鎌倉期1 ~平氏に対する反発の高まり~

      ひかりのテーマ

特定商取引法に基づく表記

20 頼朝の雌伏

 平治の乱後、かろうじて命を救われた源頼朝は、乱の翌年の1160年、伊豆・蛭ケ島に配流されました。この時、頼朝は14歳です。この頃の頼朝は、頼朝の伊豆配流に伴い武蔵国比企郡に移り住んだ乳母の比企尼から仕送りを受けて生活しており、また、比企尼の3人の婿らが頼朝の身の周りの世話をしています。配流先では、読経に努めて一族の菩提を弔ったり、つながりのある坂東武士らと狩りを楽しんだりしていたほか、何人かの女性との接触が伝承も含めて確認されています。

 まずは、北条時政の娘の政子との間に長女・大姫が生まれています。伊豆北条氏は、かつて平忠常の乱の後に源頼義を婿にとった平直方の末裔ですから、河内源氏と桓武平氏貞盛流の末裔が再び結ばれたことになります。そして、この夫婦が向こう半世紀の間、我が国の政治において中心的役割を担うことになるのです。

 また、頼朝は伊東祐親の娘とも結ばれて、2人の間には千鶴が生まれましたが、「謀反人」が娘を孕ませたことを知った祐親は激怒して、頼朝を殺害しようと追いまわしました。これに対して、北条時政は世間を憚りながらも頼朝の「心の勢い」に期待するところがあって、政子との仲を容認していたようです。娘を思う父親としては、義理の息子の人格や能力に関心を示すことは当然ですが、今後の状況如何によっては河内源氏の末裔を担いで自家の勢力を拡大できるかもしれないといった打算があった可能性も指摘されています。

 さらに、良橋太郎入道なる人物の娘の亀の前とも、伊豆にいた頃から何らかの接触があったと思われます。後年、鎌倉に入った頼朝は亀の前を鎌倉に呼び寄せて寵愛するのですが、このことが後に政子や義父・時政との間に摩擦を生じることになります。

 なお、伝承レベルの話としては、結城家の伝承によると、頼朝の乳母をしていた寒河尼と頼朝の間に男児が生まれ、この子が結城家初代・朝光であるという話も残っています。ただ、ここで重要なことは、朝光が本当に頼朝の息子だったかではなく、鎌倉幕府を創始した源頼朝の息子を初代にもつとされることが、その家にとってプラスに働くかどうかでしょう。

 この先も「Aの末裔とされるα」という話が何度もでてきますが、その際は「本当に末裔なのか?」だけに注目するのではなく、「当時はAの末裔と称することが、その家による支配に正当性を付与する効果があったのだな、Aにはそれだけのブランド力があったのだな」という受け止め方をしておけばよいでしょう。

21 平氏一門の急激な出世

平治の乱に勝利した平清盛とその一族は急激に出世していきます。1160年6月、清盛は武士としては初めて公卿に列せられます。1164年には三十三間堂を造営し、1167年2月には従一位・太政大臣となっています。つまり、清盛は伊勢平氏の棟梁から王朝貴族の頂点にまで登りつめたのです。

また、清盛の妻の時子の妹は後白河法皇に嫁いでいるほか、1171年には時子との間の娘の徳子(後の建礼門院)は後白河法皇の養女の立場から高倉天皇に嫁いでいます。さらに、徳子の妹の盛子は摂関家の藤原基実にも嫁いでおり、天皇家・摂関家との姻戚関係も築いています。

 

2009年2月15日
柳田碑(香川県)

他方、この時期に保元の乱の敗者側の人物がこの世を去っています。まず、1162年6月18日、藤原忠実が京の知足院で死去しています。また、1164年8月には、讃岐に配流されていた崇徳上皇も死去しています。反面、忠実が死去した年には藤原定家が、崇徳上皇が死去した年には畠山重忠が生まれており、まさに時代が変わろうとしていました。歌道は、鎌倉幕府に政治の実権を奪われることになる王朝貴族たちにとっては、自分たちに残された最後の権威の源泉だったのです。

1168年、出家して「入道相国」(出家した太政大臣の意)となった清盛は、後白河法皇と相談のうえで憲仁親王を即位させました。高倉天皇の即位により伊勢平氏が外戚の地位を獲得し、あとは天皇と徳子の間に生まれた皇子が即位するのを待つばかりです。つまり、平清盛は武家の立場にありながら、従来型の王朝の論理の枠内で、藤原摂関家の手法を踏襲することによって権力を獲得・維持しようとしたのです。ただ、高倉天皇の即位の頃を境に、清盛と後白河法皇の協調関係は終了します。

 
 

清盛は1160年8月の初参拝以来、安芸の厳島神社に対する信仰心を強めています。今熊野神社を創建した後白河法皇の影響もあってか、清盛は熊野信仰にも関心を示していますから、厳島信仰も信仰心にでたものと思われます。しかし、清盛は平氏一門を率いる立場にありますから、清盛がたびたび厳島に赴いたり、社殿の大改築に協力したことは、個人的な信仰心というよりは平氏の氏神づくりの一環と理解することができます。藤原摂関家における春日大社のような位置づけでしょうか。

22 平氏に対する反感

 

 1170年、潮目が変わる事件がありました。(牛車事件)。この事件をきっかけとして、中央の公卿らの間にも平氏に対する反感が渦巻いていくのです。ただ、「おごる平家は久しからず」的なイメージとともに有名な「平氏(この一門)にあらずんば人にあらず」という言葉は、あくまでも平氏一門と結託していた大納言・時忠の大放言であって、平姓の人物の言葉ではありません。もっとも、記録に残っていないだけかもしれませんが。

 なお、この年、奥州の藤原秀衡が鎮守府将軍に任じられています。鎮守府将軍とは奥州の蝦夷を抑える立場ですから、そのポストに抑えられる側と認識されていた奥州藤原氏が就任したことに京の公家たちは驚愕しました。奥州藤原氏は、いわゆる「源平の戦い」の間、実際には大きく動くことはありませんでしたが、平氏・源氏に次ぐいわば第3勢力として、その動向が世人の注目を集めていたのです。

1177年6月、打倒平氏の陰謀が露見します。鹿ヶ谷の変と呼ばれる出来事で、本当に平氏を討つことを内容とする具体的な謀議があったかはともかくとして、西光(藤原師光)は処刑、藤原成親は殺害され、俊寛は鬼界ヶ島に配流されました。安和の変の際の密告者は多田満仲でしたが、この時の密告者も多田行綱でした。より重要なことは、この事件の背後に後白河法皇がいると清盛に認識されたことです。高倉天皇の即位以来、後白河法皇との協調関係に綻びが生じていましたが、両者の関係はいよいよ険悪なものとなっていきました。

2008年3月31日
鹿ケ谷・俊寛僧都旧跡道(京都府京都市左京区)

この時、多々良弘盛という人物も下野に配流されています。多々良家は、弘盛の頃から文書において「大内介」という表現が見られるようになりますが、この多々良家が後に周防大内氏となるのです。約400年後、日本を訪れたフランシスコ・ザビエルは、山口で大内義隆からキリスト教の布教の許可を得ることになります。

 中原基兼は奥州の藤原秀衡のもとへ亡命しています。中央の論理からは「罪人」であっても、平泉には「平泉の論理」があるという認識に基づいた行動といえるでしょう。そして、後に兄・頼朝に追われる身となった義経も、基兼と同様に平泉へ亡命することになるのです。

 鹿ヶ谷の変があった1177年には、摂関家では藤原師長が太政大臣になっていますが、かつての存在感はありません。また、伊豆ではこの頃に北条政子が主筋の山木兼隆ではなく流人の頼朝と結婚しています。なお、これらの少し前の1173年には浄土真宗を興した親鸞が日野で生まれており、1175年には法然が浄土宗を興しています。

 

23 平清盛のクーデター

 

 1179年6月、摂関家の基実に嫁いでいた盛子が死去します。後白河法皇は、このタイミングで摂関家の氏長者領を奪って院領にしてしまいました。平清盛に対する明白な敵対行動といえましょう。さらに、同年8月に平重盛が死去した際には、重盛の所領を没収してしまいました。

 同年11月、清盛は福原から上洛してクーデターを敢行し、後白河法皇を幽閉してその院政を停止してしまいました。また、関白・基房ら反平氏公卿を解職するとともに、基通を関白に就けるなど親平氏公卿を登用しました。

1180年2月、清盛は高倉天皇を退位させて安徳天皇を即位させました。これにより、清盛は天皇の外祖父の地位につくこととなりました。藤原摂関家の手法としては一応の完結をみたわけですが、巷では清盛の一連の強引な手法に対する反感が高まっており、京では三寺蜂起の噂も流れておりました。