2011年1月8日付論文(抜粋)

      水槽と夜景 - 甘茶の音楽工房

 

                         【増補・補訂版】

 

プライバシー剥奪の経緯と今日の状況

 

~vodafoneCMの罠~

 

                               2011年1月8日

                                Home省出版会

                         代表取締役会長 岩田 崇一郎

                                                  (従業員ゼロ)

 

 2011年現在、私は法科大学院に通学している。傍から見れば受験勉強が長引いているだけのように見えるかもしれないが、今日まで自分の人生を守り続けるためには大変な労力を必要とした。ホームページ開設から今日に至るまで、何となく7年間経過したのではなく、幾多の困難な状況を乗り越え、数々の罠をかいくぐってきたことをご理解いただきたいのである。

 

 

 【目次】

 

第1  中目黒の夜

第2  伏線としての「事件化」のほのめかし

第3  ルビコン川渡河

第4  「水に落ちた犬」(片山虎之助氏)

第5  本件の本質

第6  いわゆる「ある・ない論争」とは何か

第7  誤魔化し・すり替えに終始

第8  「ある・ない論争」の意味と変質

第9  悪しき完璧主義

第10  プライバシー侵害の事後的な正当化およびseaside storyの信憑性の弾劾

終章  人間は変わっていない

巻末資料(省略)

 

第1 中目黒の夜

 資料①から③は、2005年にボーダフォンが開始した「LOVE定額」というサービスに関する単一の記事を筆者が加工したものである。2005年は、3月のホリエモン騒動以降、バラエテイ―番組、CM、夕方のニュース、新聞広告等々、公共の電波や紙面のあちこちから私を持ち上げる動きが見られた年であった(資料④参照)。そのような動きの「仕上げ」の意味であろうか、2005年10月、資料③の画像のような11月1日までに、あなたの一番愛している人をひとり決めておいてください」と書かれたボードを両手に抱えた男性が、CMの始まりから終りまで身動き一つしない奇妙なボーダフォンCMが流れ始めた。男性は顔の上半分は見えず、口元が見えるのみ。そして、その口元はCM終了の直前に不敵にニヤリと笑うという流れであった。

 この頃、私は中学・高校時代の同級生でマスコミ関係の職に就いていた人物と、久し振りに再会する予定となっていた。その再会の約束の日がまさに11月1日ではなかったか。そこまではっきりとは覚えていないが、仮に違ったとしても、11月1日の前後2日以上も遠い日ではないと記憶している。私は「女性を餌にして何らかの取引をもちかけられるのではないか」との疑いを抱きながらも、数年ぶりの同級生との再会ということもあり、その話題には自分からは触れなかった。しかし、彼は私との宴も終盤に差しかかった頃に、どういう文脈だったかは忘れたが、やはり好きな女性が誰かを私に聞いてきたのだ。私は無言を貫いた。場所は、東急東横線中目黒駅近くの線路下の飲み屋であった(資料⑤参照)。どういう流れで彼が私に聞いたかは、後で思い出すこともできないような、無理矢理な感じの流れであったのだろう。ただ、ボーダフォンCMに既に接していた私としては、「同級生との再会」という名目でそのような使命を彼が帯びている可能性を否定できなかったため、その点について注意を怠らずに彼との会話を続けた。やがて、想定していた通りの展開となったことから、5年以上経ってもこの日の記憶は未だ色褪せていない。

 

第2 伏線としての「事件化」のほのめかし

 このCMに先立ち、資料①の男性タレントが横を向いた形で画面に現れ、次いで視聴者の側に不敵に睨みつけるような顔を向けて、「これは事件です」と述べるCMも流れていた。もちろん、ボーダフォンである。その男性タレントは同CM内で、「これは事件です」を繰り返し述べていた。要するに、私のホームページの影響力なるものが大きくなりすぎたと彼らが認識したことに伴い、何らかの形で「事件化」することに決めた、あるいは、このままだと「事件化」されることになるよというメッセージだったのだろう。「何らかの形で」という部分がポイントである。この点を「事前に」具体的に検討することなく曖昧なままに残したことが、以後数年間にもわたり彼らが迷走を続ける原因となった。彼らはこの失策を覆い隠すために「事後的な」人格攻撃やいわゆる「ある・ない論争」に走ることになるのだが、詳細は後述する。このCMに引き続き、「女性を1人…」バージョンのCMが流れ始めたことを併せ考えれば、「事件化されたくなければ、我々の要求を全てのめ。そのかわり、お前の気に入った女性を1人あてがってやる」というメッセージと合理的に理解できよう。既に述べた通り、実際にこのように理解する上での微証も同級生とのやり取りの中に存在するし、他にもこのような理解を裏付け得る事実は数多く存在する。ちなみに、当時私が使用していた携帯電話はボーダフォンである。もっとも、彼らは「もう5年も前の話だから覚えていない」とか、「そのような意図は全くなく、すべて岩田の妄想である」みたいにとぼけるのであろう。

 

第3 ルビコン川渡河

 2005年下半期頃だったと記憶しているが、テレビでは某製造業大手のCMの中で某有名女優が「プラズマにいらっしゃい」という台詞を述べていた(資料⑥参照)。既に述べたように、この年は公共の電波等を流用して私を持ち上げる動きが盛んな年であった。そのような動きと併せ考えてみると、「『天才』云々と持ち上げておいて岩田をその気にさせる、そして、美しい女性に『いらっしゃい』と言わせて、岩田に『自分はこれほどまで彼らに必要とされている』と思わせ、勘違いした岩田が『どうも、天才が皆さんに会いに来てあげましたよ(笑)』みたいに『ヒョコヒョコ』(福沢朗氏)とやってきたところを捕えて、態度を一変させて自分達の要求を押しつける」という彼らのシナリオが臭ってくる。このような理解を裏付ける微証として、私が「いらっしゃい」CMを無視し続けていた頃、アナウンサーの福沢朗氏が生放送の中で、番組内での発言という体裁をとりつつ「普通ならヒョコヒョコ来ますって」とコメントしていた。

 他方、同年11月頃、私は読売新聞をほぼ毎日読んでいたのだが、同紙のコラム等から私に対する働きかけの雰囲気を感じるようになった(資料⑦参照)。要するに、「責任をとれ」・「出てこい」ということなのだが、やはり11月下旬頃だったであろうか、あるマスコミ人がテレビの生放送中に、その番組を私が見ていることを知ってか、「あと○○日しかない」みたいなシグナルを私に送っているのも目撃した。それが誰かは今は伏せておく。今になって思えば、先のコラムの内容と照らし合わせて、「あと○○日以内に出てこい。さもなくば...」みたいなメッセージと理解できなくもない。しかし、当時の私としてはその意味がわからなかった。ほどなくして、私に対するプライバシー剥奪処分が実行に移されたのである。これ以降、今日に至るまでの困難を思えば、あまりにも軽率な判断であったと言わざるを得まい。

 私が11月上旬に再会した同級生は、あの日の後(中目黒の夜から1週間以内と記憶)、自身のブログ上で「過信してませんか?」と私を非難する記事をアップしていた。工作活動が失敗に終わり、誰かからお叱りでも受けたのだろうか。この年、夕方のニュースの生放送中に私と権力者側との間をとりもつ努力(懐柔の一種であろうが)をしていた女性アナウンサーは、それから5年後の2010年7月に飛び降り自殺をした(資料⑧参照)。彼女は私の出身大学の1年先輩にあたる。動機は何だったのか、彼女に何があったのかは私には知る術はないが、私としては何とも言えない。

第4 「水に落ちた犬」(片山虎之助氏)

 このように、2005年12月(推測)の時点で、何らの事前告知もなされないままプライバシー剥奪という重大な人権侵害行為がなされることとなった。確かに、「いらっしゃい」CM等はあったが、ここで問題にしているのは私に対する正式な事前告知の有無である。このような、公共の電波等による不特定多数人向けの放送では、後で何とでもシラをきることができるので、このCM等の存在を理由に「事前告知をしたのに岩田が逃げた」云々と言われるのは心外である。それまで、私は自身のホームページ上で過去の失敗談を積極的に「ありのまま」にご紹介してきたのだが、読者らの中には、自分達との関係でも岩田が「失敗」したことにしたいと考える人々がいることをひしひしと感じるようになっていた。そのような状況の下、私の「失敗」・「敗北」等といった結論の方が、根拠事実・理由も示されないまま先に決められたのである。そして、一方的な結論先取りによって権力者の後ろ盾を得たことで、私に対してはどのような言動をとっても許されるというような勘違いが世間に生じ、従前にも増して私に対する言動は無責任の度合いを高めていった。

 まず、様々な業界の人間が自分達に都合の良い筋書きに現実を引き寄せようと我田引水的なフィクションを創作し続けることになる。例えば、芸能界からは「シロウト」の私に対する上から目線を維持するために「若さゆえの失敗」とか「身から出た錆」みたいな話にもっていく動きが見られた(資料⑨参照)。法曹界からは「余計なことはしない方が賢いのに、未熟な岩田は喋り過ぎて失敗した」みたいな話にもっていき、受験生に出し抜かれた悔しさを紛らわせる動きも見られた(資料⑩参照)。

 次に、私の私生活を覗き見て、様々な情報や技術を収奪したり、仕事上のアイデアを得たりしていった。さながら、死肉に群がるハゲタカのようでもある。マスコミ関係の人物が私の私生活をCMやドラマのネタに使うなんてまだ良い方で(資料⑪参照)、なかには、私の家庭内の事情や健康状態といったセンシテイブ情報にまで踏み込んでくる人物もいて呆れ果てた。アカデミックな世界にも、私の文章と酷似した内容の記事を「自己の仕事」として発表する人物が何人かいた。彼らは私から収奪したものを自分達のキャリアに活かす反面、私という人間は「悪人」・「未熟」等のレッテルを貼られ、どんなに頑張っても報われない「残念な人」という話にもっていく(資料⑫参照)。

 さらに、マスコミ業界の女性の中には、電波やブログを通じて私に「帰ってくる」よう「婚活」という名の「説得工作」を続ける女性もいた(資料⑬)。2005年末には「ヒョコヒョコ」と出ていかなかった私ではあるが、あの業界の女性らには、自分達が「説得工作」を続けていれば、やがて私が人生計画を変更して彼女らの世界に「帰って来てくれる」だろうという「期待」があったようである。「帰ってくる」という言葉をあえて用いているのは、どうも彼女らの認識の上では、十代の終わり頃に私が某事務所に在籍してチョイ役ながらテレビ出演したことがあるため、「かつての仲間」のように見られていたと思われるためである。当時から私のもとには、「いずれ岩田は我々の世界に戻ってくるさ」というような極めて楽観的な見通しが漏れ聞こえて来たのであった。

 しかし、彼らの見通しに反して私はいつまで経っても受験界に留まり続け、しかも、2007年の短答式試験不合格に直面してもなお諦めずに法科大学院に入学してしまった。これで、最低3年間は「帰ってこない」ことになったわけだが、彼らからすれば、「期待」を「裏切られた」と感じる向きもあったようである(資料⑭参照)。しかし、誤った認識に基づいた一方的な「期待」に反しただけで「裏切者」呼ばわりされるいわれはあるまい。私は複数年単位で人生計画を練って行動しているので、いきなり他の業界へ移れなんて話を持ち込まれても、その内容や条件如何にかかわらず、容易に計画変更などできるものではない。そのため、私に対する「説得工作」はその内容や巧拙にかかわらず、初めから成功の見込みなどなかったであろう。実際、私は彼女らの将来を心配したことはあっても、彼女らの「説得」によって動揺したことなどただの一度もない。彼ら彼女らは、私の事情など一切考慮することなく、権力者の後ろ盾の下、次から次へと身勝手な要求を私に突き付け続けてきたのである。わかっているとは思うが、このような言動が私以外の人物との関係ではしばしばまかり通ってきたことは、決して彼ら彼女ら自身の実力によるものではないであろう。彼らの私に対する誤った認識が、「岩田なら何をしても許してくれるさ」という甘えにつながり、ひいては本件の恣意的処分につながったとすれば、かつての僅かな接点もかえって有害であったといえよう。彼ら彼女らは、自分で自分の首を絞めている。

 このような動きと並行して、我が国の支配者層の人々は私に対する「責任追及」なるものを声高に展開していたし(資料⑮参照)、このような風潮に私が抗議すれば「言い訳」というレッテルを貼られてしまった。また、京都では講義その他の体裁をとりつつ行われた妨害工作・世論工作によって、私の学習環境は深刻な影響を受け、結局、せっかく入学したのに司法試験受験生としては何らの成果もあげることなく横浜に帰らざるを得なくなった(資料⑯参照)。権力者のお墨付きを得た人々は、自分達の言動について将来責任を問われる可能性などに考えは及んでいなかったのであろう。しかし、このようなやりたい放題は、権力者による結論先取りによって生じた当時のムードの反映にすぎず、何ら理論的根拠に支えられたものではない。時間の経過と私の努力の積み重ねによって、将来そのようなムードが後退したとすれば、彼らの無軌道な足跡が残って、やがてそれらが彼ら自身に跳ね返っていくという性質のものであった。

 

第5 本件の本質

 あれから5年の月日を経た今日においても、彼らは私に対する「処分」の理由を何ら具体的に示すことができないでいるが、このような事実関係を踏まえれば、理由など示せるわけがないと私は思っている。当時から、私のいつのどの行為がどの規範との関係でどのような理由に基づいてどの程度の非難に値するのかなど具体的に検討するような雰囲気は全く伝わってきておらず、ただ単に影響力なるものの大きさゆえに何らかの口実を創って「事件化」するという彼らの思惑ばかりが漏れ聞こえてきたのだ(資料⑰参照)。そういうのを、巷では「恣意」と呼ぶし、もはや「政治色」を拭えない。

第6 いわゆる「ある・ない論争」とは何か

1 「ある・ない論争」のレトリック

 このような事実関係を調べることすらせずに、法律家らが私に対する嫉妬心を背景にして、「岩田潰し」という「結論先にありき」の発想に基づき、自分達に都合の良い「事実関係」なるものを創作した上で、「法律論」の体裁を無理矢理整えて法律を知らない世間に対して「あるか?ないか?」という愚問を発する。そして、あたかも「アリ」か「ナシ」かの「わかりやすい」二者択一によって本件のすべてが解決するかのような錯覚を世間に生じさせ、これによって処分の具体的理由や処分自体の人権侵害性を何ら合理的に説明できない人々の弱点を覆い隠そうとしたというのが事の真相である。つまり、「法律論の体裁をとった政治的な岩田潰し」である。

2 法律論とは何か

 本来、法律論というのは、法規範が規定する要件に該当する事実があるかを証拠によって認定し、仮にそれが認定できるのであれば、法規範が定めた通りの法律効果が発生するという思考過程をたどる。そして、要件の認定作業は証拠等の客観的資料に基づいて裁判官の自由心証に委ねられるのであり、基本的には立法・行政といった他の国家権力の意向や民意を反映すべき要請はない。「裁判官の独立」という言葉は多くの方が公民の授業等で耳にしたことがあろう。たとえ社会の大多数が右を向いていたとしても、多数決原理が支配する政治の世界で救済されない少数者の人権侵害を救済するために、「人権保障の最後の砦」、いわば「駆け込み寺」的な立場から司法が理性を発揮しなければならず、そのためには、他の国家権力や社会的権力からの圧力を遮断して、法と良心に従って左と言わなければならない場合もある、それでこそ「法の支配」の理念が達成される...云々と、法科大学院の公法の教員であれば学生たちに教えているはずである。

3 法律論からの逸脱

 しかし、本件を見るに、多くの法律家らは、どうやら政治およびこれに従属する支配者層の「岩田潰し」という思惑に追随しているだけのように見える。そもそも、本件においては法治国家の基本的ルールからの逸脱が顕著である。先に彼らによる本件処分の恣意性を明確にするために「理由不備」という瑕疵を指摘したが、これは理由さえ備われば本件のようなプライバシーを全面的に剥奪する処分も許容されるという意味ではない。我が国は法治国家であるところ、法律論は要件・効果によって成り立っている。我が国の法制度上、「○○という場合において相当と認めるときは(要件)、私生活を覗き見ることができる(効果)」というような条文はどこにも存在しない。しかるに、本件においては、処分の具体的理由を示して要件充足の判断をするというプロセスを経ていないばかりか、いかなる法も認めていない私生活の全面的な覗き見という効果をも生じさせており、法治国家の建前からの逸脱が顕著である。

4 「法律論」の登場

 このように、彼らによる処分はルール無視のやりたい放題といった状況なのだが、どういうわけか私の状況を不利にする方向では「法律論」がやたらと活躍するのである。私が表面化していない過去の事実を喋れば「一方当事者の主張にすぎないから信用できない」と言ってみたり、私に有利な話についてのみ厳格に証拠による認定を要求したり、挙句の果ては「えせ法律論としてのある・ない論争」という茶番の設定である。

(1) 真に法律論として「ナシ」と結論付けられた場合、それは名誉毀損罪の成立要件を充足したということだから、私に名誉毀損罪が成立し、刑法230条に規定されている通り、「3年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金」という国家刑罰権の発生という法律効果が生じることになる(資料⑱参照)。逆に言えば、「ナシ」と結論付けられたとしても、それ以外の法的効果は生じないのであって、本件処分の理由をいつまで経っても明らかにできないことや、本件処分に伴う人格権侵害を何ら正当化することはできないのである。それなのに、あたかもこのような二者択一によって、「ナシ→岩田の敗北→理由不備もプライバシー侵害も正当化」という流れで本件のすべてが解決するかのように世間をミスリードしてきたのである。そして、迷走を続けている間に、「3年以下の懲役…」という同罪の法定刑を超える「5年間のプライバシー全面剥奪」という著しい不利益が何らの法律上の根拠もなく私に加えられ、しかもいつ終わるかもわからないのである。これがまず一点。

(2) このような問題設定に対して私が抗議すると、しばしば「潔白と言うのであれば自ら証明せよ」という誤魔化しを浴びせかけてきた。しかし、ホームページ開設から今日に至るまで約7年間の間に、私は数えきれないほどの言動を繰り返してきているのであり、「問題行為」なるものがあったとされる時期や内容すら明確に示されないまま単に「潔白は自ら証明せよ」と言われては、私としては過去7年間のあらゆる言動について「潔白」なるものを証明しなければならなくなるが、それは不可能というものである。彼らは、不可能を承知でこのような誤魔化しを言っているのであろう。しかし、本気で法律論をやるというのであれば、まずは彼ら自身が私の「問題行為」なるものを具体的に特定することが出発点なのであり、それを飛ばして「潔白なら…」みたいな話がでてくるのはおかしい。「問題行為」を具体的に特定するのは彼らの責務なのである。これが二点目。

(3) 彼ら自身が「問題行為」なるものを特定しない限り、そもそも「アリ」とか「ナシ」とかいった話はでてこないはずである。再び刑法230条1項をご覧いただきたい。「公然」・「人の名誉」・「毀損」等といった文言が並んでいるが、これらが名誉毀損罪の要件である。そして、これらの文言の具体的な意味内容を解釈によって確定する。その結果、法律の条文から犯罪成立要件として何が必要かが導き出される。それを我々の世界では構成要件と呼んでいる。構成要件に該当すれば通常は犯罪が成立するが、当該事案においては犯罪を成立させるべきではないという特殊事情があれば、例外的に犯罪不成立となる。刑法230条1項から導かれる名誉毀損罪の構成要件を充足すれば通常は同罪が成立するが、「真実であることの証明」(刑法230条の21項)に成功すれば、例外的に違法性が阻却されて同罪は成立しない。また、「真実であることの証明」に失敗した場合であっても、真実であると信じたことについて「相当の理由」がある場合には同罪の故意が認められず、やはり例外的に同罪不成立となる(通説)。この、「相当の理由があるか?ないか?」という枠組みを、「問題行為」なるものを具体的に特定しないまま、「岩田潰し」という政治的思惑に利用できる形に変容させて裁判所の外に持ち出したのが「えせ法律論としてのある・ない論争」なのである。私の行為のうちのどれが非難の対象となっているのかを特定しなければそもそも構成要件を充足するかの判断すらできないため、その先の例外の話もでてくるはずがない。それなのに、その先の「ある・ない」という例外の話だけが聞こえてくるのはおかしい。これが三点目。要するに、「岩田潰し」に利用できる話だけのパッチワークなのである。なぜ非難の対象を特定できないのか。それは、そもそも本件プライバシー剥奪処分が、事前に具体的理由を検討するような姿勢のない単なる恣意的処分であったことと関連していよう。

(4) 真実であると信じたことについて「相当の理由があるか?ないか?」の判断は、実な資料・根拠に基づいて真実であると信じたかどうかによる。そのような資料があれば真実と考えるのもやむを得ないため、故意を欠き名誉毀損罪は成立しないというわけだ。そうであれば、本来「あるか?ないか?」という話をする前提として、私がどのような資料に基づいて記事(未だ特定されていないのであるが)を作成したかを確定する必要があるはずであろう。それなのに、私の側の事情を調べもせずに初めから法律家工作員らが「ナシ」と断定しているのは一体どういうことか。また、世間がプライバシー侵害を手段として集めた「確実な資料」とは関係のない表面上の情報をもとに「アリ」とか「ナシ」とか言っているのは、どのように理解すればよいのか。それらはもはや本来の法律論ではなく、後述のように法律論の枠組みだけを借用した単なる人気投票であり(第8参照)、そのような土俵は初めから「岩田潰し」という政治的意図を実現するための手段にすぎないのである。これが四点目。本当に世間を欺いていたのは誰だったのか。

(5) 仮に彼らが私の「問題行動」なるものを具体的に特定して真の法律論のスタートボタンを押したとしても、本件において私に名誉毀損罪を成立させるためには、前提として、「通常の名誉毀損事件における最高裁判所の判例法理は、公共の電波や広告等による恫喝が繰り返されていた本件事実関係(資料⑲参照)の下においても妥当する」という論理を一段かませなければ、本件事案の特殊性を捨象した乱暴な判断との誹りを免れまい。巷間言われている「ある・ない論争」はこの点への配慮を欠いており論理の飛躍がある。これが五点目。

(6)これらの話を論理の観点からもう一度整理すると、

① 名誉毀損罪に関する最高裁判所の判例法理は本件事実関係の下においても妥当すると解した上で、

② 訴追側が私の犯罪行為を具体的に特定し、

③ その行為が名誉毀損罪の構成要件を充足し、故意の有無という話にたどり着き、

④ 私が記事を作成する際に使用した資料が確定され、真実と信じたことについて相当の理由はないと判断されて名誉毀損罪が成立し、

⑤ 「3年以下の懲役…」という同条所定の法律効果が発生する

というのであれば、法律論として一つの筋の通し方といえよう。しかるに、本件の「ある・ない論争」においては、

① 恫喝等の特殊事情に配慮していない論理の飛躍がある、

② 訴追側が「犯罪行為」を具体的に特定することなく、「一線をこえた」等というレッテルや「潔白と言うなら…」等という誤魔化しに終始している、

③ 「犯罪行為」を特定していないから構成要件該当性の判断すらできず、したがってその先の「アリ」・「ナシ」という話がでてくるはずがない、

④ それなのに、いつの間にか「あるか?ないか?」という土俵が設定され、しかも、私が使用した資料が何かを調べることもせずに「ナシ」という結論だけが世間を駆け巡っている、

⑤ 「3年以下の懲役…」という同条所定の法律効果を超えて、本件処分の理由不備やプライバシー剥奪の人権侵害性までも正当化しようとしている

というように、要件の面でも効果の面でも誤魔化しを重ねているのだ。

 要するに、「ある・ない論争」自体が「岩田潰し」という政治的意図に出た問題設定であり、その周辺の「法律論」に関しても同様、そして、それらの担い手としての「法律家」も「中立公平な第三者」ではなく、「専門家」の権威を背景にして世論を私に不利な方向へ誘導しようとする「法律家工作員」なのである。裁判所で法律論を展開する代わりに、裁判所の外で「法律論」を展開したわけである。

 

5 法律論が可能か

 そもそも、本件で真の法律論を展開することができるのかという問題もあろう。名誉毀損罪の公訴時効は3年であり(資料⑳参照)、私に対するプライバシー剥奪処分が2005年末になされたと考えられることからすれば、本件処分以前の私の言動を理由に同罪で起訴することはできない。公訴時効が完成しているのである。また、その頃には電波等を利用した恫喝がなされており、通常の名誉毀損事案とは異なる特殊性もある(資料⑲参照)。他方、本件処分以後の私の言動を理由に同罪で起訴することができるだろうか。理由すら示さずに何ら法が認めないプライバシー剥奪処分を一方的に行うという無法を犯しながら、それに抗議する私の言動の中から「使えそうなもの」を拾い集めて、彼らの行為の問題性に比べれば非難の度合いが相当に落ちる名誉毀損罪で私の法的責任を問うというのは、いかにも苦しいであろう。

 このような状況にあることや、訴訟になったことに伴う事実上の影響等を考慮すれば、私は彼らが法的措置に出られるとは考えてこなかった。所詮、机上の空論とか、仮定の話であろう、と。ただ、どうしても訴訟を提起するというのであれば、こちらとしても受けて立つ。その代わり、訴訟の過程でどのような情報が飛び出しても一切文句は言わないでもらいたい。ちなみに、近時の刑事訴訟法改正によって公訴時効期間が延長されたり、その後、一部について時効が撤廃されたりしたが、名誉毀損罪の公訴時効期間は何ら変更されていない。にもかかわらず、「岩田は人を殺したのだから、このようなプライバシー剥奪による捜査も甘受すべきだ。そして、公訴時効も撤廃されたのだから、いつまでも岩田を起訴することができる」という誤った理解を世間に植え付ける可能性のある話がどこからともなく漏れ聞こえてきた。「人を殺した」なんて言われても私は困惑するのみであり、公訴時効制度に関する法改正の動きと国民の関心の高まりに乗じて、巧みに私に不利な世論を形成しようと工作を試みた人間がいた可能性がある。そもそも、名誉毀損罪が成立すると仮定した場合の3年の時効期間満了の間際に「時効制度のあり方」という問題提起がなされたこと自体に、何らかの政治的意図があったのではないかとの疑念も拭えない(資料21参照)。

 

6 まとめ ~魔女狩り人民裁判~

 このように、少なくとも本件においては、法律が「岩田潰し」という政治的意図を実現するための単なるツールに成り下がっているのである。法律論を展開する上での出発点とも言うべき「岩田の犯罪事実」なるものの特定作業すら明確にしないまま、「岩田潰し」という目的に利用できる法的な話だけをパッチワークのように切り貼りしてあたかも法律論であるかの如く偽装し、また、自説の弱い部分から世間の目をそらすため「潔白なら…」云々といった誤魔化しや「未熟な受験生」云々といった私の信用性を低下させる話を世間にばら撒き、裁判所の外で法律を知らない一般人に対して一方的に「あるか?ないか?」の二者択一を強いて突き放す。それと並行して私の人格攻撃を続けて、世間をして「岩田は『悪人』である」と信ぜしめ、正式裁判の代わりに裁判所の外でなされる人民裁判によって私に「犯罪者」の汚名を着せて社会的に葬り去ろうとしたのである。講義中にとても嬉しそうな顔をして「前科者」という言葉を連呼していた京都の憲法学者の顔がとても印象に残っている。このような一連の工作活動に対し、私は呆れ返っている。多数決原理が支配する政治部門で救済されない少数派の「人権保障の最後の砦」であるはずの司法が、自ら法律論を偽装した多数派工作によって「岩田潰し」という政治的意図の片棒を担いでいたのである。近時、「法令遵守」とか「コンプライアンス」といった話に対する世間の関心が高まってきており、世間が「法令違反」という言葉に弱くなっているところにつけ込んだ卑劣な工作活動であろう。

 

第7 誤魔化し・すり替えに終始

 これらが単なる「一方当事者の立場からの見方」にすぎないといえるだろうか。彼らはしきりにそういった抽象論を振りかざして私の話の信用性を低下させようとするのだが、それでは、もう一方の当事者である彼らの話は信用できるものなのであろうか。いつまで経っても彼らは私に対して「処分」の理由その他自己の主張内容を示さず、代わりに世論工作や口裏合わせにばかり熱心であるように見える(資料22参照)。また、私に対して「説明責任」という言葉を浴びせかけ、黙っていれば「無責任」とか「逃げた」とのレッテルを貼り、喋れば喋ったで揚げ足をとったり、さらなる失言を誘ったり、都合の悪い話が出てくれば「言い訳」のレッテルで締め括る。確かに、形式的には私の話は一方当事者の主張である。しかし、他方当事者の主張内容に合理性がなかったり、ダンマリを続けているのであれば、擬制自白的発想により、いつまでも私の話を単なる「一方当事者の主張」と片づけられるものではあるまい。漏れ聞くところによれば、私のいないところで私に「嘘つき」という人聞きの悪いレッテルを貼る人もいるようだが、ここでも私のいつのどの話がなぜ「嘘」と断定できるのかについて具体的な話は何一つ聞こえてこない。私の話は「一方当事者の主張」にすぎないが、彼らの貼るレッテルは無条件に客観的事実と認められるかのような風潮が何年も続いたことは極めてアンフェアであろう。

 しかし、当初は「責任追及」なるものを声高に主張していたが、数年を経て、私に対して「言い訳」その他のレッテルを貼り続けることにも限界が見え、次第に「岩田の責任追及」から「自分達の責任逃れ」的な言動へとトーンが微妙に変化していくのである。そして、その手段としては、私の人格的非難を続け、「本件が解決しないのは岩田の人格的欠陥に起因する」という話にすり替えることによって、本件の恣意的なプライバシー全面剥奪処分と、そのような状況下で好き勝手し放題をしてきた自分達の問題性を覆い隠そうとしていくのである。最近の私に対する不満の内容を調べてみれば、論理的に反論できないゆえに私の人格的欠陥の話にすり替える傾向が顕著であろう(資料23参照)。しかし、そのような文句こそ「子ども」の所業であろう。

 

第8 「ある・ない論争」の意味と変質

 法律家工作員らの暗躍によって話が余計にややこしくなったが、既に述べたように、「ある・ない論争」という土俵自体が「岩田潰し」という政治的意図の下に設定されたものである以上、そこでの「論争」など所詮形式的なものにすぎず、初めから「ナシ」という結論を予定しているし、自然と土俵上には私に不利な判断材料ばかりが集まってくるのである。その結果、あたかも「勝負」はもうついているのに、私だけが悪あがきを続けて「言い訳連発」の見苦しい姿をさらしているかのようなムードが形成されていった。

 しかし、少なくとも巷間言われてきたような私に「犯罪者」の汚名を着せたり社会的抹殺を図る目的に出た「えせ法律論としてのある・ない論争」に関しては、もう実質的に終わらせたと理解している。相変わらず「ナシ」と一生懸命言い続けている人に関しては、本人の自己満足とか、「反岩田」の結束とか踏み絵、権力者への忠誠のアピールとか忠誠の競争とかいったもの以上の意味を有しないと理解させてもらう。他方、このような不利というか結論先にありきの土俵の上でなお「アリ」等と突っ張りを見せてくださった方のお名前は、私としても出来る限り忘れないでおこうと思う。ただ、お気持ちはありがたかったけれど、そもそも問題設定自体がおかしいはずであるから、立派な社会的地位をお持ちの方々を不毛な論争に付き合わせてしまい、申し訳ないという気持ちの方が強かった(資料24参照)。

 ただ、このような「えせ法律論としてのある・ない論争」と並行して、「岩田は人間的に優れているといえるか?」とか、「要職に祭り上げるだけの資質があるか?」等といった「人気投票としてのある・ない論争」もなされており、これは今日以降も続いていきそうな気配である。そもそも、「ある・ない論争」自体が法律論を偽装したものにすぎず、しかも、どのような場合に「アリ」で、どのような場合に「ナシ」となるのか国民が理解しているはずもない。そのような状況において、一方的に「アリ」か「ナシ」かの二者択一の判断を国民に強いれば、問題を深く理解しないまま表面上の情報に踊らされた末、実質的には単なる人気投票に陥るであろうことは歴史の示すところである。そういう意味で、「えせ法律論としてのある・ない論争」が収束してもなお「人気投票としてのある・ない論争」に転化して継続していくことは必然であったろう。このような茶番を私1人の力で終わらせることはできない。国民が決めることである。私のことを嫌う人は私の些細なミス等を拾い上げて「ナシ!」と大合唱するであろうし、私に好意を寄せる人は「アリ」と突っ張ったり、「ナシ」派を偽装したりするのであろう。何にせよ、面倒な話だなと思うが、最近「アリ」とか「ナシ」とかいう表現を避けて「ございます」調を用いている場面が増えたように感じることは注目すべき動きだと思う。私としては、ありがたい反面、このような論争が生じたことによって色々とやりにくくなってしまっていることが申し訳ない。なお、近頃は「ナシの強要」に留まらず、「岩田からの協力要請は断れ」とか、「岩田による『悪影響』を拡大させないために、岩田を疎外して孤立させよ」といった、より直接的なメッセージも発せられるようになってきている(資料25参照)。彼らの焦りの現れともいえよう。

第9 悪しき完璧主義

 私自身としては、そもそも「ナシ」派の方々の一部が主張するような、「要職に就く人物は完璧な人間性と能力の持ち主でなければならない」とでも言うかのような考え方には共感できない。漢字の読み方を間違えたり、バーで酒を飲んだりすることが、彼らが言うほど悪いこととは思えない。そもそも、私は物事に優先順位をつけて、集中すべきところで頑張るが、それ以外の場面ではアホになる男だ。そのため、私の行動を逐一追っていけば、ギャラリーの方々の「期待」なるものに応えられない場面もしばしばでてくるのであろうが、それは仕方がないであろう。「そんなことでは若い人の見本にできない」という見方もあろうが、私としては「見本になるところは真似すればいいし、見本にできないところは反面教師にしろ」とでも言うしかない。私は全人格をあげて他の人の模範になろうなんてことは考えたことがないし、そもそも、現在のような状況では不可能である。それに、「岩田を模範に…」なんて話を高校時代の教師らが聞いたら、笑いが止まらないであろう。「品格」のある人や、そうあろうと努力する人は尊敬するが、些細なミスをあげつらった揚句にその人の全部を否定するかのような「品格バカ」は本末転倒であろう。私はそのような人々の期待に応えるつもりはない。

 

第10 プライバシー侵害の事後的な正当化およびseaside storyの信憑性の弾劾

 今日においては、プライバシー侵害(憲法13条に明確に違反)を手段として2006年以降の私のミスや欠点を掻き集め、それらに基づいて「岩田は人格的に欠陥がある」という話を創り、さらにそこから「このような悪人との関係では2005年12月(推測)時点のプライバシー侵害行為もさかのぼって正当化される」という暴論を世間に浸透させようとする法律家工作員が少なからず存在する。しかし、プライバシー侵害に踏み切った時期が2005年12月頃と推測される以上、その具体的理由はそれ以前の私の言動であるはずであり、このような試みは、2005年12月時点での処分理由を示すことができない弱点を後付けによって補うために苦し紛れになされているものにすぎない。しかも、その手段はプライバシー侵害という明白な違法行為である。このような法律家らは、さらに「岩田の人格的欠陥」を根拠として、「岩田はネット上に都合の良いことばかり書いて自分を不当に大きく見せ、世間を欺き続けてきた詐欺師であり、彼の文章は何一つ信用できない」という話にまで発展させようともしている。しかし、このような評価は不自然であり、常識人であればむしろ、「岩田は自分を売り込んだり、器用に立ち回ったりするのは苦手らしい」という理解に達するのではないか。それに、詐欺師云々との主張は、「国民は岩田にすら騙されてしまうほど愚かな存在である」という理解を前提としなければ成立し難いであろう。本来、国民はこのような軽率な「エリート」達に対して、もっと怒ってもいい場面であろう。一連の工作活動の背景には、受験生の段階から世間の注目を集めるに至った私に対する法曹界・受験界の嫉妬心があろう。法曹界も「嫉妬の海」である。

 

終章 人間は変わっていない

 法律家工作員らの暗躍により(資料⑯参照)、京都にいた時期を挟んで私に対する世間の評価が乱高下することとなった。しかし、私という人間自体は、ホームページを開設した2004年2月20日当時から変わったとは思っていない。ただ、歴史等を色々と勉強した反面、司法試験受験生としての力量は年々低下の一途をたどっているであろう。また、工作活動に起因するとはいえ、京都時代に学外で私に対する「失望」を口にしていた人々に対する不信感が高まったことも否定できない。それ以外は、「山はありし日のまま」であろう。

 なお、予め申し上げておくが、私が司法試験受験生であること、そして、今日までプライバシー剥奪処分が継続していること、これらを認識していながら、なお他の業界の価値観や倫理等を次々と私に押しつけてくる人々は、私に不可能を強いるものであって、私としては直ちに自分に対する敵意の現れと理解させてもらう。司法試験はそのような人々が考えているような甘い世界ではないし、見ず知らずの人々に説教される筋合いもない。このような対応には例外を設けるつもりはない。いささか図々しすぎるのではないか。また、私に対する処分の恣意性を説明しないまま、人格や手法等といった話にすり替える試みも同様である。後からは何とでも言える。

 私からの「次の一手」は、あなた方次第である。

以上