石橋山の戦いの際、景時に見逃してもらったという逸話が思い起こされます。頼朝の死後、まずは頼朝という後ろ盾を失った梶原景時が命を落とすことになりました。なお、同月23日には、三浦義澄も死去しています。

 
 

イ 土地保全への不安

 権力者の死後に後ろ盾を失った人物が失脚することは、よくあることともいえます。また、女性を我がものにしようとする様も、ある意味、父・頼朝の面影を感じると考えることも可能でしょう。しかし、頼家の奇行は鎌倉幕府の存立基盤を脅かすレベルにまで達してしまいます。

 同年5月28日、頼家は土地の境界をめぐる訴訟において、地図の中央に線を引いたうえで、今後同様の争いが起きたらこのように処理すると言ってしまいました。そもそも、坂東武士らは父祖以来の土地を守れる世の中になることを鎌倉幕府に期待していたはずです。にもかかわらず、このような機械的な処理によって「解決」を強いられるのでは、事実上、土地を守るために訴訟制度を利用できなくなります。現代の価値観からすれば、財産権(憲法第29条第1項)保障の趣旨に反し、裁判を受ける権利(憲法第32条)の否定ということになりましょう。

 同年暮れ頃には、頼家は御家人らが治承・養和以降に新たに取得した土地のうち500町を超過する部分については、自身の近臣に配分するよう命じました。今日においても、所得の再分配による社会的公正の実現という要請はありますが、ここではおそらく頼家の近臣の立場を高めて古参の御家人らに対抗させることを目的としているのでしょう。何らの落ち度も認められないのに御家人から土地を取りあげることは、頼家が「人として云々」などといった曖昧な話にとどまらず、武家政権の根本理念に反するといえましょう。翌1201年3月24日、頼朝を支えることを通じて相馬御厨を取戻した千葉常胤が死去しています。

 

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同年9月、北条泰時が蹴鞠にふける頼家を諫めています。また、翌1202年1月29日には、政子が中原親能の屋敷に蹴鞠をしに行こうとする頼家を、新田義重の死去から日が浅いことを理由として制止しています。同年7月22日、頼家は征夷大将軍に任じられますが、北条時政・義時父子はこの頃から頼家の弟の実朝に肩入れし始めているのです。『三国志演義』においても、諸葛亮は北伐を開始するにあたり『出師表』において(劉禅ではなく)「先帝」から受けた恩を強調しており、劉禅に自覚を促しています。

ウ 将軍更迭

1203年5月、故・義経の兄である阿野全成が、謀反の疑いで常陸国に流されました。全成の妻・阿波局は政子の妹であるとともに実朝の乳母でもありましたから、頼家による実朝擁立派への牽制の可能性も指摘されています。同年6月23日、頼家は八田知家に命じて全成を斬らせてしまいました。

 
 

同年7月20日、今度は頼家が重態になります。全成を殺害してから1ヶ月も経っていないため、いささかタイミングが良すぎる気もしますが、頼家は8月下旬には危篤に陥ります。かかる事態を踏まえたうえで、幕府指導者層は同月27日、一幡に関東28ヶ国地頭・日本国惣守護職を、千幡に関西38ヶ国地頭を譲るという形で権限を分け与えることを決定しました。

 しかし、この決定に比企能員が反発しました。比企能員は伊豆にいた頃の頼朝に仕送りを続けていた比企尼の一族で、頼朝をその挙兵当初から支え続けてきました。そして、能員の娘の若狭局が頼家に嫁いで一幡を生み、一幡が将軍に就任すれば将軍外戚として幕府において強い力を持つことが想定される状況でした。にもかかわらず、将軍権力が千幡との間で分割されてしまったら、自らの地位を損ないかねないという懸念があったと思われます。ただ、比企氏の力が強まるということは、比企氏と同様、頼朝を挙兵時から支え続けてきた北条氏の立場が相対的に低下することを意味します。創業当初からの功臣同士の権力闘争という状況下において、能員は病床の頼家とともに北条氏の討伐を謀るのです。

 

 同年9月1日、実朝を征夷大将軍に任命することを要請する使者が鎌倉を出発して京に向かいます。この使者は朝廷に対して、頼家はまだ生きているにもかかわらず「頼家病死」と報告しています。翌2日、比企一族は一幡を担いで御所に立て籠りますが、政子が派遣した追討軍によって攻め滅ぼされました。北条氏からすれば、政子が生んだ実朝が将軍に就任すれば将軍外戚としての立場を維持できるわけです。そういう意味で、この争いは頼朝を創業時から支え続けた者同士の権力闘争ということができるでしょう。なお、島津忠久は丹後局の実家の比企家に与したとして、一時的であれ3ヶ国の守護を罷免されています。

 同月5日、孤立した頼家は、比企氏を滅ぼした「責任」追及として、和田義盛に対して北条時政の追討を命じます。しかし、義盛は下知状を時政に提出してしまい、万策尽きた頼家は母・政子に従い出家したのです。同月15日、実朝を征夷大将軍に任じる宣旨が京から鎌倉に届き、同月29日、頼家は伊豆の修善寺に幽閉されました。こうして、実朝が3代将軍に就任することとなったのです。同時に、源氏嫡流としては最後の将軍就任となりました。なお、この頃から北条時政を「執権」と呼ぶようになっています。

1204年2月、畠山重忠は建仁寺の垣を築いています。同年7月18日、頼家は修善寺で殺害されました。鎌倉幕府の立場から記述された『吾妻鏡』には「薨じた」とありますが、北条氏としては、反北条勢力が少なからず潜伏している状況において頼家が同勢力に担がれる可能性を意識していたと思われます。

 
 

(3) 畠山重忠の死

ア 二俣川合戦

頼家が殺害された1204年の10月14日、3代将軍・実朝の結婚相手である坊門信清女を迎えるために、畠山重保ら15名が鎌倉を発って京に向かいました。しかし、この時に京でトラブルがありました。同年11月4日、京の平賀朝雅邸での酒宴の席で、朝雅と重保の間に喧嘩が発生してしまいます。その場は居合わせた人々がなだめたことで収まりましたが、朝雅の妻の母は北条時政の後妻・牧の方でした。牧の方は娘婿とトラブルを起こした畠山重保と彼の父・重忠の殺害を企てるのです。

1205年6月21日、北条時政は、後妻の意向によって、息子の義時と時房に畠山父子の殺害をもちかけますが、息子2人はこれに反対しました。すると、牧の方の兄の大岡時親が義時に面会し、「まるで重忠の代弁者」・「牧の方の讒言だと思っているのだろう」などと抗議しました。義時はついに折れて畠山父子の殺害を承諾しました。

2010年12月9日
二俣川合戦古戦場碑
(神奈川県横浜市旭区)

2020年6月4日
畠山重保邸址
(神奈川県鎌倉市由比ガ浜)

梶原景時の例もあるわけですから、「讒言だと思っています。」と言ってしまえば良いようにも思われますが、義時としては、「そこまで言われるのなら」という心境だったといいます。翌22日、畠山重忠は二俣川合戦で討死しました。若宮大路を由比ガ浜方面に歩いていくと、右側に畠山重保の屋敷跡であることを伝える石碑が建っています。

なお、畠山討伐戦には足利義氏や小山3兄弟らのほか、相良長頼も参戦しており、長頼は二俣川合戦での軍功によって人吉庄地頭職に任じられています。相良家のように、幕府への奉公によって西国の所領を与えられて現地に赴いた御家人のことを、講学上、「西遷御家人」と呼ぶようです。

 
 

イ 北条時政の失脚

北条時政は、後妻の意向に沿って、頼朝挙兵の年以来の功臣である畠山重忠を殺害しました。外戚争いの末に比企氏を滅ぼしたことは国事に尽くした結果と考える余地もありますが、畠山父子を滅ぼしたことは、牧の方の娘婿と畠山重保が酒の席でトラブルになったことに端を発する私怨の性格が強いといえるのではないでしょうか。そして、牧の方の私情を、夫である時政が拒めなかった。伊豆にいた頃から頼朝を支え続けてきた北条時政にも引退の時が迫ってきたようです。

二俣川合戦と同年の閏7月19日、牧氏の謀反が発覚したことにより、時政は鎌倉を追放されて伊豆に隠居することになりました。牧の方に、娘婿の平賀朝雅を実朝の代わりに将軍に据えようとしていたという疑いがかけられたのです。時政は、後妻に起因して晩節を汚したといえましょう。これにより、時政の息子の義時が政所別当・執権に就任しています。畠山父子を死へ追いやることとなった平賀朝雅も、同月26日、京都東洞院で討たれています。

さらに、事件は宇都宮家にも飛び火します。同年8月、宇都宮頼綱の謀反の噂が流れます。宇都宮家は結城朝光を頼朝に引き合わせた寒河尼の実家で、鎌倉幕府において重きをなしておりました。ただ、宇都宮家の頼綱は北条時政の娘と結婚していたため、牧の方との結託を疑われたのです。驚いた頼綱は、直ちに出家して蓮生を名乗りました。この宇都宮蓮生頼綱が、後に藤原定家と親交を深め、その結果、小倉百人一首が誕生することになるのです。

 

 

2009年2月27日
親鸞聖人上陸の地
(新潟県上越市)

1207年、念仏停止宣下が下るとともに、浄土宗を開いた法然は土佐に、浄土真宗を開くことになる親鸞は越後に流されました。

政界を引退した宇都宮頼綱は、1208年11月8日、土佐配流を終えて摂津国箕面の勝尾寺に戻っていた法然を訪ねています。頼綱は北条氏との婚姻関係が災いして中央政界を去りましたが、これ以降は文化人的に生きていくのです。

 
 

(4) 和田義盛の死

 1209年5月12日、将軍・実朝は、政子と相談のうえで、和田義盛が上総国司への任官を希望したことについて、それを認めない決定を下しました。一般の武士は国司に任じないという制度運用が続いてきたため、これを踏襲したものです。1213年元旦、大江広元の御家人序列が第1位となっていますが、その年の2月16日、安念が千葉成胤によって捕らえられました。安念は、故・頼家の遺児である千手を担いで北条義時を倒す計画を白状しました。そして、その同志のなかに和田義盛の息子たちが含まれていたのです。

 同年3月8日、義盛は実朝に息子たちの赦免を願い出ます。その結果、息子2人は赦されるも、北条義時の意向により、甥・胤長は赦されませんでした。胤長の鎌倉・二階堂の屋敷は義盛が引き取っていたのですが、同年4月2日、胤長の屋敷が北条義時に与えられ、義盛の代官らは屋敷から追い出されてしまいました。義盛が激怒したことは言うまでもありません。執権・義時は三浦一族の力を削ごうとしていたようです。

 同年5月2日、義時は胤長・義直及び義重らを謀反の疑いで捕えましたが、これは義盛に対する挑発と思われます。同日、挙兵した義盛は義時の屋敷を襲撃しました。自身も屋敷を襲撃された大江広元は、義盛の挙兵を将軍御所に急報し、実朝は法華堂に避難しています。翌3日、和田義盛は江戸能範の兵によって討取られました。頼朝の創業を支えた功臣が、また1人、命を落とすこととなりました。和田一族の全滅は、三浦一族の凋落のきっかけともなりました。

 義盛には、石橋山の戦いの後に船上で頼朝と侍所のトップに任命するよう約束したという逸話がありますが、義盛の死により北条義時が政所別当に加えて侍所別当も兼任することとなりました。また、義盛の遺領もその多くは北条氏の所領となり、鎌倉幕府は徐々に北条得宗家による支配体制へと変質していきます。

 和田合戦において北条氏に与した者としては、島津忠久、武田信光・信政父子、足利義氏、結城朝光らの名前が見えます。他方、和田氏の側には、和田氏に積極的に与する者だけではなく、13年前に討伐された梶原景時の残党など、広く何らかの事情によって幕府から抑圧を受けていた不満分子一般が参加しています。「反幕府」という1点において、共同戦線をとる意味があるという判断でしょう。

 
 

将軍・実朝は、和田合戦後、歌道や官位昇進に意識が向くなど、貴族的知識人志向が強くなっていきました。あるいは、鎌倉を舞台とした権力闘争に嫌気がさしたのでしょうか。しかし、一般人であればともかく、実朝は鎌倉3代将軍ですから、京の朝廷と協調しつつも最終的には武士たちの利益を代表する立場を貫かなければなりません。実朝個人としての貴族的傾向は、武家として初めての右大臣昇進という「栄誉」にあずかった反面、武家政権の棟梁としては不安を感じさせる面もありました。なお、浄土宗を開いた法然は、和田合戦の前年の1212年に死去しています。

(5) 園城寺と延暦寺の争い

1214年4月、園城寺と延暦寺の間で衝突が生じ、園城寺が焼討ちされました。園城寺は、頼朝の挙兵よりも前から源頼政を支援してきた経緯があります。園城寺には、修行中の公暁もいたはずです。そこで、園城寺僧正・公胤は幕府に焼討ちの件を訴え出て、有利な政治的決着に期待しました。同年5月5日、幕府は御家人に園城寺の修復を命じますが、この時に拝殿の修復を割り当てられたのが宇都宮蓮生でした。

 

2009年1月25日
俊成社
(京都府京都市)

この頃の蓮生は、藤原定家の京極邸の近くに住んでおり、政界引退後に歌道に目覚めた蓮生が定家に教えを請うところから2人の交流が始まりました。なお、同年12月25日、和田義盛の息子たちが担ごうとした千手が自害しています。

(6) 公暁の願い

1217年6月20日、故・頼家の遺子で政子の意向によって実朝の養子となっていた公暁が、政子によって鶴岡八幡宮別当に就任しています。同年10月11日、公暁は別当として初めて神拝を行うのですが、その後、上宮の西壇所に籠ってしまいました。一体、何を願っていたのでしょうか。

 

2009年9月18日
十三湊・唐川城址から
(青森県)

(7) 奥州事情

1217年11月、大江広元は重い眼病と腫物により陸奥守を辞任し、出家しました。後任として、北条義時が陸奥守に就任しています。この頃になると、北条家の力が奥州にも及んでいます。そして、北条家の奥州の所領の現地代官として、安藤氏が力をつけてくるのです。

 伝承によると、安藤氏は前九年の役で討たれた安倍貞任の遺子・高星丸の末裔で、安倍氏が滅ぼされた後に津軽・藤崎に逃れて安藤氏を称したとされます。安倍氏の「安」と奥州藤原氏の「藤」をあわせて「安藤」と称したといいます。安藤氏は藤崎を拠点としつつも、後に十三湊に福島城も築城して2大拠点とします。そして、約1世紀の後、安藤氏の内紛を1つのきっかけとして鎌倉幕府は滅亡することになるのです。

北条氏の勢力が奥州にまで伸長していく反面、将軍・実朝は1218年3月、前九年の役以来置かれていなかった秋田城介というポストを復活させ、これに安達景盛を推挙しています。秋田城介とは、古代律令国家が蝦夷討伐をしていた頃の北方の防衛司令官の地位で、北条家に対する牽制の意味があった可能性が指摘されています。

 安藤氏は南部氏らとの抗争を繰り返しながらも出羽国や渡島に勢力を保ってきましたが、戦国末期に蝦夷支配権を失って秋田姓に改め、さらに関ヶ原の戦いの後に出羽も失って伊駒姓に改めることとなります。安東氏に代わって出羽に飛ばされたのは、頼朝の挙兵の際は源氏でありながら同調せず、関ヶ原の戦いでは去就を明確にしなかった佐竹氏です。ただ、鎌倉末期の時点では、次に幕府を開くことになる足利氏と良好な関係を築くことに成功したため、家運が上向いていきます。

2009年9月19日
脇本城址
(秋田県男鹿市)

 

(8) 実朝の死

 1218年10月9日、実朝は内大臣に任じられました。さらに同年12月2日、実朝は右大臣に任じられています。これは異例のスピード出世といえます。他方で、鶴岡八幡宮の公暁は、依然として「何か」を願い続けており、髪の毛も伸び放題で異様な風貌になっておりました。

同年12月8日、月輪大師・俊芿が、宇都宮信房から月輪山麓の仙遊寺の寄進を受けています。これ以降、後鳥羽上皇や後高倉院の資金提供を受けながら宋風の大伽藍が造営されていきます。

 
 

 1219年1月23日、鎌倉に雪が降りました。翌日も雪が降り、同月27日にも夕方から雪が降りました。この日、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀式を終えた直後に公暁に暗殺されました。実朝の死によって源氏の将軍は断絶し、これ以降は京の九条家や皇室から貴人を将軍として迎えることになります。公暁は実朝の首を持って三浦義村の屋敷に駆け込みましたが、たちどころに殺害されています。

 公暁は執権・義時が派遣した長尾定景によって討取られていますが、長尾家も桓武平氏の流れをくむと伝わります。長尾家は後述する宝治合戦の際に三浦氏に与したことで離散を余儀なくされましたが、その後に後述の上杉氏に仕えることになり、やがて、景虎の代で上杉家を継承することになります。

 翌28日、将軍の暗殺という事態をうけ、御家人100人あまりが出家しました。実朝の貴族的知識人志向は、京と鎌倉の架け橋となっていた面がありました。しかし、実朝が殺害されたことによって後鳥羽上皇らの北条義時らに対する反感が急速に高まっていくことになり、やがて承久の乱の勃発につながるのです。

なお、この年、後に3代執権に就任する北条泰時が、紫陽花と由比ヶ浜の競演が美しい成就院を建立しています(成就院ホームページ)。