鎌倉期2 ~頼朝の鎌倉入り~

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24 源平の戦い

厳島神社(広島県廿日市市)
2009年2月14日

(1) 以仁王の令旨

 1180年3月19日、清盛は厳島神社に向かいます。このタイミングで以仁王が平氏追討の令旨を発するのです。以仁王はこの令旨において、自身を天武・聖徳太子になぞらえるとともに、勝利後の恩賞も約束して決起を促しています。そして、平治の乱で敗死した源義朝の弟である源行家が、この令旨を伊豆の頼朝のもとに届けるのです。

 4月27日、行家が北条時政邸の頼朝に令旨を届けます。頼朝は、水干で装束した後に令旨を読み、対応を時政に相談しますが、すぐには動きません。行家は頼朝のほかにも、武田信義や木曽義仲といった東国の源氏にも令旨を配り歩いています。

 5月、一足先に源頼政が宇治で挙兵しました。既に園城寺も以仁王支援の立場を表明していましたが、平等院や宇治川での激戦の末、以仁王・頼政ともに討死しました。

 

(2) 頼朝の挙兵

 6月19日、頼朝のもとに東下した三善康清が北条に到着します。彼が仮病を使ってまで伊豆にもたらした情報は、「令旨を受けた源氏はすべて討伐されることに決まりました。(河内源氏本流の)頼朝殿は特に危険だから、急いで奥州の藤原秀衡のもとに亡命してください。」というメッセージでした。

 ここで頼朝は、①挙兵して平氏と戦うか、②奥州に亡命して食客として余生を送るかの2択を迫られることになりました。義父の北条時政の情勢分析は、「上総介広常・千葉常胤及び三浦義明らが加われば、土肥・岡崎・懐嶋らも我々に加わってくれるでしょう。他方で、畠山重忠・稲毛重成は両人とも父が平氏に仕えているため、最も手強い敵となるでしょう。」というものでした。

 思案の末、頼朝の考えは①挙兵に決し、安達盛長を派遣して坂東武士に参加を募ることになります。中央では清盛が福原に遷都しておりましたが、これに同調しない公家らも少なからずおり、そのまま京に留まった者のなかには藤原定家もいました。定家は朝廷の権力が次第に名目化していった時期に歌人として重きをなし、やがて北関東の名族・宇都宮家の蓮生との関わりが小倉百人一首を生むこととなりました。

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北条氏居館跡付近から
2010年8月1日

 8月2日、大庭景親が東国鎮撫のため京から東下します。同月17日、頼朝は三島神社の例祭の日を狙って挙兵し、佐々木盛綱が頼朝の恋敵であった山木兼隆を討ち取りました。その間、政子は伊豆山に隠れて頼朝のことを心配していたといいます。

 政子と束の間の戦勝祝いをした後、頼朝は同月20日に相模に向けて出陣します。同月22日には三浦勢も三浦を出陣して頼朝と合流するために西に向かいます。

 しかし、三浦勢が河川の増水によって西進できない間に、同月24日、石橋山の戦いが始まってしまいます。この時、頼朝は令旨を源氏の白旗に結いつけるとともに、以仁王が自らの陣営にいるかのように偽装しています。そして、東国支配権が認められたと称して命令を発しているのです。流人の頼朝なりの精一杯の大義名分でしょう。

 とはいえ、肝心の兵力が整っていなかったために敗れ、頼朝は箱根山に潜伏した後、同月28日に真鶴から安房に逃れるのです。なお、石橋山の戦いには、真偽はともかくとして、平氏方として参戦していた梶原景時が頼朝を見逃したという逸話も残っています。

 その頃、由比ヶ浜では石橋山の戦いに間に合わなかった者同士で戦闘になっています。 同月26日、畠山重忠勢は三浦勢を衣笠城まで追い詰め、翌27日に落城しました。三浦義澄・和田義盛らは夜に栗浜から安房へ逃れますが、三浦義明は「(河内)源氏再興の瞬間に立ち会えて嬉しい。自分は子孫のために城を枕に討死する」と述べて、1人で衣笠城に残って討死したと伝わります。

2009年5月31日
腹切松公園・三浦義明腹切松
(神奈川県横須賀市)

2009年3月15日
三浦海岸(神奈川県)

 栗浜から安房に向かった三浦勢は、真鶴から船出した頼朝らと海上で偶然合流します。この時、和田義盛は「平氏を倒したら、自分を侍のトップにしてくださいね!」と叫んで頼朝を激励したという逸話もあります。

 同月29日、安房に上陸した頼朝は、幼馴染みの安西景益に参上を促します。9月4日、頼朝のもとに参上した景益は、「このまま北上するのは危険だから、私の屋敷に入って、千葉常胤と上総介広常に迎えに来させましょう。」と提案して容れられました。

2009年3月16日
史蹟 源頼朝上陸地
(千葉県)

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 頼朝からの参加要請を受けた千葉常胤は、同月13日、下総目代邸(国府台か)を襲撃し、同日、頼朝も安房を出発して常胤のもとに向かいます。

 常胤はこの頃、頼義以来源氏と縁の深い鎌倉を本拠地とすることを頼朝に勧めています。鎌倉には頼義が創建した若宮だけでなく、義朝の館もありました。また、鎌倉は南は相模湾、他の三方は山に囲まれており、細い切り通しを通らなければ中心部に入れない天然の要害の地でした。後年、鎌倉を攻めた新田義貞は、このような鎌倉の地形に苦しめられることになるのです。

2012年6月26日
極楽寺坂切通
(神奈川県鎌倉市)

 同月17日、常胤は下総国府で頼朝を迎えます。この時、頼朝は「常胤をもって父となす」と述べたと伝わります。頼朝が常胤の進言に従い河岸に源氏の白旗を並べると、それを見た江戸・葛西の兵らが続々と集まってきたと伝わります。 同月19日、上総介広常も上総の兵を率いて頼朝のもとに参上しますが、頼朝は感謝するどころか広常の遅参を咎めたと伝わります。逸話としては、広常は遅参した自分に対する対応によって頼朝の器を判断し、場合によっては頼朝の首を平氏に献上してしまうつもりだったという話が残っていますが、ともに坂東平氏の流れをくむ両者は後に明暗が分かれることになります。

 総大将だけを見れば、伊勢平氏と河内源氏です。しかしながら、この時点で頼朝に与している千葉常胤・上総介広常・三浦一族らは、いずれも桓武平氏なのです。「源平の戦い」が「源氏と平氏の戦い」なのであれば、桓武平氏の面々が清和源氏に与するはずはありません。源平いずれの陣営に与するかは、坂東武士らの土地保全欲求や中央の平氏一門との政治的距離など諸要素の検討によって決まっていたのです。

 

 10月2日、頼朝一行は武蔵に入ります。武蔵国隅田で、小山朝光が母に伴われて頼朝と対面します。結城家の伝承を前提とすれば、父子の対面ということになります。さらに同月4日には、衣笠城を陥落させた畠山重忠や河越重頼らも長井の渡しで頼朝に帰順します。三浦家にとっては「義明の仇」ということになりますが、平維盛が鎮圧のために東進している状況下では敵にまわすべきではないと判断して帰順を認めています。

 同月6日、頼朝は帰順したばかりの畠山重忠を先陣として相模に入り、翌7日に鎌倉に入ります。この時は道中で戦闘はありませんでしたが、一般に、帰順したばかりの将は、その直後の戦闘で最もリスクの大きい最前線に立たされることが多いということができます。帰順が本心からなのか、それとも偽装投降にすぎないのか、その戦いぶりから忠誠心を測ることができますし、仮に帰順した将兵が戦闘で失われたとしても、帰順を認めた側からすれば元々いなかった人々にすぎませんから、大きな痛手にはならないからです。

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 『三国志演義』でも、中原を追われて荊州の劉表のもとに身を寄せた劉備は、劉表から曹操との関係で最前線となる新野の守りを任されており、その時期に諸葛亮を得ています。また、蜀の劉璋を攻めた際も、劉備に投降した馬超が先鋒として成都に迫っています。これらが史実かどうかよりも、むしろ『三国志演義』の作者がこのような道理を理解していたことに着目すべきでしょう。

 同月9日、大倉御所の建設が始まり、12日には源頼義が創建した若宮を大倉御所の西側、つまり、現在の鶴岡八幡宮の場所に移して源氏の氏神としました。以後、鶴岡八幡宮を都市計画の起点として「武家の都・鎌倉」が発展していくことになるのです。

2010年4月3日
大倉幕府跡
(神奈川県鎌倉市)

2009年3月20日
車窓からの甲府
(山梨県)

(3) 富士川の戦い

 10月16日、頼朝は東国鎮撫のために東下してきた平維盛らを迎撃するため鎌倉を出陣し、同月18日には黄瀬川宿に到着します。それに先立つ13日には、令旨を受けた甲斐源氏も駿河に向けて出陣するとともに、平維盛に使者を送っています。

 たとえ敵対していても互いに使者は殺害しないという暗黙のルールがあったのですが、維盛は甲斐源氏からの使者の首をはねてしまいます。これに激怒した甲斐源氏の軍勢は維盛の軍勢に向かっていきます。同月20日、甲斐源氏の気勢に驚いた水鳥が一斉に飛び立ち、さらに水鳥の羽音に驚いた平氏の軍勢も潰走してしまいました。これが富士川の戦いです。平正盛が源義親を討った時は「源氏から平氏へ」という印象を与えましたが、今度は平氏の失墜を印象づけることとなりました。

 翌21日、源義経が兄・頼朝のもとに参陣しています。黄瀬川の近くの八幡神社には、兄弟の対面の場となった対面石が残っています。なお、千葉常胤はこの戦いの際、相馬御厨を奪った藤原親盛の息子の親政を討ち取っています。

2009年3月22日
富士川
(静岡県)

 ここで、頼朝には余勢を駆って京に攻めのぼるという選択肢も一応あったはずです。しかし、千葉常胤らの献策を容れて、まずは東国の基礎固めを行うべく鎌倉に引き返しました。当時の坂東情勢は、河内源氏ながら京の平氏一門に近かった常陸の佐竹家が頼朝の挙兵に従わず、上野の新田義重も去就を明らかにしておらず、さらに信濃の木曽義仲の勢力も上野方面に張り出しつつありましたので、この状況を放置したまま京に攻めのぼるのは危険と判断したのでしょう。佐竹家の背後には奥州藤原氏も不気味に存在しているのです。それに、頼朝のもとに参集してからまだ日が浅い坂東の勢力が下手に京に近づくと、老獪な京の王朝貴族らの謀略によって弱体化させられかねません。白河院政期に、ことさら源氏の内紛を煽るかのような動きがあったことを思い出してください。

 結論としては、ここで鎌倉に引き返したことは正解だったといえるでしょう。この頃の西国は飢饉に見舞われており、翌年の京には餓死者の山ができていたのです。天災地変には状況を固定化する効果があり、動きたい者にとってはマイナスですが、動きたくない、あるいは動くべきでない者にとっては準備の余裕が生まれるという意味でプラスの効果が生じます。この時点の頼朝には、鎌倉という地の利、父祖以来の坂東武士との絆という人の和に加え、天の利も備わっていたといえるのではないでしょうか。

2008年9月7日
羅城門跡(京都市)

頼朝の挙兵から佐竹討伐まで

 他方、頼朝が鎌倉に引き返したことで、以後しばらくの間の源氏としての軍事行動はもっぱら木曽義仲が担うことになるのですが、義仲は天の利が備わっていないなかで京に入ったため、食糧の調達に苦しんだ末に現地調達によって人望を失い、やがて義経らによって討伐されることになるのです。食糧の現地調達は『孫子の兵法』からすれば理にかなっているとも思えますが、他方で孫武は「水に常形なし」とも述べています。

(4) 大磯での論功行賞

 同月23日、頼朝は鎌倉に戻る途中の大磯で論功行賞を行います。この時、鎌倉殿(頼朝)と御家人の間に御恩と奉公を通じた封建的主従関係が成立しました。つまり、御家人は鎌倉殿の命に従って奉公すれば、父祖以来の土地を安堵される(本領安堵)、そして、優れた働きを見せた者には従前の土地に加えて新たな恩賞が与えられる(新恩給付)という新たな武家社会が成立したのです。政治的な瞬間風速などで父祖以来の土地を失うことはなく、もしそのような危険が生じた場合には、鎌倉殿が守ってくれるわけです。これこそが、坂東武士たちが望んでいた世の中でした。

2010年3月15日
大磯町郷土資料館 旧吉田茂邸
(神奈川県)

2009年3月12日
金砂城址
(茨城県常陸太田市)

(5) 佐竹討伐

 同月27日、頼朝は鎌倉を出陣して、今度は常陸の佐竹討伐に向かいます。佐竹家は中央の平氏一門に近い立ち位置でしたから、頼朝の挙兵には冷淡な態度を示しました。それゆえ、討伐の対象となったのです。ただ、平治の乱後の政治的な瞬間風速に乗じて千葉常胤から相馬御厨を奪った源義宗は佐竹昌義の息子であることからすると、千葉家の働きかけがなかったか気になるところではあります。相馬御厨の喪失から佐竹討伐後の回復までの一連の流れは、千葉常胤の土地保全欲求によって矛盾なく説明できると考えますが、いかがでしょうか。

 11月4日、頼朝は佐竹家の金砂山城を攻めますが、佐竹家の追及をこれ以上続ければ奥州藤原氏との戦端を開きかねないとの判断から、深追いはしませんでした。とはいえ、この戦いで佐竹家から没収した土地は配下に与えられましたから、佐竹家の力を削いだことにはなります。そして、千葉常胤は佐竹討伐の果実として、ようやく相馬御厨を取り戻すことに成功したのです。なお、同じ頃、富士川で敗れた平維盛らが京に戻っており、あまりの惨めな負け方に清盛も激怒しています。

 同月17日、鎌倉に凱旋した頼朝は、和田義盛を侍所別当に任命しました。石橋山で敗れた後、船上から「侍のトップにしてくださいね!」と頼朝を激励したという逸話を思い出してください。それが事実なのであれば、頼朝は義盛との約束を守ったことになります。他方、虚構に過ぎないのであれば、和田が侍所別当に任命された事実を踏まえて、状況が落ち着いた後に誰かがそのようなエピソードを遡って創作したということになりましょう。後者のような発想は、歴史研究者の著作を読めば頻繁にでてきます。

2009年3月16日
野島埼灯台付近
(千葉県館山市)

2010年4月3日
若宮大路(神奈川県鎌倉市)

(6) 鎌倉に武家社会が成立

 12月12日、新造の大倉邸の移徒の儀が執り行われ、311人の御家人が出仕しました。ここに、従来の王朝の論理が通用しない治外法権的な武家社会が事実上成立したということができます。海側にあった源頼義創建の若宮を現在の鶴岡八幡宮の場所に移して源氏の氏神とするとともに、都市計画の起点としました。そして、その周囲には頼朝を支える御家人らの新居が建築されていきます。これ以降、京から見れば「辺境の一地方都市」にすぎなかった鎌倉が、「東国一の武家の都」へと発展していくことになるのです。

 また、上野で去就を明らかにせず蚊帳の外に置かれていた新田義重も、このタイミングで鎌倉に出仕しています。佐竹に制裁を加えるとともに新田も傘下に収めた頼朝は、坂東をほぼ平定したことになります。ただ、ともに河内源氏の流れでありながら頼朝の挙兵の際に足並みを乱した佐竹家と新田家は、鎌倉期を通じて弱い立場に置かれることとなりました。

 他方、新田家と同族ながらも頼朝の挙兵の際にいち早く馳せ参じた足利家は、鎌倉期はおおむね安泰というように明暗が分かれました。そして、約150年後にはこの足利家と新田家が、鎌倉幕府を東西からほぼ同時に滅ぼすことになるのです。

2018年9月23日
渡良瀬橋
(栃木県足利市)

 坂東において鎌倉幕府が事実上の成立をみた頃、畿内では平重衡らが清盛の指示により以仁王を支援した園城寺を焼き討ちにしています。さらに、この年の暮れ頃には、重衡は同じく反平氏の姿勢を示していた興福寺や東大寺も焼き払っています。これにより、平氏は法敵とみなされることになりました。この頃になると、平氏の地盤の四国・九州でも反平氏の動きが活発になり、本拠地の伊勢にも熊野武士が侵攻しつつありました。

 寺社の焼き討ちといえば織田信長のイメージが強いかもしれませんが、信長の他にこうして伊勢平氏も行なっているのです。それなのに信長ばかりが非難されるのは、信長の人気の高さの裏返しといえましょう。たとえ信仰を語っていても、経済的基盤や僧兵などの実力部隊を抱えていれば、時の権力者の目には少なくとも潜在的には世俗の政治勢力と映ります。その時に、双六をしながら愚痴をこぼすのか、焼き討ちにするのかは、その人物の立場や政治情勢にもよりましょう。なお、親鸞が出家・得度したのはこの頃のことです。