鎌倉期3 ~平氏滅亡~

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(7) 東国の基礎固め

 翌1181年2月、頼朝の妻・政子の妹の高子が足利義兼に嫁ぎ、また、上総介広常の娘が頼朝の挙兵の際に速かに馳せ参じた小笠原長清に嫁ぎました。ともに頼朝の意向による婚姻です。配下の結束を強める趣旨でしょうか。この婚姻により、足利義兼は頼朝と義理の兄弟になったわけですから、それだけ足利家が重きをなしていたことが窺われます。

 閏2月4日、平清盛が死去しました。

 
 

 3月10日、墨俣合戦で新宮行家が敗れ、行家は木曽義仲のもとに逃れます。この敗報に触れた頼朝はひどく動揺し、鹿島神宮に祈願しています。鎌倉幕府の事実上の成立とはいっても、それは現代人が今日の時点からそう理解しているだけであって、当時としてはたとえ清盛が死去しても安心するにはほど遠い状況だったのでしょう。

 4月、頼朝は寝所を護衛する者11人を選定しておりますが、この11人のなかに畠山重忠は含まれておりません。畠山重忠は怪力の持ち主とされ、数々の武勇伝もあるのですが、かつて三浦家の衣笠城を陥落させたこともあり、頼朝はまだ心から信用してはいなかったのではないかという指摘もあるところです。ただ、頼朝はこの頃までには伊豆にいた頃から接触のあった亀の前を鎌倉に呼び寄せており、墨俣合戦の頃から寵愛が激しくなっています。11人を選んではいますが、「基礎固め」と称して何をしたかったのかという気もしてきます。政子の怒りは、頼家の出産後に火を噴きます。

 6月14日、木曽義仲が横田河原(長野市)で越後の平氏方に大勝しましたが、この戦いの際、奥州の藤原秀衡は平氏に援軍を派遣しています。やはり、富士川の戦いの後、京に攻めのぼらなかったのは正解だったといえるのではないでしょうか。

 同じ頃、まだ成立してからの日が浅い武家社会の秩序を揺るがしかねない出来事が起きます。頼朝らは納涼のため三浦海岸に赴いたのですが、この時、上総介広常は頼朝の姿を見ても下馬せず会釈したのみで済ませてしまいました。臣下としては、主君の前では馬を降りるのが礼儀ですから、この振る舞いを見た三浦義連らは激怒しています。

 上総介広常は、安房に逃れた頼朝を千葉常胤とともに支えた最初期からの功臣です。一般論としては、「今の頼朝があるのは自分のおかげ」という驕りが生じていたという推測も可能なところですが、果たして広常の場合はどうだったでしょうか。

2020年6月4日
下馬交差点
(神奈川県鎌倉市)

 

 また、富士川の戦いで戦功をあげた甲斐源氏に対しても、頼朝は次第に警戒心を募らせていきます。江戸幕府が功臣らを改易することによって秩序を維持したことは比較的よく知られています。中国では、背水の陣で有名な韓信も、漢の建国後に高祖・劉邦に殺されました。これらと同じ方向性の動きが鎌倉期にも生じていたのです。武田信義は、この年に「子孫に至るまで背かない」旨の起請文を提出しています。

 8月、朝廷は藤原秀衡を陸奥守に、木曽義仲に敗れた城助職を越後守に任じます。頼朝包囲網の形成とも理解できる動きを受け、頼朝はこれ以降、奥州藤原氏を明確に敵と認識することになります。頼朝は後白河法皇に密使を送り、平氏との和睦を申し入れました。西国の平氏と奥州の藤原氏を同時に敵に回す二正面作戦を避けたかったと考えれば理解できるところですが、清盛の嫡子・宗盛は頼朝の提案を強く拒絶しました。

 

2011年4月30日
若宮大路
(神奈川県鎌倉市)

 1182年3月9日、後に2代将軍となる頼家を妊娠した政子の着帯の儀式が執り行われました。頼朝は政子の妊娠を契機として、鶴岡八幡宮を起点として由比ヶ浜方面に参詣道路を整備しており、これが現在の若宮大路の原型となりました。

 ただ、政子の妊娠中も伊豆から呼び寄せた亀の前に対する寵愛は収まっていません。なお、かつて「謀反人が娘を孕ませた」と激怒して頼朝を殺害しようとした伊東祐親は三浦義澄のもとに預けられていたのですが、義澄は政子の妊娠を理由として祐親の赦免を願い出ました。頼朝はこれを容れて恩赦としたのですが、祐親は後に鎌倉殿になる人物を殺害しようとした自らの不明を恥じて自害しました。

2010年8月1日
恋人岬
(静岡県伊豆市)

 

 7月14日には、遅れて来た人・新田義重は、誰よりも早く上野の新田荘に戻ってしまいました。義重の娘は「悪源太」と呼ばれた源義平に嫁いでいたのですが、義平は平治の乱で討死しています。頼朝は寡婦となった義重の娘を我がものにしようと思ったようですが、娘はこれを拒絶しました。そして、父・義重の意向で帥六郎のもとに嫁ぎました。これに頼朝が激怒したのです。

 8月12日、政子は無事に頼家を生みましたが、ここからが大変でした。北条時政には後妻として牧の方が嫁いでいたのですが、彼女が頼朝と亀の前の関係を政子に告げ口したのです。激怒した政子は、牧宗親に亀の前が住んでいた伏見広綱の屋敷の破壊を命じ、住む場所を破壊された亀の前は大いに恥辱を受けることになりました。さらに、政子は亀の前に屋敷を提供していた伏見広綱も遠江配流としてしまいます。

 今度は頼朝が激怒しました。屋敷を破壊された挙句に飛ばされた伏見広綱もとばっちりですが、政子の命に従って屋敷を破壊した牧宗親は平謝りしても赦されず、髻を切られてしまったのです。髻を切られるというのは、武士としてはこの上ない恥辱です。そして、頼朝は政子を恐れる亀の前を小中太光家の屋敷に移し、相変わらず寵愛を続けるのです。

 娘夫婦の凄まじい夫婦喧嘩を知った北条時政は、伊豆に引き揚げてしまいました。娘を大事にしない頼朝に対する支援を断ったという意味なのか、あるいは、当事者同士で解決すべきで、義父の自分が鎌倉に居続けること自体が解決に悪影響を及ぼしかねないという判断なのか、それとも、何もかも嫌になったのでしょうか。

 

2009年3月13日
小田城址(茨城県)

 このような武家の棟梁夫妻の不和に起因する混乱に乗じる意味もあったのでしょうか。1183年閏2月、志田義広が反乱を起こします。野木宮合戦における小山朝政らの活躍によって乱は鎮圧され、義広は木曽義仲のもとに逃れました。反乱の報にふれた鎌倉の頼朝は、7日間にわたり鶴岡八幡宮を参詣しています。

 この乱の結果として、志田に与した常陸平氏の所領が削られて、これが結城家や八田家に与えられました。乱後に勢力を伸長した両家は、やがて南北朝期に関東における南朝方の主力として戦い続けることになります。義広は木曽義仲のもとに逃れましたが、それはこの時点において既に頼朝と義仲が対立していたということを意味しません。この頃に義仲は関係改善の試みとして、息子の義高を人質として鎌倉に差し出しているのです。そして、義高には頼朝・政子夫妻の長女の大姫が嫁ぐことになりました。頼朝と義仲の協調関係が継続すれば大姫も幸せになれたかもしれませんが、結果的にこの婚姻が大姫を不幸にしてしまいました。

 こうして見ていきますと、創業の功臣の驕り、棟梁夫妻の不和に加え、領国内での武力衝突もあっては、草創期の鎌倉幕府はまだ不安定要素に満ちていたといわざるを得ないでしょう。畿内の平氏や奥州の藤原秀衡に対抗するための武力はもちろん必要ですが、軍事部門と並行して域内の統治能力を高めるための官僚組織を整備することも必要です。しかし、父祖以来の土地を守るための自警団的な坂東武士にそのような素養を期待できるでしょうか。鎌倉の武家政権に必要な人材は京にいるのです。この年の暮れ頃に、ある人物が京から鎌倉に下向してくることになります。

 

2009年2月24日
倶利伽羅峠古戦場
(石川・富山県境)

(8) 木曽義仲の戦い

 1183年2月、平通盛が北陸戦線に向けて出陣しました。同年4月には平惟盛も北陸道へ出陣しています。そして5月、木曽義仲が倶利伽羅峠で火牛戦法によって平氏に大勝しました。義仲は、富士川から鎌倉に引き返した頼朝とは異なり、そのまま京に向かって進撃し、これを受けて平氏は7月に都落ちとなりました。

 同年閏7月28日、大軍を率いて京に入った義仲でしたが、その頃の西国は飢饉によって食糧が不足しており、大軍であるがゆえに余計に兵糧の調達に苦労することとなりました。結局は現地調達、すなわち、徴発ないし略奪せざるを得ないわけですが、これによって、義仲は倶利伽羅峠で軍事的には大勝していながら、政治的には名声を失ってしまいました。

2009年2月24日
為盛塚
(富山県小矢部市)

 

 他方、頼朝は坂東で武家社会の主として「基礎固め」に精を出しつつも、朝廷との関係では「恭順」のポーズをとり続けています。坂東武士の土地を本気で守ろうとするのであれば、いずれは王朝権力との衝突は避けられないとも思えますが、それでも表向きは「恭順」なのです。つまり、「我々は平氏が攻めてくるのでやむなく戦ったのであって、朝廷に歯向かうつもりはありません。」というスタンスです。後年、足利尊氏も後醍醐天皇との正面衝突を避けるために、「君側の奸・新田義貞の討伐」を大義名分として宮方と戦っています。事の真相を踏まえれば詭弁にすぎないとも思えますが、詭弁を弄してでも「朝敵」の汚名を避ける必要があったのでしょう。

 また、頼朝は京に向けて、平氏に横領された土地の返還も約束しています。一方で、軍事的に大勝しておりながら名声を失った義仲がおり、他方で、朝廷に恭順の態度を示すだけでなく財産の回復まで申し出た頼朝がいました。頼朝は自分の見せ方をよく理解していたといえるかもしれません。京では頼朝に対する期待感が高まっていきます。9月、後白河法皇は義仲に平氏追討を命じる一方で、翌10月に頼朝の官職を平治の乱の際に剥奪された右兵衛佐に復しました。平治の乱の直前、頼朝は初めての官職として右兵衛佐に任じられていましたが、敗戦によって10日間ほどでその官職を失っていたのです。それを復されたことは、もはや「罪人」ではないと公式に認められたといえます。それだけでなく、10月宣旨によって、頼朝の東国支配権も公式に認められました。

 

2009年12月29日
源平合戦水島古戦場
(岡山県)

 閏10月、義仲は備中・水島で平重衡・通盛に大敗を喫しました。この戦いで源義清も討死しています。進退窮まった義仲は、院御所を焼いて後白河法皇を幽閉するとともに、院近臣の官職も解くという暴挙にでてしまいます。そして、征夷大将軍の地位を強引に引き出して「旭将軍」を自称するのです。

 当時の我が国は、西国の平氏、畿内の義仲、坂東の頼朝及び奥州の藤原秀衡という4強という状況でした。そして、坂東の頼朝は秀衡や常陸の佐竹家に背後を脅かされていたため、軽々に上洛することはできませんでした。だからこそ、「東国の基礎固め」に精を出していたのです。しかし、義仲の暴挙により上京命令を受けた頼朝は義仲討伐を決意し、弟の範頼と義経を「東国の年貢を運ぶ」という名目で派遣しました。もちろん、真の目的は義仲討伐です。なお、既に都落ちした平氏は、源氏との決戦に備えて福原で城郭の整備を進めています。

 12月、頼朝の挙兵を最初期から支えてきた上総介広常が、双六の最中に梶原景時に討たれました。三浦海岸の件から約2年半後のことです。広常の旧領の多くは和田義盛と千葉常胤に継承されたため、広常の死によって千葉家の所領は増えたことになります。ともに頼朝を最初期から支えた者でありながら、明暗が分かれることになりました。そして、千葉家が大きな存在感を示すこととなった安房・上総・下総にまたがる地域は、現在でも「千葉県」と呼ばれています。

舞浜のディズニーランドのシンデレラ城のモデルはノイシュヴァンシュタイン城(ドイツ)とも。

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守護・地頭の設置を建議して史上初の武家政権の骨格を築いたのは大江広元です。鎌倉幕府の御家人序列第1位にして、安芸・毛利家の先祖でもあります。

 頼朝は広常の死によって創業時からの功臣を1人失いましたが、新たに優秀な人材を得ています。これまで何度か名前がでてきた大江家の大江広元が、年末頃に京から鎌倉に下向してきたのです。広元を頂点とする官僚機構が、鎌倉の武家政権の統治能力を向上させていくことになるのです。

 翌1184年1月20日、範頼・義経の軍勢と義仲の軍勢の間で、佐々木高綱と梶原景季の活躍で有名な宇治川の戦いが起こります。この戦いで義仲は敗死し、墓は義仲寺にあります。ただ、頼朝にとっては、鎌倉殿の立場からは勝利は喜ぶべきものですが、私人の立場からは極めて困難な問題に直面することとなりました。長女の大姫が、義仲の息子の義高に嫁いでいたからです。

 

2009年7月11日
一の谷付近から
(兵庫県神戸市)

(9) 平氏滅亡

 義仲を討った範頼・義経の軍勢は、同月29日、福原を拠点とする平氏討伐のために京を出陣しました。2月7日、一の谷の合戦も範頼・義経軍の勝利に終わり、福原を追われた平氏は屋島に逃れました。

一の谷の戦いについては、義経の「鵯越の逆落とし」、畠山重忠が馬を担いだ、熊谷直実が平敦盛を斬ったなど、芸能の分野で様々な脚色が行われています。

2009年7月11日
敦盛塚
(兵庫県神戸市)

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鎌倉の武家社会の棟梁は頼朝でしたが、実際に合戦で軍功をあげたのはその弟の範頼や義経でした。

 この戦いの後、範頼は鎌倉に戻りましたが、義経は京に残って警備の任にあたっています。そして、義経はこの時の在京中に、おそらく致命的と言って良い失敗をしています。頼朝は鎌倉の御家人が京の朝廷から直接官職に任じられることを厳禁していました。にもかかわらず、義経は後白河法皇から検非違使に任じられるとともに、院への昇殿を許されたのです。

 頼朝は表向きには朝廷への「恭順」のポーズを示しています。しかし、本気で坂東武士との約束を守ろうとするのであれば、やはりどこかで朝廷の権力との衝突は避けられないでしょう。つまり、王朝に「恭順」の姿勢を示しつつも、将来的には王朝の論理が及ばない武家政権の樹立を目指していたと思われます。王朝の論理が及ばないということは、つまるところ、権力や指揮命令系統の一元化ということです。

 多くの方が、これまでどこかでアルバイトをした経験があるでしょう。アルバイトとして入店したら、しばらくは業務の説明などを聞いて仕事を覚える必要があります。この時、もし現場の古株の指導内容と本社から派遣されてきた人物の指導内容が食い違っていたら、いずれの指示に従うべきか困惑してしまうでしょう。

 国家レベルにおける権力の二元化は、国家の分裂につながる危険性を孕みます。それゆえ、頼朝は表向き「恭順」の姿勢を示しつつも、慎重に可能な限り王朝権力の有名無実化を進めようとしていたのではないでしょうか。もしそうであれば、たとえ戦場で軍功をあげたとしても、義経が検非違使に補任されるという形で京の朝廷と直接につながることは、頼朝にとっては自らの意図を理解しない輩ということになるでしょう。

 しかも、義経は鎌倉との関係が微妙な奥州藤原氏の庇護も受けてきたわけですから、より一層慎重に身を処すべき立場にあったともいえるでしょう。この補任によって頼朝の心証は大いに悪化し、義経の将来に暗雲がたちこめてくるのです。「戦場のヒーローである義経を理解しない陰険な頼朝」というイメージもあるかもしれませんが、頼朝には義経に激怒するだけの合理的な理由があったというのが当事務所の立場です。決して、義経人気に頼朝が嫉妬したといったレベルの話にとどまるものではないと考えています。このことは、承久の乱や観応の擾乱、さらには室町将軍と鎌倉公方の対立といった事例をご紹介していくなかでご理解いただければ幸いです。

 同年4月26日、木曽義仲の息子の義高が、入間河原で殺害されました。義高に嫁いでいた頼朝の娘の大姫は、夫の死をきっかけとして、おそらく精神を病んでしまったのでしょう。政子にとっては、妻として公人として夫を支えるとともに、母として私人として大姫を立ち直らせることが、その後の人生の大きな課題となったのです。5月16日、平頼盛が鎌倉に入っています。頼盛はかつて平治の乱後に清盛に対して頼朝の命乞いをしてくれた池禅尼の息子です。一の谷の戦いで捕われた平重衡が寺社焼討ちの罪で鎌倉送りになっているのとは対照的に、頼盛は頼朝の歓待を受け、所領も安堵されています。

 6月16日、頼朝は一条忠頼を殺害しました。挙兵当初の頼朝は強い味方を必要としていましたが、義仲を討ち、平氏も福原から放逐したこの段階では、強すぎる味方は逆に脅威となり得ます。富士川の戦いでの勝利も、もっぱら甲斐源氏の働きによるものです。忠頼の殺害が、甲斐源氏に対する粛清の始まりとなりました。

 
 

 8月8日、範頼が平氏追討のために再び鎌倉を出陣しますが、今度は義経の姿はありません。検非違使補任で頼朝の心証を害した義経は、追討の任務から外されたのです。9月1日、京を出発した範頼の軍勢は山陽道を九州に向かい、12月には長門に入ります。しかし、平氏の地盤の西国では食料の調達に困難をきたし、食糧難に陥った軍勢の士気も低下し、帰国を希望する将兵もいたほどでした。この時に将兵らを説得する任にあたったのも千葉常胤でした。

 翌1185年1月末、範頼の軍勢は周防から九州に渡ります。平氏は瀬戸内方面に集結していたにもかかわらず、わざわざ九州まで行軍を続けたのは、九州をおさえることによって平氏包囲網を完成させるためでした。範頼は九州の平氏方も破って豊後から大宰府に入っています。そして、このタイミングで義経が再び起用されるのです。2月18日、那須与一の活躍や佐藤継信の討死で有名な屋島の戦いが起きます。義経は摂津渡辺から阿波の勝浦に渡り、そこから陸路で屋島に向かって平氏陣営を背後から奇襲して勝利を収めました。海上に追われた平氏は彦島に向かいます。

2009年2月15日
屋島古戦場付近
(香川県)

 3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡しました。この戦いには、義経の「八艘飛び」の逸話が残っています。清盛の妻の時子は、まだ8歳の安徳天皇と三種の神器を抱いて入水しました。神器は、八咫鏡のみが源氏によって確保されています。また、天皇の母の建礼門院徳子も入水しましたが、源氏によって救出されました。徳子は長楽寺で剃髪した後、大原に赴くことになります。戦後、義経は京に凱旋しましたが、範頼は8月まで九州にとどまり、現地の武士らの武家政権への組織化に努めることになります。

 こうして義経らの活躍により平氏は滅亡しましたが、奥州藤原氏が残っているとはいえ、世の中は戦争から政治へと移行しつつありました。乱世においては戦場での武勇が求められますが、治世においては統治能力や秩序が求められます。4月、梶原景時は頼朝に宛てて、「義経は軽挙によって秩序を乱す」という趣旨の書状を書き送っています。5月、既に頼朝の命で河越重頼の娘と結婚していた義経は、頼朝に無断で平時忠の娘ももらい受けました。これを受けて、頼朝も景時の意見に同調し、御家人らに義経の指示に従わないよう命じています。

 
 

 4月27日、大江広元が政所別当に就任しています。坂東武士らによる武家政権に、京にいた頃から政務に通じていた広元が参加したことは、見方によっては異分子の混入とも理解できます。石田三成ら文治派と福島正則ら武断派の対立が関ヶ原の戦い(1600年)の遠因にもなっています。しかし、広元が御家人らとの間で大きなトラブルを起こしたという記録は目にしておりません。

 政所は政務をつかさどる役所です。建前上は、すべての政務は頼朝の裁定を経ているということになっていましたが、現実としては、その大部分が大江広元主導の政所の裁定によっていました。今日においても、建前ないし制度上は政治家の役割とされていても、実際に案件に触れるのは官僚という例がいくらでもあります。私が再発行を受けた行政書士の合格証明書にも政治家の名前が書いてありますが、実際に再発行の作業に従事したのは都庁の役人でしょう。

 5月7日、義経は大江広元を通じて頼朝に起請文を提出しています。広元を通じての提出には、広元に自身に有利な口添えを期待する意味があったのでしょう。義経は弁明のために自身も鎌倉に赴きますが、鎌倉には入れてもらえませんでした。仕方なく、同月24日に満福寺で作成したのが腰越状です。失意の義経は、6月7日に京に戻りました。

 8月、頼朝の推挙によって、平氏追討に功のあった者が受領に任じられました。義経とあわせて「平氏追討源氏受領6人」という言い方もあります。この「頼朝の推挙によって」という部分が重要と思われます。日本国憲法第7条柱書には、次のように書かれています。

 「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」

 いわゆる天皇の国事行為に関する条文ですが、この条文の読み方については、1号から10号までに掲げられている行為には本来的には政治的な性質を帯びるものも含まれているが、内閣が「助言と承認」という行為を通じて実質的決定を行うことによって、形式的・儀礼的行為となるという解釈が伝統的通説です。形式的・儀礼的行為となるからこそ、「国政に関する権能を有しない」(憲法第4条第1項)天皇も行うことができるのです。

 たとえば、「衆議院を解散すること」(第3号)は本来的には政治的な性質を帯びますが、内閣が全会一致で解散を閣議決定しているのであれば、たとえ表面上は天皇が衆議院を解散したように見えても、それは形式的・儀礼的行為にすぎないということです。君主権力の名目化という現象は外国においても見られる現象であり、我が国固有のものではありません。

 段階的に王朝から武家政権へ権力を移行させたいと考えていたであろう頼朝にとっては、鎌倉の御家人が官職の補任を通じて京の朝廷と直接結びつくことは、人事に関する朝廷の実質的決定権を認めることにつながります。また、人事権を通じた影響力の行使によって「京VS鎌倉」という対立を徒に煽ることにもなりかねません。

 他方で、補任の権限自体は王朝に残っていても、頼朝の推薦がない限り官職に補任されないのであれば、頼朝は人事権を背景として御家人に対する影響力を行使し続けられます。仮に事実上頼朝の意向どおりに王朝が補任する慣行が定着すれば、その限りで王朝の権限は名目化し、実質的には権限が京から鎌倉に移行したとも理解できます。

 頼朝の意図をくみ取ることができなかった義経は、平氏追討の恩賞にあずかるどころか鎌倉に入ることさえ許されず、さらに、王朝から武家政権へ実権を移行させるという頼朝の思惑のもと、武家政権の権限拡大のために政治利用されることになるのです。