王朝期1 ~古代から律令へ~

      ひかりのテーマ

特定商取引法に基づく表記

2 大和朝廷の成立

 ご存知の通り、我が国には「万世一系の天皇」及びご家族の方々がおられます。実は世界を見渡してみますと、極めて特殊なケースといえるのですが、この点はまたの機会にご説明します。天皇家が今日に至るまで発揮してきた存在感自体は、多くの国民にとって異論のないところでしょう。そうであれば、さしあたり、初代天皇とされる神武天皇に始まる、天皇を中心とした豪族連合としての初期・大和朝廷あたりが、「我が国の歴史」の始まりと考えておくのも、1つのアプローチといえるのではないでしょうか。

 ただ、中国の『魏志倭人伝』の記述によると、我が国には3世紀頃に「邪馬台国」という権力が存在していたとあるため、これと大和朝廷の関係が問題になります。すなわち、大和朝廷と邪馬台国との間に同一性が認められるのか、仮に認められるのであれば、邪馬台国の歴史も含めて我が国の歴史と理解することも容易でしょうが、認められないのであれば、両者はどのような関係にたつのか、あるいは、邪馬台国は大和朝廷に征服されたのか、そういったことも問題になり得ます。

 とはいえ、大昔の出来事でありますから、今日の時点からこの頃の我が国の動静を浮かび上がらせようとすると、その時代の我が国の人物によって著された文書に乏しいが故に、どうしても「歴史学」に加えて「考古学」の要素も相当程度強まるというのがこの時代の特徴といえましょう。

 なお、邪馬台国の頃から大和朝廷の初期にかけての海外の動向をいくつかご紹介しておきますと、ヨーロッパではミラノ勅令、ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の滅亡、中東ではササン朝ペルシャ、エチオピアではアクスム王国の時代、南アジアではグプタ朝が興るとともに東南アジアのインド化が進み、お隣の中国大陸では我が国でも大変人気の高い『三国志』の時代から五胡十六国時代、そして、鮮卑による北魏の建国の頃に相当します。

3 大化の改新及び壬申の乱

 6世紀の前半頃に我が国に伝来した仏教は、現代日本においても深く社会に根付いております。普段は信仰を意識していない現代日本人も、無意識のうちに様々な形で仏教から文化的恩恵を受け、そのもとで生かされているといえましょう。とはいえ、仏教が伝わった当初は、その受容をめぐり我が国に対立が生じ、これも一因となって、中大兄皇子と中臣鎌足が、当時の権力者であった蘇我入鹿を討つという政治的大事件が起きました(645年)。

 ただ、このページでは宗教対立とは別に、外的な要因を強調しておきます。中国大陸では、華北に北魏が登場して以降、隋、唐という地域覇権国家が東方への圧力を強めておりました。唐は隣国の高句麗征討のために新羅(朝鮮半島東部)と結ぶのですが、これは中国兵法の定石ともいえる遠交近攻のように見えます。唐という地域覇権国家の圧力によって、まずは朝鮮半島に政治変動が生じ、やがて我が国にも波及していったという見方も可能でしょう。つまり、覇権国の周辺国は、政治的にも社会的にも覇権国の影響にさらされるということがわかります。

 ちなみに、事件後の推移も付言しておきますと、唐は新羅と結び、これに高句麗(現在の朝鮮半島北部)・百済(朝鮮半島西部)及び倭(当時の日本)が対抗するという構図のなかで、我が国は白村江の戦い(663年)で手痛い敗北を喫しました。この敗北により百済の復興は望めなくなり、百済から多くの難民が我が国に流入しました。中大兄皇子は既に天皇に即位していたのですが(天智天皇)、対馬や瀬戸内海沿岸での築城を進めるとともに近江大津京に遷都するなど、唐・新羅連合軍に対する防備を固めております。西国の警護の任務に就いた防人の和歌も残っています。

 天智天皇の死後に起きた壬申の乱(672年)も、現代に生きる日本人にとって考えさせられる出来事ではないでしょうか。中大兄皇子には、大友皇子というご子息とともに、大海人皇子という弟さんもおられ、天智天皇の死後、どなたが皇位を継承するかが問題となりました。長子継承という観点からは大友皇子が即位すべきとも思えますが、結論的には武力衝突の末に大海人皇子が即位して天武天皇となりました。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

天智天皇 (古代) [ 森 公章 ]
価格:2530円(税込、送料無料) (2021/4/8時点)

 

 

 今日においては、皇位継承をめぐる武力衝突は非現実的と思われますが、それでも、それに至る前段階の「二重権威問題」には、宮内庁においても十分配慮されているものと思われます。天武天皇が生前に指示していた建国神話の編纂は、その妻である持統天皇の時代に完成し、「天皇」という名称や「日本」という国号もこの頃までには使用されていますので、中国大陸とは異なるわが国独自のアイデンティティーが確立された時期といえましょう。

 なお、この頃の海外の動向をご紹介しておきますと、ヨーロッパではユステイニアヌス帝が即位して東ローマ帝国の版図が最大化し、我が国の民法学者がごく稀に自説の論拠としても用いるローマ法が整備され、中東ではメッカがイスラムの聖地となり、東南アジアではインドから南シナ海に抜けるルートが開拓されたことでマラッカ海峡の重要性が高まり、中国では隋のもとで科挙が始まり、メキシコではテオテイワカンが滅亡した頃に相当します。

 

4 藤原京から平城京へ

 大化の改新の項目で名前のでた中臣鎌足は、後年、「藤原」という姓を名乗ることを許されます。藤原家は不比等(鎌足の子)の子の代で北家・南家・式家及び京家の4家に分かれ、以後、この藤原一族が朝廷において重きをなしていくことになるのです。藤原不比等は、中国大陸から吸収した知識を取り入れつつも、中国とは異なる我が国独自の律令の完成に尽力しました(大宝律令の完成:701年)。また、平城京の時期に『古事記』(712年)・『日本書紀』(720年)も完成し、建国神話を通じて当時の我が国の目指すべき方向性が示されました。

 後の歴史を理解するためにも重要な部分ですので、少し神話についてご説明いたします。おさえておくべきは、「神の世界である高天原には、天照大神がおられる。その子孫であるニニギノミコトが日向高千穂に天下った。ニニギノミコトは、天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅を受けた、すなわち、ニニギノミコトの血統が地上のみずほ(MIZUHO)の国を治めることになった」という部分です。今日において、官僚が省庁を離れた後に、高給で民間のポストに迎えられる現象を「天下り」といいますが、それはここに由来します。

 徳ある者には天命が下り、無徳の者にとってかわるという易姓革命の思想は採らなかったため、中国大陸のような王朝交代は起きなかったということです。後に政治の実権が朝廷から幕府に移っても、時の権力者が天皇家にとってかわることはありませんでした。実質的な権力が誰のもとにあっても、「国体」に変更はなかったのです。ただ、海外の方にとっては、誰を相手に交渉すればいいのかわかりにくいという不都合もあり、それが表面化したのが幕末の「条約勅許問題」でした。

 平城京においては、鎮護国家を志向した聖武天皇のもとで、大仏が造営されました(開眼供養:752年)。また、土地私有への途が開かれ、荘園と呼ばれる私有財産が生じるとともに、私有財産の自衛のための自警団が、後年の武家社会の伏線ともなりました。唐から鑑真が来日し、唐招提寺が建立されたのもこの時期です。ちなみに、この時代も相変わらず我が国は留学生を唐に送って唐の知識や文化の吸収に努めていたのですが、我が国の側ではこのような留学生らを「遣唐使」と呼んでいたのに対して、唐の側ではこれを「朝貢使」と呼んでいます。当時の我が国にとっては、中国大陸との関係こそが「国際社会」でした。

 ここで、古くて新しい問題に触れないわけにはまいりません。「万世一系」とは、父方をたどると天皇にたどり着く方のみで皇位が継承されてきたことを意味します。系図をご覧になれば、そのことがご理解いただけるでしょう。仁徳天皇系の皇位継承が困難になった際には、わざわざ血統的には遠い継体天皇をお迎えすることによって「万世一系」を維持しています。「名は体を表す」と言いますが、継体天皇の即位にはまさに国「体」を「継」承する意味がありました。宗教勢力の政治容喙が問題化した際には、天武天皇系に代わって天智天皇系が皇統を継ぐようになりました。

 しかしながら、今日において我が国は深刻な皇位継承問題を抱えております。安定的な皇位継承のための皇室典範改正論議において、女性天皇に加えて女系天皇も認めるべきという主張もなされていますが、先例のある女性天皇(系図のピンク色の天皇)とは異なり、女系天皇を認めるということは、これまでの「万世一系」が終焉を迎えるという王朝交代にも比肩すべき重大な意味があるということをご理解ください。我々は、自国が始まって以来の重大な局面に居合わせているのです。この問題においては、「歴史上、女性天皇は数人おられた」という歴史的事実が重要な考慮要素となっておりますが、女性天皇8人のうち6人は、平城京に都があった頃までに即位されているということもあわせて申し上げておきます。

 なお、この時期の海外の動向を挙げてみますと、ヨーロッパではヴァイキングがスカンジナビアからイングランドに侵入し、対岸ではピピン3世が即位してカロリング朝を創始しており、中東ではウマイヤ朝が興ってイベリア半島に進出し、また、アッバース朝も興っており、アフリカではアクスムの商人がイスラム勢力に押されてアラビア半島南部から撤退し、中央アジアではウイグルが突厥の支配を脱してモンゴル高原に遊牧国家を興し、中国では聖武天皇の崩御と同じ年に楊貴妃が亡くなっています。

5 平安遷都

 桓武天皇は794年に平安京に遷都しましたが、その理由としては、平城京の末期に仏教勢力が強くなりすぎたことが挙げられています。これ以降、明治の「天皇さん」の東京行幸(事実上の遷都:1869年3月)までの間、政治の中心として、また、文化的憧憬の対象として、京都は我が国において特殊な地位を占め続けることになります。ちなみに、「東京」という地名は、「東(EAST)の京」という意味あいがあり、「京都」は、「京」も「都」も「CAPITAL」という意味あいがあります。

 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられて(797年・804年)蝦夷征討に向かったのも、桓武天皇の時代です。これにより、我が国の中央の政治権力の支配は現在の東北地方にまで及ぶこととなりました。また、この頃に賜姓平氏が始まり、臣籍に降った平氏は東国との関係を深めていき、やがて坂東平氏という武士団に成長していき、嵯峨天皇の時代には賜姓源氏も始まります。鎌倉開府前の源平の戦いには、坂東における桓武平氏の台頭や、これと清和源氏のつながりが伏線としてあったのですが、ここでは立ち入りません。桓武天皇の時代には、最澄や空海が遣唐使として中国大陸に派遣されています。前者は天台宗を、後者は真言宗を我が国に伝えましたが、834年の派遣を最後に遣唐使の派遣は中断されます。

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

桓武天皇/村尾次郎【1000円以上送料無料】
価格:2200円(税込、送料無料) (2021/4/8時点)

 

 

 

 

 

6 藤原家の政治

 嵯峨天皇が崩御した頃から、藤原氏が政治力を強めていきます。まず、藤原良房が清和天皇(858年即位)の摂政となりますが、これは人臣としては初めてのことです。良房の死後は藤原基経が摂政を引継ぎ、やがて人臣初の関白となります。基経の関白就任後、藤原氏の栄転とは対照的に、菅原道真が讃岐(香川県)に追いやられていますが(886年)、帰任後は宇多天皇(即位:887年)の信任を得て異例の出世が始まります。しばらく中断されていた遣唐使の廃止も、道真の提案による決定です。以後、足利義満が「日本国王」に封じられるまでの約500年間、日中の公式の国交が途絶えることになります。

 しかし、藤原時平(基経の息子)にとって道真は目障りな存在であり、また、藤原氏以外の人々の間でも、異例の出世を遂げた道真に対する嫉妬が渦巻いていたため、醍醐天皇への代替わりのタイミングで道真は讒言によって太宰府に左遷され(901年)、2年ほどで亡くなりました。道真の死後、朝廷に不幸が続き、疫病も流行したことから、人々は道真の祟りではないかと畏れたといいます。現在、道真は「学問の神様」として、各地の天満宮に祀られています。藤原時平の死後、その弟の忠平が朱雀・村上天皇の摂関を務め、忠平の子の世代から、藤原氏の外戚化の動きが顕著になっていくのです。

 藤原氏は政敵を葬って権勢を強めていくのですが、ここで藤原氏の権力獲得パターンを申し上げておきます。藤原氏の家に女性が生まれると、その女性を天皇に嫁がせて、天皇の子を生ませるのです。そうすれば、その嫁いだ女性の父親は天皇の義理の父となるだけでなく、将来の天皇の母方の祖父の立場にたつことになります。このように、天皇家との血縁関係によって自らの政治的立場を高めていったのです。

 このような中央政界の権力闘争のもとで、地方の民は疲弊していました。中央政界では藤原氏及びその取り巻きと、それ以外の中流・下流貴族との間で二極化が進行していました。藤原氏と藤原氏に取り入る上流貴族達は良い思いができますが、中流以下の貴族はもはや中央政界に希望を抱けない。そこで、彼らは地方に活路を見出し、地方の役人として赴任して現地の民から搾取するのです。そして、それによって得た財を中央の有力貴族に差し出して中央との関係を強め、その後ろ盾を得ることによってさらに搾取するのです。

 そのような状況下において、坂東平氏の1人である平将門は、常陸国府を襲撃して(939年)「新皇」を自称しました。我が国の内部において、京の天皇と坂東の新皇が、一時的であれ並立することとなり、これは我が国の歴史上、極めて異常な事態といえましょう。また、藤原純友も瀬戸内海地方で中央政界に反旗を翻しました。承平・天慶の乱と呼ばれるこの反乱自体は、ほどなくして平貞盛や藤原秀郷らによって鎮圧されましたが、平将門の乱は、日本の辺境であった当時の坂東による中央政界に対する反抗の第1弾だったと理解することも可能でしょう。

 その試みは、将門から約250年後に源頼朝によって成就することになるのですが、清和源氏としては、963年に多田満仲が父・経基王(賜姓源氏)を六孫王神社(京都府)に葬り社殿を建立するなど、ようやく歴史の舞台に現れ始めたにすぎませんでした(六孫王神社公式見解)。

 醍醐天皇とその子である村上天皇の時代は、一時的であれ天皇親政が実現した時代ともいわれています(延喜・天暦の治)。しかし、中央政界では、966年に摂関政治を全盛期に導いた藤原道長が生まれて役者が揃い始め、翌967年には村上天皇の崩御を受けて藤原実頼(忠平の子)が冷泉天皇の摂政に就任して、いよいよ外戚化をめぐる攻防が激しくなっていきます。ここからは、中央政界の権力闘争に絞って、やや詳しめにご紹介します。