鎌倉期4 ~名実ともに武家政権成立~

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特定商取引法に基づく表記

25 政治のあり方の変更

 

(1) 朝令暮改

同年9月17日、義経は京都六条室町の屋敷で頼朝が放った刺客に襲われます。義経はこれを撃退したものの、翌18日に後白河法皇に頼朝追討を迫り、法皇は行家・義経に対して頼朝追討の院宣を下してしまいました。これによって、頼朝・義経兄弟の対立が決定的となるのです。頼朝としては、法皇が義経に言われるままに院宣を下してしまったことは理解に苦しむことだったようですが、他方で、武家政権の権限拡大を図るうえでは好機到来という面もありました。

10月24日、勝長寿院の開堂供養式が執り行われ、平治の乱で敗死した義朝の供養のために鎌倉中の御家人らが参列したのですが、この時の頼朝の心中に去来したものは何だったでしょうか。父・義朝に思いをはせたまさにこの日、弟・義経討伐のための先遣隊を西上させているのです。同月29日には頼朝自身も鎌倉を出陣し、11月1日には黄瀬川に駐屯しています。

 この頃、義経は京を脱出して摂津・大物浦(だいもののうら)から船で逃亡しようとしていたのですが、その船は沈んでしまいました。その後の義経は、吉野山、十津川、伊勢、京に潜伏することになります。義経の船が行方不明になったという報告を受けた頼朝も、黄瀬川から鎌倉に引き返しました。

2007年9月23日 吉野奥千本

2007年9月23日 蹴抜けの塔(吉野奥千本)

頼朝は義経討伐のために軍を動かすだけでなく、義父の北条時政にも兵を与えて上洛させています。後白河法皇が頼朝追討の院宣を下したからといって、直ちに京を攻めようとしたわけではありません。時政が兵を率いて上洛したことは、一種の砲艦外交と言って良いでしょう。つまり、「道理に反したのは義経であるにもかかわらず、義経に言われるままに頼朝追討の院旨を下したというのは、どういうことでしょうか?」というメッセージを、軍事力を背景として心理的圧迫を加えながら後白河法皇に突きつける意味がありました。

 これに対して法皇側は、「院宣は義経らに脅されてやむなく下したものにすぎず、法皇の本心ではない」という弁解に終始した末に、今度は義経追討の院宣を下すのです。天照大神の子孫とされる天皇家の方々と正面衝突することは憚られますが、かといって、法皇側の弁解を鵜呑みにするわけにもいきません。頼朝は法皇側の立場が弱まったこのタイミングで、武家政権の権限拡大のための政治的要求を突きつけるのです。

(2) 守護・地頭の建議

11月12日、大江広元は、頼朝に対して守護・地頭の建議を行います。つまり、1国につき1人、武家政権の地方官として「守護」を置き、この者に謀反人逮捕の権限を認める、そして、守護の監督のもとに、年貢徴収や治安維持を担当する「地頭」を置く、そして、これらを日本国総追捕使・総地頭の立場から頼朝が率いるという新しい政治体制を提案しました。これによって、従来の律令国家の国司らの権限を有名無実化しようとしたのです。

 このような政治体制を全国に展開する必要性を論じる際、院宣に関する朝令暮改に乗じるだけではなく、「義経追討のため」という論理が用いられました。「敵」の存在を組織の拡大のために利用したと理解できます。こうして頼朝は、朝廷に幕府権力を公式に認めさせることに成功したのです。これ以降、新たな支配体制のもとで頼朝の配下たちが全国各地に所領を得ていきますが、具体的に誰がどこを得たのかは、奥州合戦を終えたところでまとめてご紹介します。

 
 

(3) 朝廷人事の刷新

頼朝は在京中の北条時政から、京の公家の属性に関する報告も受けています。これを踏まえ、12月6日、義経派公卿の追放と頼朝派公卿の抜擢を後白河法皇に要求しました。翌1186年1月9日、親幕派とされる九条兼実が内覧に就任し、3月には摂政になっています。これにより、頼朝としては宮廷工作がやり易くなったことでしょう。

26 奥州合戦

(1) 静御前の尋問

 1186年3月、義経の愛妾で妊娠中の静御前が母・磯禅師に連れられて鎌倉に入り、義経の行方について尋問を受けました。4月8日、頼朝と政子は、鶴岡八幡宮に参拝した際に静を回廊に召し出して白拍子の名人である同人に舞を所望しましたが、静の態度に頼朝が激怒したと伝わります。静はこの年の閏7月29日に安達新三郎邸で男の子を出産しましたが、政子の助命嘆願も空しくこの男児は由比ヶ浜に棄てられてしまいました。あるいは、女の子であれば助かっていたでしょうか。

 9月16日、静は母とともに鎌倉を出発して京に向かいます。この時、政子と大姫は静を憐れに思い、数々の贈物を持たせて送り出しています。ちなみに、『ドラえもん』にでてくる「しずかちゃん」というキャラクターの姓は「源」ですから、おそらく義経の愛妾の静にちなんだ名前なのでしょう。静が鎌倉を発った頃、京では義経の隠れ家が襲われ、佐藤忠信も失った義経は平泉を目指すことになります。なお、藤原定家が九条家に出仕したのはこの年のことです。

(2) 奥州藤原氏を脅迫

 同じ頃、頼朝は奥州の藤原秀衡に対して、京への貢物を鎌倉経由で届けるよう要求しています。検非違使補任という形で京と直接に結び付いた義経を排除した頼朝は、奥州藤原氏についても、京との直接の結びつきを断つことによって鎌倉の武家政権の傘下に置こうとしたのです。秀衡が従えば政治目的を達成でき、従わなければ秀衡を討伐する口実にしようとしたと考えられますが、この時の秀衡は頼朝の要求に従いました。相手のタイミングで戦端を開くことは不利な場合が多いですから、思慮深い判断といえるかもしれません。

 

2009年2月2日
平家・緒方家屋敷
(熊本県八代市)

頼朝の意識は北だけでなく南にも向いています。同年6月、義経らや平氏残党の追捕及び九州御家人の組織化のため、天野遠景を大宰府に派遣しています。西国は平正盛が白河院政期に台頭してからは平氏の地盤でしたが、鎌倉の武家政権が守護・地頭という支配体制をうち出した以上は、この体制に組み込む必要があるからです。

 1187年3月、義経が平泉に落ち延びると、奥州藤原氏に対する頼朝の脅迫が激しくなっていきます。頼朝は後白河法皇に対して秀衡が義経と結んで反逆すると訴えるとともに、鹿ケ谷の変の後に奥州に亡命した中原基兼の上洛と、大仏鋳造のための3万両の黄金を要求する院宣を引き出して秀衡を脅迫しました。もちろん、秀衡が脅迫に抗しきれずに暴発した場合は奥州討伐の口実とするつもりだったでしょう。しかし、秀衡は頼朝の要求に対して冷静に事情を説明したうえで断りをいれています。とはいえ、同時に合戦の準備も進めていたことでしょう。

 頼朝の挑発には乗らなかった秀衡でしたが、同年10月29日に死去してしまいました。秀衡は、「伊予守(義経)を大将軍として国務にあたれ」との遺言を残しています。秀衡の後は息子の泰衡が継ぎました。「義経を匿って謀反を企てている」といった類の頼朝の脅迫は、翌1188年も4代目・泰衡に対して続けられることになります。

 
 

(3) 梶原景時の讒言癖

 船出したばかりの守護・地頭という制度の運用不安に起因する事件がこの頃に起きています。当時は現地に派遣されていた地頭らの不正が横行していたのですが、畠山重忠の代官も理由なき財産没収を理由に訴えられてしまいました。不正自体は代官がしたことですから、任命責任はともかくとして、重忠自身は不正に関与していません。にもかかわらず、重忠は4ヶ所の所領を没収されるとともに、囚人として千葉胤正のもとに預けられてしまいました。

 頼朝は胤正からの赦免の願いを容れて重忠を赦すのですが、三浦家の衣笠城を攻略した過去があるとはいえ、長井の渡しで頼朝に帰参して以来の功臣に対する重すぎる処分とも思えます。1187年11月14日、かつて讒言によって義経を今日の苦境に陥らせた梶原景時が、再び頼朝に対して「畠山重忠は事件処理に対する不満を理由として謀反を計画している」と讒言します。

 頼朝はすぐに重臣を集めて畠山問題について協議しますが、この時に重忠の無実を強く主張して重忠の危機を救ったのが結城朝光でした。重忠自身もかような疑いは極めて不本意だったようで、幼馴染みの下河辺行平とともに鎌倉に参上して潔白を主張しています。

(4) 源頼義以来の悲願

 1189年閏4月30日、度重なる脅迫に抗しきれなくなったか、藤原泰衡は数百の兵を率いて衣川の館にいた義経を襲います。義経は自害し、その首は美酒に浸して鎌倉に届けられました。院はこれまで頼朝の意向に沿って「義経追討」の院宣を数次にわたり繰り返してきました。そうであれば、義経の死が公式に確認された以上は、もはや奥州を攻める大義はないとも思えます。実際、朝廷としてはそのような立場だったのです。

 しかし、頼朝は泰衡が「謀反人・義経を匿っていた」ことを口実として奥州討伐を決定するのです。鎌倉の武家政権は、「どこに潜伏しているかわからない謀反人(義経)を捕えるため」に、守護・地頭という独自の支配体制を全国展開しました。そして、今度は「謀反人・義経を匿っていた」ことを理由として奥州討伐を決定しました。

 つまり、頼朝は朝廷から武家政権に権限を吸い上げるとともに、武家政権の支配領域を奥州にまで拡大するために、平氏討伐に軍功のあった義経を政治利用したと言って良いでしょう。当時は兄弟が対立していましたが、現代人の立場から眺めてみれば、武家政権の成立は客観的には兄弟による一種の協働事業とも理解できます。

 

2009年3月9日
白河関跡
(福島県白河市)

同年7月1日、例年は8月15日に実施されている鶴岡八幡宮の放生会が繰り上げ実施され、これが事実上の観兵式となりました。同月19日、頼朝は奥州に向けて出陣しますが、朝廷は「奥州追討の必要はない」という立場でしたから、追討の宣旨を得ないままの出陣となりました。途中、宇都宮で佐竹秀義の降伏を受け入れた頼朝は、同月29日、白河関を越えます。

翌8月7日、陸奥国伊達郡阿津賀志山に着き、この地で奥州合戦の火蓋が切られました。その頃、鎌倉の政子は鶴岡八幡宮でお百度詣りをしています。

 敗報を受けた泰衡は北へ逃れますが、頼朝は追撃を続け、8月12日に多賀国府、同月22日には平泉に入り、翌9月2日に厨川に入りました。そして、同月6日、頼朝のもとに泰衡の首が届きました。頼朝は、前九年の役の際の安倍貞任の例により、八寸釘で首を打ちつけて獄門にさらしました。頼朝も、河内源氏が奥州で戦い続けてきた歴史的経緯を意識しているのでしょう。なお、主君を売った河田次郎が処刑されていることは、『三国志演義』において、曹操が漢中侵攻の際に内応した楊松を処刑したことを想起させます。

 

2009年9月14日
岩手県盛岡市前九年1丁目

前九年の役の頃の河内源氏は、藤原摂関家の庇護のもとで東国の治安維持にあたるとともに、中央政界を後ろ盾にしてその権威によって東国をおさえるというポジションでした。しかし、この時代の摂関家に往時の存在感はなく、むしろ頼朝が鎌倉の武家政権の主として奥州を討伐しているのです。奥州合戦によって奥州藤原氏の旧領は鎌倉の御家人らに与えられ、武家政権の支配領域が奥州にまで拡大することになりました。義経がいたからこそ、武家政権がこのような侵略にでることが可能となったのです。

こうして義経はこの世を去りましたが、平氏討伐のヒーローの死を受け入れがたい人々も少なからずいました。義経には「実は衣川で討たれておらず、北海道に渡って生き延びた」という伝説があるのです。河内源氏の源義親が伊勢平氏の平正盛によって討たれたことを受け入れられない人々が少なからずいる状況下で、「自称・義親」がたびたび出現したことと似ています。義経の場合、さらにモンゴルに渡ってチンギス・ハンになったという創り話まで我が国では生じております。

 
 

(5) 論功行賞

同年9月20日、頼朝は平泉で論功行賞を行います。この時に最初に恩賞を受けたのは9年前の挙兵の当初から頼朝を支え続けた千葉常胤で、これは武士としては大変名誉なことでした。奥州合戦以降、奥州は武家政権の御家人らのいわば植民地となり、流刑地としても利用されていきます。大江広元の守護・地頭設置の建議以来、従来の王朝型とは異なる支配体制が全国に拡大していきましたが、奥州合戦以前のものも含めて、ここで具体的に誰がどこを得たのかを少し整理しておきます。

2009年3月11日
仙台城・伊達政宗像
(宮城県仙台市)

 

 

藤原北家魚名流とされる常陸入道念西なる人物の息子たちが阿津賀志山合戦で軍功をあげた功により、念西は伊達郡を拝領して伊達氏を称することになります。

三浦一族の佐原義連には、会津四郡を拝領したという伝承があり、その孫の光盛の代から蘆名氏を称することになります。戦国期の伊達家と蘆名家の抗争が有名です。

2009年3月10日
戸ノ口原古戦場・夜泣き石
(福島県)

 

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甲斐源氏・武田家は、鎌倉期のかなり早い段階から甲斐国の守護職に任じられるとともに、武田家がその地位を代々継承してきたであろうと考えられています。

奥州合戦の少し前に、史料に「南部」という文字が現れ始めます。南部家の伝承によると、奥州合戦の恩賞として糠部(現在の青森県東部あたり)を拝領したと伝わります。そして、南北朝期にはこの南部家の末裔が南朝方として戦うことになるのです。

 

奥州合戦の数年前、惟宗忠久が日向国島津荘の地頭職を得て、島津氏を称しています。島津家の伝承によれば、頼朝によって妊娠した丹後局が政子を恐れて摂津・住吉に逃れ、住吉大社で男児を出産したと伝わります。畠山重忠がその男児を保護し、元服の際には烏帽子親となって自身の名前の「忠」の字を与えて「忠久」と名乗らせたといいます。

2012年11月14日
大友宗麟像
(大分駅前)

 

奥州を討伐した頼朝は、翌1190年10月3日、上洛のため鎌倉を発ち、翌11月7日に入京して六波羅に入ります。そして、同月9日に仙洞御所で後白河法皇と面会し、内裏では後に承久の乱で隠岐に流される後鳥羽天皇とも面会しています。この時に頼朝は①砂金、②鷲の羽及び③馬を献上しています。いずれも産地は前年に征服した奥州以北で、これ以降、この3種が鎌倉幕府の献上品として定着していきます。被征服地の富は収奪されるのです。

27 将軍宣下

 

1192年1月21日、頼朝は永福寺造営工事を視察しています。同年3月13日、後白河法皇が死去しました。

同年7月、頼朝はついに征夷大将軍に任じられました。1180年の挙兵以来、鎌倉には頼朝を頂点とする武家社会が成立していました。その後、平氏を滅ぼし、朝廷から権限を吸い上げ、さらに奥州を侵略するという形で武家政権としての実質を高めてきておりました。頼朝の将軍宣下によって、ようやく鎌倉の武家政権は名実ともに鎌倉幕府として成立したと理解されています。それゆえ、現代の我が国の小学生たちも、試験勉強として「良い国(1192)つくろう鎌倉幕府」という語呂合わせによってこの年を記憶しているのです。

 頼朝の将軍宣下の実現に向けて、京では親幕派の九条兼実が宮廷工作を行っていたようです。征夷大将軍に任じられた背景には、頼朝が滅ぼした奥州藤原氏が補任されていた鎮守府将軍では足りないという考慮がありました。これ以降、建武の新政による数年の中断はありましたが、我が国では700年近くにわたり武家政権の時代が続いていくことになるのです。

 
 

平将門の乱を、坂東武士による中央政界に対する反乱の第1弾と理解する立場を前提とすれば、平忠常の乱をその第2弾と理解することもできます。そして、これらは王朝権力によって鎮圧されましたが、その試みは源頼朝による第3弾でようやく成就することとなりました。なお、同年8月9日、政子が実朝を生んでいます。