頼朝が平家に講和をもちかけた原因等(濱田浩一郎氏の考察)

 東洋経済オンライン(2022年3月28日)で濱田浩一郎氏が、【頼朝と木曽義仲の関係】について論じておられましたのでご紹介します。頼朝が平家に講和をもちかけた理由として、同氏は義仲の脅威も指摘しておられます。2つ目の下線部分は、中国風に言えば、二虎競食(複数の他勢力を争わせ、弱体化したタイミングで自勢力が漁夫の利を得る戦略)ということになりましょう。

 源頼朝は治承4(1180)年8月中旬に挙兵したが、それからひと月も経たない9月上旬には、信濃国の源(木曽)義仲も平家方に対し、兵を挙げる。

 頼朝は石橋山の戦いで敗北するも、その後、勢いを盛り返し、相模国の鎌倉を根拠とし、着々と地歩を築いていく。一方、義仲も信濃国を中心にして、勢力を拡大させ、養和元(1181)年には、平家側の越後国の豪族・城助茂の大軍を横田河原の戦い(長野市)で破る。

 関東地方で勢力を拡大させていた両雄は、いずれ衝突する運命にあった。頼朝は、父・義朝の仇というべき平家よりも、義仲を大いに警戒していたふしがある(頼朝は平家に和睦を持ちかけたことがあるが、それも勢力を拡大させていた義仲への警戒心もあったと思われる)。(下線:蒼天 以下同様)

 (中略)

 頼朝と義仲の対立について、『平家物語』では源行家を義仲がかくまったことによるものとしているが、『延慶本(平家物語にはさまざまな種類があり、その1つ)』はそれとともに、義仲と平家が縁戚となって、頼朝に敵対しようとしたことを武田信光(甲斐源氏)が頼朝に告げたことを理由に挙げている。しかし、義仲は「頼朝と自分が仲違いすれば平家が喜ぶのみ」として、頼朝との敵対を避けたとする。『延慶本』では、頼朝の側から「成人した子息をちょうだいしたい」と義仲に要請したという。

 (以下略)